第10話 はっきりしないで ③

「私はね、この商店街で仏壇屋をやっているものなんだがね」



 すっかり薄くなった白髪頭のずんぐりのおじさんというより、はっきり老人。もう年も70になるこのじいさんが、不機嫌そうな顔で仁王立ちで看板の行く手をさえぎった。


「はあ……」


 看板屋の社長、看板を運んでピアノ教室まで来て、いきなりそう言われたって、なにがなんだか。




”機嫌よくピアノに触れるようになったのって、いつ以来だろう?”



 そんなことを考えながら、鍵盤の上に指をすべらせるゆかり。


 ピアノに触れるということは、今までの彼女にとっては真剣勝負。


 だから、長年のクセでいつもなら、条件反射的に表情は引き締まるはずなのに、今日はおだやかな顔での運指。



 別に誘われたって思われてもいいか。


 実際、久しぶりに誰かに聞いてもらいたいなんて思ってたのは本当だし。


 それが、音大の担当教授や、同窓生とか、クラッシック好きで、変に知識や好みがある人なんかより、こういう素人相手に弾いているほうが、気が楽。


 弾いてて楽しいと思うのは、ただそれだけの理由。


 そう、私達、ただの友達だもん。




 そのとき、目の前が急に薄暗くなったことに気づいたゆかり。


 ”なんだろう?”と思って、ふと目をあげると、例の看板が教室のガラス壁の前にデーンと突っ立っているのが見えた。ただし、教室の中から見えるのは、看板の裏側の木枠とかが出ている部分なのだけど。



 が、そこにもっと大事なものが映っていた。



 教室の中は明るく、その外は看板が一時的にアーケードの明かりを遮っているものだから、教室のガラス壁は鏡のようになり、そのときの自分達の姿を映していた。。


 この場合、大事なのは、自分ではなく、草壁である。


 自分より、少しピアノの鍵盤から距離をとって座っているせいで、左ナナメ後ろに座っている草壁の様子、それは……。




 その外では、相変わらず、不機嫌な顔で腕組みしている仏壇屋と、でっかい看板を片手で支えながら、このじいさんの今のところ意味不明な怒りに仕方なくつき合わされれている看板屋の社長の姿が。



「長いこと、この商店街組合の組合長もしている」


「そうですか」


「一体、どうなってるのっ!?」


「何がですか?」


「ここで商売しようって言うのに、私のところに挨拶一つこないじゃないか!」


「知りませんよ!うちらは、ただの看板屋で、この看板を今日掛けてくれって言われて来ただけですから」



 思わず持っていた看板を地面に置いて立ててしまう看板屋。後ろの若い衆もそれに合わせて看板を下ろして地面に立てた。


 なんか知らないけど、目の前でややこしい話がはじまりそうで、めんどくせえ。


 若い衆、ふと見ると、看板掛ける予定の店の目の前に、別の業者の軽トラック。


 あれ邪魔じゃん。


 それに、よく見ると脚立、やっぱり要りそうだし。社長、現場の下見、いい加減だよな。



「社長、やっぱり脚立いりそうだから、俺とってきます。あの店の前の軽トラ、社長、ちょっと、どくように言っておいてくれませんか?」


「そうだな、じゃあ、脚立持ってきてくれ」



 という訳で、地面にそのでっかい「宇宙堂」の看板を立てかけたまま、若い衆、引き返していった。




 一方、ゆかりの演奏を、一歩さがったところに腰掛けて聞いたいた草壁であるが。



 あ、この曲知ってる……たしか、カノン……バッハの。


 ていうぐらいのものである。気楽なのはいいが、ほんとうに聞かせる甲斐があるのだろうか?




 しかし、彼のほうは真剣だった。ピアノを聞くことにではない。


 真剣に「好きです」と言っていた。



 ただし、それは声には出せなかった。彼女に聞こえないから言えた無言の告白。もし本当に言ったら、拒絶されるような気がしたから。それも、とても冷たい形で。


 だから、彼女の横顔を、時折見え隠れする、睫毛の先を感じながら、心の中で何度も呟いていた。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 ふと目を上げたゆかりに見えたのは、そんな彼の熱い眼差しだった。


(草壁さん、私のことジッと見つめてる)



 体に電気が走ったような気がして、思わず身をすくめるゆかり。


 それは、何かの予感。あるいは……期待?



