第9話 はっきりしないで ②

 それはともかく、日常は続く。


 その日の草壁は1時限目から授業に出席するために、マンションを出た。



 そんな時間に商店街にさしかかると、さすがにまだ開いてる店なんかほとんどない。普段からひっそりとしているこのアーケードがさらにシーンとしている。



「おはようございまーす!」



 と、声をかけられた草壁、ふと右手を見ると、半開きのシャッターをくぐりながら、辻倉あやが姿を現した。ああ、そうか、ここあやさんの実家だったんだなと思う。


 ガラス張りのショーケースにエアコンや最新の掃除機が展示してある、その頭上には、菱の中に「ツ」の文字が入ったロゴマークに続いて「辻倉電気店」の文字。


 割と新しく店内改装したらしく、こじんまりとはしているが小奇麗な店構えだ。



「でも、小さな町の電気屋なんか、大変ですよ」


「へえ……」


「うちなんかは、おじいちゃんの代からの電気屋だから、そんなツテで工事の依頼なんかも割りと多くて助かっているけど」


「お店のロゴマーク、なんか古そうな感じがした」


「あ、あれですか?何度か変えようかとか、お父さんとお母さん話してたけど、まあ、別にいいかって」



 そんなことを話しながら、商店街を二人並んで歩いていると、ふと草壁も思う。


 彼女とは、やっぱり友達って感じなのかなあと。



 別に、魅力的じゃないわけじゃない。一度は彼女にしたいなと思ってたわけだし。



 なんて考えていたら、あやが急に、今度新しく商店街に開店するというとある店の噂をしだした。



「お父さんが言ってたけど、評判よくないんですよねえ」


「店開く前から?」


「商店街組合に一言の挨拶もないって愚痴ってて。それ聞いて、ゆかりさんも心配してたんですよ」


「なんで?」


「だって、そのお店ゆかりさんのピアノ教室のお隣だから……もしも”いかがわしいお店ができたらどうしよう”って」



 いかがわしいって、一体何の心配をしてるのだろう?ゆかりさんは?




 そんな会話をしながら、あやと草壁がこの商店街を通り抜けて、ひまわりが丘の駅へと消えていってから数時間後、長瀬ゆかりもこの商店街へとやってくる。なにしろ、ここにあるピアノ教室が彼女の今の職場なのだから。


 子供が主な教え子の教室なものだから、平日は午前中から開いていることは稀で、だいたいは午後、生徒が幼稚園や小学校を終えてからということになる。



 しかし、ここ最近、彼女は教室の時間より、かなり時間の余裕を持ってここにやってくることが多かった。なぜなら、ここにはピアノがあって、ピアノに触れることができたから。



 今日も商店街のクリーム色した石敷きの床をヒールの音軽やかに、自分の教室である「ひまわりが丘ピアノ教室」までやってくると、右隣の店の前で一台の軽トラックが横付けになっているのを見つけた。



 あ、例のお隣さん、ついにお店開くんだ……。


 けど、なんか、あんまり改装とか改築とかやっているみたいには見えないけど……



 件のそのお店、噂に聞いたところでは、以前は随分古くに店じまいした呉服屋だったとのこと。古めかしい木枠のガラスの引き戸の両脇に臙脂色したショーケース。もちろん、それはホコリだらけ。



 一応、お隣さんだから、店主さんがいたらご挨拶でもしようかなあ。と思いながらゆかりが店の奥を覗き込んでみたが、2,3人の作業着のツナギを来たなにかの業者が出入りしているばかり。


 古い畳なんかを運び出したりはしているが、その割りに前のお店の古いショーケースなんかはそのまんまになっていたり、けど、水周りのシンクなんかは新しいものが入る様子。


 こんどの人、ここで寝泊りするんだろうか?うちの教室より古そうな建物だけど。



 気になったから、忙しそうに働いている業者の人に、ここのご主人さんお見えですか?と聞いたが、いないらしい。




 なら仕方ないか……。いずれ顔を合わすだろう。



 お隣さんが何の商売だろうと、ウチはウチ。大体、ピアノ教室と競合するようなお店ができるとも思えない。


 けど、いかがわしいお店だったらどうしよう……


 教室のお隣がピンクサロン、なんて、子供の教育にも良くないし。




 とりあえず、いつものように、教室の鍵をあけて、通りに面したガラス壁に下ろしてある白いカーテンをさっと開いて……。こうすると、教室の中、随分明るくなるなあ……。この商店街、アーケード明るくていいなあ。


