第2話 おみくじはかたむすび ②
そんなことから、2、3日たった。
この頃の草壁が住んでいたのは、ひまわりが丘ではなかった。
町名で言うと松木町と言って、ひまわりが丘から電車で3駅ほど離れたところに部屋を借りて、大学に通っていた。
そのときの草壁にとってひまわりが丘という町は、大原の家に遊びに行くとき寄るだけの場所にすぎない。
その松木町在住の草壁クンが、松木神社なる地元の神社の前を通りかかっても、そのときその神社にお参りなんてするつもりはなかった。
この神社、かなり大きな神社で初詣の時期などにはテキヤの屋台なんかも参道に出て賑わう。
今、その神社の朱色の大きな鳥居の前にぼんやり突っ立って、草壁がお参りしようかどうか迷っているのには訳がある。
通りがかりにふと由緒書きに目を通すと「縁結び」の御利益が大きく書かれていたからである。
じゃあなんで迷ってるのかというと。
(この石段、わざわざ登ってくのか……)
この神社、ふもとの鳥居から、小高い山肌をまっすぐ昇ってゆく石段の先に社殿があるのだ。
まっすぐ伸びてるせいで、勾配はかなり急だ。あんまり石段の頂上を見つめていると、ちょっと首が痛くなってくる。
それを昇るのがめんどくさい、とこの男は思うのだ。若いし、体力だってないほうじゃ決してない。
神様がこんなヤツに御利益など与えてくれるもんか!
まあ、でも、若いし、体力だって決してないほうじゃないので、あの喫茶店のウエイトレスのことをぼんやり考えているうちに、じきに社殿のある丘の上にまでたどりついた。
そこで、思わず草壁も「へえ……」小さく感嘆の声を漏らした。
学校の体育館のような本殿の大きく張り出した軒の下から、幅10メートル以上ありそうな白木の階段を数段上った先に、ピカピカの大きな賽銭箱。平日だというのに、参拝する人は絶えない様子。
儲かってるんだろな……この神社……
ふと右手を見ると、樫かなにかが大きく葉を茂らせているその下にはベンチが設置してあって、苦労して参詣の昇ってきたらしいおばあさんが5人ほど、やれやれという顔をして腰をかけていた。
現金なもので、神様も立派に見えるほど霊験があらたかそうなので、ふんぱつして100円賽銭箱に入れると殊勝らしく手を合わせた。
願い事はヨコシマだが。
(あやさんを彼女にしたいです)
……知るかよ
一応、参拝は済ませた。
が、ここで草壁には一つの懸案事項があった。
”おみくじ”
である。
「引こうか……引くまいか……」
草壁は歩いた。鳥居から本殿にかけて伸びる石畳を延々と行ったり来たりしつつ。
「引こうか……引くまいか……」
たったそれだけのことを迷いに迷いぬきながら、行ったり来たり。このまま帰ろうか、やっぱ、くじ引いてこうか……。
先ほどベンチで休息していたばあさんたち、そんな草壁をアゴで示して
「お百度っていうのよねえ、あれ……若いのに、信心深い人よねえ」
「私、初めてみたわ、お百度!」
「珍しいから、写真とっちゃおうかしら……」
「あら、バチがあたるわよ」
「でも、なんかへんなお百度よねえ!」
(さっきお賽銭で100円使って、さらにおみくじ300円……学食でランチ食べれるようなお金、一気に使っていいのか?それに、もし「凶」だったら、立ち直れないかもしれないぞ、俺)
まさか、こんなことを考えて、お百度踏んでるとは誰も気づくまい。というか別にお百度ではない。
で、結局、おみくじを引くことにした。
なぜなら……
「あやさん、振り向かせるには、ここで「大吉」引けるぐらいの運がないと、きっと無理だから」
どういう理屈だろうか?引いたらなんとかなると思ってるのだろうか?
これぐらいの大きな神社なので、ちゃんとおみくじは売っている。
本殿向かって左手に長く軒を伸ばしているこれまた立派な平屋屋根の建物。
正面玄関には「受付所」と看板の出ている扉は旅館の出入り口のようなガラスの自動ドアだったりする。
おそらく、その規模からして、そしてもっとも大きな御利益に「縁結び」を謳っていることからも、この建物では神前結婚の式なども執り行われてるに違いない。
おみくじを売っている売店はその建物の一角にあって、絵馬や御札ももちろん売っている。
そこで、おみくじを一枚購入する草壁。
そして、ふと何気なく横手を見てみて、また驚きの声を小さく上げてしまった。
「あっ、桜が咲いている……」
ここまで歩いてきて桜に気づいたのは、それは本殿脇に数本、建物に沿ってまるで参拝客の目から隠れるように咲いていたからである。
本殿の軒ほどの高さしかないのその桜の木々は、真っ白な花びらを、白い玉砂利の上にヒラヒラと遠慮がちに散せていた。
楚々とした印象のその花は、むしろ人目につかず、ひっそりと咲いているほうが趣があるかもしれない。
根元のわずかに苔むした添え木にはこの桜の種類を書いた札。そこには、
「サトザクラ」
とある。
この桜が辺りの桜(主にソメイヨシノであろう)の、すっかり散ったあとにまだ綺麗な花を咲かせていることは、別に不思議なことでない。
この桜、いわゆる「遅咲き」と言われる品種で、普通の桜より10日から2週間程度遅れて花をつける。
と言っても、草壁はそんなことにあまり気をとられなかった。
「なんと言っても、今はおみくじ……」
祈りをこめる草壁。表情は真剣だ。別におみくじで大吉ひいたからといって、あのウエイトレスとお付き合いできる保障なんかないが、なぜか彼は、そんなつもりでいるらしい。
”大吉!”