 動揺が彼女の指先をもつれさせた。


 ”イケナイ!!”



 素人の草壁でも、旋律を外せばすぐにわかる。自分の密かな告白がまさか読み取られたとは気づいてない彼が、突然の変調にオヤッと思っていると、演奏はピタッと止まった。



 指を止めたゆかりは、少し俯き加減になると、重く垂れた黒髪の向こうで、冷たく言い放った。


「あの……真面目に聞いてくださいね」


 えっ、急に説教される覚えはないけど。


「……ちゃんと聞いてましたよ」



 草壁の言葉を聞いたゆかり、顔を彼のほうに向けると、今度は彼を責めた。


「ウソ!人の顔ばっかり見てたくせに!」


「……」


 なぜバレた?けど、ゆかりにそう言われて、言葉につまりながら目を泳がせているということは「はいその通りです」とあっさり認めたというわけだ。



 その様子を確認したゆかり、あきれたような顔をしながら、再び鍵盤のほうに向かうと、譜面台の譜面を手持ち無沙汰気にパラパラとめくりながら言った。


「ほんと、いい加減な人」


 バレたのなら、もうこのさい、開き直っちゃおうかと半分思っている草壁。


「なにがですか?」


「はっきりしないんだから」


 こういうことを言うときの彼女は、説教しているというより、甘えているようにも見えた。


「……はっきりさせたら、いいんですか」


 彼の心は、この時点でほぼ決まっていた。



 自分が変なところにネズミを追い詰めたことに、このネコはまだ気づいていない。


 再びネズミのほうに顔を向けると、説教じみたことを言い続けた。


「あやちゃんってことで、いいじゃないですか?」


「どうして勝手に決め付けるんですか?」


「もともとあなたが言い出したことですよ」


 そうかも知れない、が。



「それは……あのときは……」


 たしかに、再会の時に他の子に気があったのは確かだけど、なぜ、そこを責める?


「そんなにコロコロ変るものなんですね。じゃあ、もうあやちゃんのことはどうでもいいんですか?」


「ど、どうでもいいって……」


 言うことが極端だろ?だって、彼女、かわいいし。


 そういうところで、変にもたつくのが、草壁の至らぬところ。


 ただ、こういう纏わりつきかたをするものだから、草壁のほうもだんだん腹も立ってきた。


 なんて勝手な言い草なんだよ。



「じゃあ、はっきりさせたらいいんですね!」



 ピアノの鍵盤を前にして、二人はじっと見詰め合っていた。


 今頃になって、ネズミのただならぬ気配を感じ取ったネコ、ここで転調、という名前の撤退策にでる。


「もう、いいです」


 と言いながら、鍵盤に指をのせると


「生徒が来ますから、帰ってください……」


 ショパンの幻想即興曲を奏でる前に、冷たい調子でゆかりがそう言い放った。


「ちょっと待ってくださいよ!」


 思わず立ち上がる草壁。見下ろすゆかりのほうは、そんな彼を無視して演奏を始めた。




「一体、何者なのよ?この店の主さんって」


 一方の看板、であるが、さっきから、ずっと教室の前で、看板屋の社長と仏壇屋(商店街組合組合長)が話し込んでいる間、ピアノ教室のガラス壁のどまん前にたてかけられたままである。


 だから、表の通路を行き交う人たちには、教室内の現在の微妙な様子は全くわからない。


 まあ、ちょうどいい目隠しにはなっている。


 教室の中の様子に気づいていないということでは、看板の前で話し込んでる看板屋の社長と仏壇屋にしてもおなじである。



「とにかくケチでしたね。私、商売やってて、これほどケチな方知りませんよ」


 看板屋の社長が苦々しげに言い放った。よっぽど悪い印象しかなかったのだろう。


「私は、何の商売の人か聞いたんだけど……ところで、どうケチなの?」


「値切り方が、とにかくケチクサイ。わたし、長年商売してるけど、1円単位で値切られたの初めてですよ」


「ホント?」


「こっちも最後は、使っている若い衆への人件費やら商品原価の話までして、これが限界だって言ってようやく納得しやがったよ、あの野郎。」


「そう……そんな人が来るのか……心配だなあ」


 組合長、話を聞くと、腕組みして考え込んでしまった。




(今の演奏の打鍵は、荒い)