 それから、立て看板を出しとかないと。小さな手書きの看板にしたんだけど、そのうち、ちゃんとした看板に変えようかな?でも、この手書きで「生徒募集、出張レッスンも承ります」って、書いてあるのも、こ洒落たイタリアン・ビストロみたいで、私お気に入りなんだけどなあ……。




 それから間もなくである。


 草壁圭介が、その日の授業も終えて、帰宅のためにひまわりが丘の商店街の駅側の出入り口にさしかかったのは。


 ひまわりが丘の駅のロータリーを歩いて、国道の横断歩道を渡るともう、そこが商店街なのだが、その脇に一台の平型のトラックが駐車していることに、彼はあまり気に留めなかった。



 商店街のこちらの出入り口は、輪留めのでっぱりが数本でているので、自動車の進入はできない。そこで、配送の業者なんかは、このへんの路肩に駐車するのだった。


 ちなみに反対側の出入り口には輪止めのような仕掛けがないので、車で商店街に入ることはできるが、忙しいときには、反対側から商店街に入って、歩行者をよけながらノロノロ行くよりは、だいたいはこっちのほうが話が早い。


 要はありふれたいつもの風景である。



 そんなものだから、そのトラックの荷台乗っかっている、人の背丈ほどもある「宇宙堂」とだけ書かれた大きな看板のことなんか気にもかけずに、その脇を草壁は通り過ぎた。



 実は、この商店街、鍵の手に2度折れ曲がる。


 「卍」の字の一画のようになっている。少々変った作りの商店街である。


 で、その曲がり角を一度曲がって、ちょいと歩くと、ゆかりの教室、そしてその向かいには喫茶店があるという訳。ピアノ教室と喫茶店は商店街の真ん中あたりに位置している。ついでに言うと、あやの実家の電気屋は住宅街側の出入り口近くに位置している。



 因みに、その折れ曲がった角のところまで、駅側からずんずん歩いてゆくと元何屋だったか不明な店があって、それを右に折れるとアーケード、まっすぐ進むと、普通のアスファルトの路地になっている。その元何屋だったか不明な店の脇にはちょっとした祠があったりする。


 ――今は、あまり、関係ない話だが




 そして、草壁がちょうどゆかりのピアノ教室にさしかかろうとしていると、件の店の前には軽トラックが一台店の前に横付けになっていた。


 ははあ、これか……。


 と思ったが、それよりも、その手前にあるピアノ教室のほうが気になる草壁。


 ついこのまえまでは、その対面にある喫茶店のほうが気になっていたくせに。




 一方、教室の中では一人無心な顔でピアノの鍵盤に指をすべらせる長瀬ゆかり。



 ピアノ教室なんて開いてみた割には、最初の頃はそれほど熱心に自分からピアノと向き合うということなんてなかった。前に住んでいた部屋を引き払うと同時に、自分の練習用に部屋に置いていた、ホコリまみれのピアノも処分してしまっていた。


 今さら練習なんて熱心にしなくても、初心者相手のレッスンで指がまごつく訳もない。


 これでも、一度はプロを志していたのだから。


 それが最近は、生徒が来る前の時間を利用して、またピアノに向かい合おうとしているのが自分でも少し不思議だった。



 まずはブラームス……


 それから、えーとモーツァルトでも行ってみようか


 楽譜ないけど、ストラビンスキー……。指はちゃんと覚えてる!まだ、腕そんなに落ちてはいないか



 これなら、人に聞かせても、お金とれそう……冗談だけど。けど、聞いてくれる人がいたらちょっとは張り合いがあるかな?