”大吉!大吉!!”
”大吉!大吉!!大吉!!!”
ものすごい形相でおみくじを開こうとしている目の前の男。後ろで売店の巫女がちょっと気持ち悪そうな顔をしてその様子をみていた。
で、祈りをこめながら、そおっとそおっとクジを開いてみると……
そこに並んで見えるのは「十」の字を横に伸ばしたようなものが二つ。
横書きにして、上部がそんな形になるような、おみくじの種類はただ一つ!
つまり!…… そ・れ・は、も・う …… 『大吉』確定! 大願成就! 確変突入! 大漁祈願!! 交通安全!!! 無病息災!!! 鎌倉幕府!!!
「おっーっしっ!!」
そりゃもう、これだけ大吉を喜んでくれたら、神様のほうも悪い気がしないだろう。願いごと聞いてくれるかは別の話だが。
そんなとき――
「大吉、おめでとうございます」
確かに聞き覚えのある、あの声がそよ風のように草壁の耳元をくすぐった。
カラン、と本殿の鈴が今までになく高く鳴った。
声の主のほうを見ると、サトザクラの花がゆっくりと花弁を降らす中、お巫女姿の長瀬ゆかりが微笑んでいた。
「あっ……」
半開きのおみくじを持ったまま、思いがけない再会に思わず絶句する草壁。
薄化粧をしているせいかもしれないが、あまりに白く透き通りすぎていた肌の色もほんのり赤味があって、あのころの印象より幼く見えた。
軽やかに玉砂利の音を響かせながら、ゆっくりと草壁のほうへ歩み寄ってくるゆかり。目が少し笑っている。
あのころにはあんまり見なかったような、いたずらっぽい笑みを見ていると、草壁も思わず頬が緩んでしまった。1年も会ってなかったっけ?3,4日ぶりぐらいだったような?どこ行ってたの?ちょっと見なかったけど?
再会の挨拶もなく、二人はゆっくりと向かい合った。
「なんで大吉って判るんですか?」
「この辺の人、みんなわかっちゃってると思いますけど」
ゆかりがクスクス笑って、草壁の背後で苦笑している売店の巫女仲間と目を合わせた。
「で、何て書いてあったんですか?」
「あっ、それですけど、まだ全部開いてないんですよ……」
「へえ……私も見せてもらっていいですか?」
「ええ、いっしょに見てみます?」
そんなことを言いながら、二人してそっとおみくじを開いて見ると……
「なんでしょう?これ?」
「なんなんでしょうね……」
言葉につまる二人。そのクジにはただ一言
”太吉”
とあるだけで、あと真っ白け。
「フトキチって言うんでしょうか?」
と草壁の言葉にちょっとゆかりが噴き出しながら
「タイキチとも読めますよ」
「こんな種類のクジありましたっけ?」
「聞いたことないです。『大大吉』っていうのはあるらしいって話には聞いたことがありますけど……うちの神社のクジにだって、こんなのありませんし」
「印刷ミスとかそんななのかなあ?」
「でしょうか?」
と、二人して、草壁の手に握られたおかしなクジを頭を寄せ合うようにして覗き込んでいた。
やがて、ゆかりが明るい笑顔で
「でも、絶対に悪いクジじゃありませんよ!だから……」
と指を差した。
そこには、おもしろいからずっと草壁の様子をじっと見ていたあのおばあちゃんたち5人……の向こうにおみくじを鈴なりにつけた小さな樹が一本立っていた。
「あそこに結んじゃいましょう」
「あら、わたしらのこと指差したわよ!」
「ずっと見てたから、変に思われたかのかしらねえ」
「あのお兄ちゃんのほうが変だけど」
「あっトイレ!」
「何?」
「巫女さんにトイレの場所聞いて、こっちだって言ってんのよ!」
「あっそうか!そうだ、そうだ!」
「それにしてもあのお巫女さん、えらい別嬪さんよねえ……」
ばあちゃん達、何か勝手に合点して、全員笑っていた。
草壁はゆかりの言葉に従って、その木のほうへ歩き出した。
ゆかりも、まるで草壁に引張られるように、スッとその後についていった。
すると、相変わらず草壁たちの様子を見ていたおばあちゃんたちが急に黙り込んでしまった。
ゆかりを後ろに従えて歩く草壁がなんとはなく、今度は立派に見えたからかもしれない。
ただ、その姿がかっこよかったのは、草壁が凛々しいんじゃなくて、黒髪もつややかな美人のお巫女さんが静かに後ろにいたからだろう。
草壁一人だったら……たぶん、べつにどうってことなかったんじゃないかな?
草壁は、黙って1本の木に近づいた。
そこでおみくじを丁寧に折りたたむと、手ごろに張り出した枝を選んでおみくじを巻きつけた。
そして、キュッとかたむすび。
ゆかりはそのすぐ背後に立ってじっとその様子を見つめていた。
あのバアちゃんたちも、なんだか判らないが、静かに見ている。
そして、クジを結わえ終わった途端である。
「あっ、私、お仕事あるので、さよなら!」
草壁がその言葉に振り向くと、もう彼女の姿は社務所の中に消えようとしていた。
呆然と立ち尽くす草壁。
そして、そんなことがあってから3日たったある日。
ちょっと緊張しながら、あの松木神社の社殿へ続く石段登った草壁が、おみくじを売っていた、ゆかりとは違う巫女に「あの、あの、あの」を連発した挙句
「ここで働いている、長瀬さんってご存知ありませんか?」
とやっとのことで尋ねたのだが――
その巫女はすげなく、こう答えた
「長瀬さん、おととい、急に辞めちゃいました」
再び、呆然と立ち尽くすしかない、草壁だった。
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