 ゆかりの演奏を聞きながら、草壁にもそれが感じられた。


 何より、さっきちょっとだけ聞いたときとはまるで違う。


 旋律だけではない。目の前で演奏を黙々と続けるゆかりの表情だって固い。


 さっきよりやや猫背になった肩のあたりで「もう帰ってください、練習の邪魔です」という雰囲気をわざと出している。


 そんなゆかりの様子を黙って見下ろす草壁の顔もゆかり以上にこわばっていた。




 そして、突然、演奏が止んだ。



 草壁がゆかりの腕を掴んでいた。



 ハッと、ゆかりが首をめぐらすと、二人は自然と見詰め合っていた。


 ネズミがネコを追い詰めた。



「それで一度、商談成立かと思って、お茶とお菓子でもだして、簡単な打ち合わせしてたら、あの野郎、また値切りだしたんだよ?信じられるか?」


「ある意味大した人だけどね」


「こっちだって商売さ、いくらなんでもそんな金額だせない、嫌なら帰れって言ったって帰りゃしない。」


「なんで?」


「ヤッコさん、多分、こっちが出したお茶と茶菓子を全部食べるまでねばるつもりだったみたいでさ……」


「つまり、茶と茶菓子を全部平らげるためにわざと話を長引かせたってわけか?」


「最後には、根負けっていうより、だんだん話しているのがバカみたいになってね……。もはや、商売人っていうより、変人ですよ、アレ。」




 急に止んだ演奏の後、教室の中は一気に静寂に支配されていた。


 腕をつかまれたゆかりも、思わず立ち上がっていた。


 グランドピアノの前でじっと見つめあったまま、見詰め合う二人。



「何するんですか!」


「はっきりさせましょうよ」


「必要ありません!」


 言葉でも表情でも怒っているはずなのに、草壁につかまれた腕は振りほどこうとはしない、ゆかり。




「社長!いつまでそんなところで突っ立ってるんですか!車もどけてないし!早いとこ片付けて、次の現場行かないと」


 脚立を持って戻ってきた看板屋の若い職人が思わず大声を出してしまった。


 ちょっと待てよ、なんで、さっきのジイサンまだいるんだよ。話まだ済んでないのか?


 それになんで、二人して看板を両側から支えてるんだよ?




 目の前で、じっと自分を挑発的に睨みつけているゆかりを見ながら草壁は思うのだった。




 どうして、この人は、こういうときこんな表情をするのだろう?


 それは拒絶ではなく、なんと言っていいか「威嚇」の表情。


 まるで、ケンカに負けそうなネコのような。


 そう、負けそうな……




 初めて、こんなふうに女の人を抱き寄せるんだなあ……


 経験の有無とか、知識とか、そういうことが全くなくても、こういうときに自然に働く、引力、みたいなものがあるということを、微かに感じながら、握ったゆかりの手に軽く力をこめた。そして、ゆっくりと引き寄せると、表情一つ変えることないまま、彼女のつま先が、すっとカーペットの上を数センチ、彼のほうに擦り寄っていった……。




「先生!こんにちは!!」





「ワッ!!!」


「ワッ!!!」


「ワッ!!!」


「ワッ!!!」


「ワッ!!!」




 手提げカバンを大きく前後に揺らしながら商店街をずっとダッシュで走ってきた男の子が、その勢いのまま、教室に飛び込むと、一瞬、キョトンとなった。



 それは、いつもなら、笑顔で迎えてくれる、清楚で綺麗な(彼のあこがれでもあった)ゆかり先生にちょっと怖い目で睨まれたからでもあるし。


 また、そこから数メートル離れたところで、見知らぬどこかのお兄ちゃんが呆然とした表情で、文字通り棒立ちになっていたから、でもあって。


 さらに、なんか、知らないでっかい板みたいなものを挟んで、3人の男の人たちがじっと教室の中を覗きこんでいたから、でもあった。



 それはともかく、宇宙堂の看板の取り付けは、そのあと、無事に終了した。





第4話 おわり

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