 そんなときである。ゆかりがふと目を上げると、ピアノの向こうのガラス越しに、ぼおっと突っ立ってこっちを見ている草壁の姿に気がついたのは。




「よーし、そのまま、そのまま、足元気をつけろよ」


「はーい!」


「看板取り付けのアンカーボルト打ち込むから、ドリル忘れるなよ!」


「はーい!」


 その頃、商店街入り口では、「宇宙堂」なる名前がでっかく書かれた看板をトラックの荷台から下ろしている、ツナギの作業着に肩から大きな業務用のドリルを下げた若い職人と、看板屋の親方らしき50がらみの中年男の二人の姿。


「社長、脚立、どうします?」


「2階の窓から作業すればいいだろうから、いらないんじゃないか?」


「そうっすか。じゃあ、これで行きますか?」



 やがて宇宙堂の看板は、前を看板屋の社長、後ろを看板屋の若い職人の手によって支えられながら、午後の商店街をゆっくりと進んでいった。




 こちら、ゆかりのピアノ教室の室内。


 そこは、壁紙の純白が眩しい、清潔感があってとても明るい印象の場所だった。


 飾りと言えば、小さなひまわりの描いてある静物画が壁に飾られているぐらいシンプルで、ピアノがなければ、写真スタジオかアトリエのようでもあったりして。



 そして、目の前には薄いベージュ色のフリルのついたブラウスの胸元に垂れた黒髪を微かに揺らして真剣な顔でピアノを演奏する、ゆかりの姿。



 今、草壁は、ゆかりのピアノ教室に上がりこんで、彼女のとなりで演奏をなぜか聞いていた。



 で、ゆかりのすぐそばに座りながら、そんな彼女の真剣な顔もまた、綺麗、というより、かわいいなあ、なんて思っていたりする。


 そうなんだよな、彼女、美人っちゃあ美人だけど、ほっぺがやわらかそうな感じとか、そういうところが子供っぽいっていうか、そんな印象もあるんだよなあ。こうして見てると、プロの演奏家の演奏を見てるというより幼稚園の子供の発表会見てるみたいな気もしたりして……。



 まあ、草壁は草壁で、そんな勝手なことを気にしながらゆかりの演奏を聞いていたりする。そういうもんだ、こいつは。



(でも、誘ってくれたってことは、ひょっとしてこっちに気があるのか?)



 草壁の疑問。


 ところが、この男が「誘ってくれた」って勝手に思っている事の成り行きは以下の通りである。



”なにやってるんですか?”


 草壁が窓越しに突っ立って、教室の中をじっと見てるので、ゆかりが演奏をやめて外に出てきた。


”演奏を聞いてたんです。すごい、上手ですね”


”あ、ありがとうございます……拍手までしなくていいです。若干、他人の注目を浴びていますから”


”すみません、練習の邪魔しちゃって”


”いえ、いいんですけど”


”僕のこと気にしないで、そのまま続けてください”


”草壁さん、どうするんですか?”


”このままここで聞いてますから”


”……よかったら、中に入って聞いてきますか?”




(ただ仮に誘われてるのだとしても……)


 事実とは微妙に違うが、そんなことを思いながらふと見上げた正面は、一面のガラス張りの壁。人通りが少ないと言っても、腐っても商店街。それなりにある。


 つまりは、教室の中は外から丸見えというわけだ。


(まさか、こんなところでキスするわけにも行かないか)


 隣の男がこんなこと考えながら、自分の演奏を聞いているとはゆかりは思ってはいまい。



 演目はパッヘルベルのカノン。


 最初、ショパンの「幻想即興曲」を派手に、チャラチャラチャララっとやりだしたのだけど、そうすると隣の草壁がやけに「すごい、すごい」と感心するので、ゆかりはつい可笑しくなってしまった。


「ん、どうしたんです?」


「そんなに感心しないでも……」


 と、彼女のほうが吹き出して演奏の手が止まってしまった。



 そうか、彼、クラッシックなんて普段聞かないんだろうな。


 演奏会だって一度も行ったことないかもしれない。



 とりあえず、指運びの大人しい曲に変更したら途端に静かになった。



 遅い曲のほうが、却って演者のセンスが問われたりして、それはそれで難しいんだけど、彼にはあんまり関係ないか……けど……



(草壁さん、私のほうから誘ったなんて思ってないよね?)


 こっちもそんな心配してたりして。


 ゆかり、演奏しながらチラッと目を上げて、目の前の商店街通りの様子を改めて確認。


(けど、向こうが変な気を起こしたとしても……目の前、カーテン全開で表に丸見えだから……)


 だから……?


(まさか、こんなところで、押し倒したりできないか)




 ふたりがまさか、同時にこんなことを考えているとは誰も知らないそんな時、看板屋ふたりに運ばれて「宇宙堂」の看板はちょうど、ゆかりの教室の目の前にさしかかった。



 そこで、この看板、教室の前でなぜか一時停止してしまう。

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