第11話 節度ある男女交際 ①

 そんなことがあって、頃は1年目の5月も上旬。



 前回のお話のあと、長瀬ゆかりは悩んでいた。


 あのピアノ教室でのことは、ちょっとした事故みたいなもので、お互い忘れて元通りの友達同士ということにしましょう。


 というふうにキチンと話をつけておかなければ、と考えていた。



 ところが、草壁は学生で、こっちはピアノを教えていたりして、生活のサイクルがかなり違う。


 案外と、顔を合わさないものだった。



 が、実際のところ微妙に草壁を避けている自分にも気づいていた。


 ああいうことの後で、どんな顔して話しをしていいのかもわからない。かと言ってこのまま顔を合わさないでいれば、まるで自分が怒っているみたいじゃないか?


 自分としては、「お友達」というスタンスから一歩も進むつもりはないけど、かと言って変な気まずさを引きずったまま、「他人」になってしまうのも……イヤ。




 事情は草壁のほうも似たり寄ったりだったりする。


 ただ、彼のほうは、自分が「やらかした」と思っていた。



 いつものように商店街を通るわけだが、ゆかりのピアノ教室が開いている時なんかに、チラッと中を覗くと、彼女は、いつもソッポを向く。


 目を合わせたくないらしい。



 マズイ。


 怒らせたようだ。





「あーあ、これじゃ、私怒ってるみたいに思われてるのかな?」



 寝室で、部屋着にしているパーカーを脱ぎ捨てながら、思わず独りごとを口に出してしまうゆかり。


 下着姿のまま、クローゼットを開けて今日は何を来てゆこうかと考えながら、ふと思う


 けど、じゃあ、彼に会ってなんて言ったらいいの?――と。



 本日は、スカートではなくパンツスタイルにしてみようかな?この小さな水玉のシャツに合わせて、と。



 コーディネートが決まれば、あとは髪を整えて。


「あんまり悩む必要ないわよ」


 鏡台の前に座って、鏡の中の自分にそんなことを話しかけながら、髪を梳き通す。


 そういえば、最近、ここに座る時間が以前より長くなったことを、自分自身でも意識しだした。


 何故か?――だって、子供とは言っても教室の生徒にスッピンでレッスンするわけにもいかないでしょ?


 ウソ?――ただの当たり前の身だしなみじゃない。大げさに考える必要ないのよ。


 誰を意識しているの?――別に……


 誰を意識しているの?――ただのお友達だもん、彼とは


 ――それでいいのよ。



「だから、ああいうアクシデントが尾を引かないように、きちんと言うべきことは言っておかないと」



 悩む必要なんてないんだ。


 こっちが動揺してるなんて思われたら、向こうは付け上がってくるかもしれない。


 私は、あなたのあんな行動なんて、なんとも思ってないですから。


 だから、これまでと同様、いいお友達でいましょうね。


 というような内容のことを、年上のお姉さん的な威厳と余裕を見せつつ、彼にはっきり示したらそれでいい訳だ。



「簡単なことよ」


 リップを軽く引き終わると、鏡の中の自分にそう言い聞かせて、立ち上がるゆかり。



 そろそろ教室の時間。


 バックを肩に掛けて、片手に譜面を持つと、ドアを開けて玄関に出た。




 出たところに、彼が立っていた。




 ゆかりは玄関を出たところに彼が立っていたと思ったのだが、別に待ち伏せしていたわけではない。草壁は草壁の都合で、お出かけしようとしてただけである。


 当然のことだが、そうして、部屋を出たところで、まるで追いかけるようにして、お隣のゆかりが飛び出してきたことに、彼も驚いた。



「あっ!……」


「……」



”不意打ちっ!”


 心の中で、思わずそう叫ぶゆかりだが、別に不意打ちではない。



 最初に口を開いたのは草壁だった。なにしろ、目の前で、怖い顔してゆかりが仁王立ちしていたわけだから。


「あの、このあいだは……」


 ”すみませんでした”と続けるつもりだった。



 が、この場合、動揺が大きかったのは実は、草壁よりもゆかりのほうだったかもしれない。草壁が怒っていると見えた表情も、実は、混乱の表情だった。


 ――何か言わなきゃ、何か言わなきゃ……


 頭が真っ白になりながら、ただそれだけを思う。しかし、台本の上がっていないお芝居。自分がこれほどアドリブに弱いとは思わなかった。



 草壁をじっと睨みつけながら、ゆかりが口を開いた


「今度からは……」


「はい?」


 草壁、ゆかりに睨みつけられながら、彼女の言葉を待った



「ちゃんと節度を持ってください!!」


「……」



 せ、節度?



 言い終わると、ゆかり、クルッと踵を返して、出てきたばかりの部屋の中に引き返してしまった。



 玄関ドアの前では、呆然とした草壁がそのままポツンと取り残された格好。


「何?その中学校の生徒指導みたいな言葉は……」




 そして、なぜか、自室に戻ってしまったゆかりはというと、持っていた荷物も放り出して、そのまま一人テーブルの前で頭を抱えていた。



”やらかした!”


 そう感じていた。



 言いたかったことが、あの言葉で全部、微妙にずれた。受け取り様では、彼の気持ちは受け入れているみたいじゃないか?もう少し紳士的にしてくれたら、オーケー?イヤイヤ違うから。それに言葉遣いのセンスも最悪!夏休みの生活指導みたい!……節度って!――暑いからと言って冷たいものばかり摂ってはお腹をこわしますよってか?……自分に突っ込んでも仕方ないけど。それも、厳しい生活指導の先生の言葉というより、野暮なクラス委員長だ。威厳も余裕もあったものじゃない。



 ゆかり、自分が恥ずかしくて、机に突っ伏して、自分の腕の中に顔をうずめて、ジタバタ。


 さっき念入りにしたお化粧もすっかり乱れちゃう……。うわぁ……どうしよう、もう、ダメだ。私。




「あの人、どっか出かけるつもりじゃなかったのか?部屋に引っ込んじゃったけど……なんなんだったんだ?アレ」


 そうして、草壁が一人首をかしげながら、エレベーターに消えて行ったその約30分後、ゆかりも、草壁がいないことを確かめながら、こっそりと部屋を後にした。

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