しあわせのコード ~ a tiny fantasy ~
高任陽一朗
第1話 おみくじはかたむすび ①
話はちょうど1年前にさかのぼる。
草壁圭介は怪我で入院していた。
理由は彼がトラックに跳ね飛ばされたからなのだが、そのことはどうでもいい。
大事なことは、長瀬ゆかりと草壁の出会いがこのときだったということだ。
そんな入院の最中、草壁はゆかりと出会った。
一目見て、美人だなと印象。
上品で整った顔立ちに、綺麗な長い黒髪。
道ですれ違って、”オッ”って思ってしまうような美人は、時々いるけれど、こっちは、振り返って思わず後ろ姿をジッと見送ってしまうような感じ。
整った目鼻立ち。と言ってしまえばそれでおしまいだけど、その割にはあんまり人から見られているという意識の感じられないような無防備さがあって、そのせいで小さな子供みたいに見えることがあった。
瞬き少なくじっと震える睫の先に、時々、悲しそうな色が浮かぶことがあって、少し気にはなったけれど。
そんな女性と、ひょんなことから知り合いになった草壁。向こうも患者として入院していて、お互い暇を持て余していたせいか、毎日顔を合わせるようになったのだが……
最初、彼女の様子で気になったことがあった。
例えて言うと、二流の美人画。
目に生気が薄い、ちょっと虚ろ。体調のせいかもしれないが。
ただ、そんなゆかりと毎日のように顔を合わせて雑談するようになると、少しずつ向こうの様子も明るくなっていった。
仲良くなったって言っても、暇な入院患者同士の雑談。
こっちは、まあ見た目もせいぜい十人並み。向こうは、自分が今まで実際に出会った中でも一番の美人。
こうして親しくなれただけでも、儲けもの。
うん、そうだよな。そうだよな……。
けど、ひょっとしたら……そうなったら……自分を跳ね飛ばしてくれたトラックさん、ありがとう!
……だな!!……なんて草壁が思っていたその矢先――。
「えっ!?長瀬さんですか?今朝、退院されましたよ
彼女は草壁に何も告げずに、黙って退院したという。
草壁に残されたのは、彼女の名前が「長瀬ゆかり」だったという情報、たったそれだけ。
(そっか……長瀬さん、俺に黙って……そっか……)
連絡先を教えてもらうどころか、退院の予定すら教えてもらえず突然のお別れ。退屈な入院生活の時だけの話し相手。娑婆に出たらもう赤の他人とでもいいたげな仕打ちだった。
草壁は、ゆかりの退院を教えてくれたナースの目の前で、松葉杖をついたまま、なんとも言えない表情で、突っ立っているしかなかった。
(彼……)
そのナースもそんな様子をじっと見ているしかなかった。状況は容易に察せる。
そして、こんな二人の出会いを知るものは、二人以外に誰もいなかった。
両人とも誰にも話さなかったからである。
草壁のほうは、なんとも残念な結果となり、なんとなく話す気になれなかったから……そして、ゆかりのほうは……なぜなんでしょう?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
こうして物語が始まりを迎えることになった、1年目の春。
一応、草壁のほうは、ケガや入院なんかがありながらも、なんとか大学も2年に進級していた。
ところで、この草壁圭介という男、ごく普通の大学生である。
黙っていてもモテるような容姿ではない。
とはいえ、今まで2人ぐらい、密かに、いいかもと思いながら、彼の柔らかい髪が風なびいているところなんかを見ていたりする女子も居たには居た。
残念なことに、そのことを彼は知らないが。
そんな彼の口癖はというと……
「大学に入ってから、ついてないわ」
である。
「どうでもいいけど、お前、そうやってぼんやりと空見上げながら歩くなよ。危ないだろ」
隣で友人の大原が説教する。こんなところでまたコイツがトラックにでも轢かれたら、面倒だ。
ほっとくわけにも行かないし。
閑静な住宅街を歩いてるからって、油断できない。脇を宅急便のトラックやら、自家用車がちょいちょい通ってゆく。
「例の事故か?けど、どっか別のところでいいことの一つや二つなかったのか?」
「……ない、大学生になって1年たつけど、地味な生活だよ」
「そういえば、トラックにはねられたんだよな?」
「うん」
「なんで、はねられたんだ?」
そう大原に聞かれた草壁、スッと立ち止まって、やけに爽やかな笑顔で空を見上げた。
「ちょうど、今日みたいなよく晴れた日でさ……」
「その『むかーし、むかし、あるところに……』みたいなのいらないから」
「だから、天気がよかったんだって」
草壁がケロリと言った。お前わかってないよなあ、って顔である。
「俺は事故の原因を聞いているんだよっ!だいたい、なんで天気が良くて事故が起こるんだ!」
「いや、順を追って説明しないとわからないからさ……」
不審げな顔をする大原
「関係あるのか?それ……」
「うん、ああ、空が綺麗だなって……なんて……」
「だから、事故の原因をさっさと言えよ!空模様とかどうでもいいわ!それと、お前さっきからその爽やかな笑顔作るのやめろ!いらないから、その顔」
不満げな草壁、話をせっつかれたことより、笑顔へのクレームが主な理由。
「おまえせっかちだな」
「お前の説明がまどろっこしいんだ!」
「いや、もう終わるから」
「ええっ!まだ、事故の『じ』の字も出てきてないんだが……」
「その空を見上げてるうちに、車道の真ん中歩いてたんだよ」
「…………はねたほうが災難だな……」
今、なぜ二人がこじんまりとした一戸建てや小さなアパート以外には、クリーニング屋かコインランドリー、あとは床屋かオバちゃんがやっていそうな美容室しかないような、この静かなひまわりが丘の町を歩いているのかというと……。
「あーあ、ちょっとハラ減ってきたよなあ……おまえんちのお母ちゃん、留守だし……」
という草壁の言葉から察しもつくだろうが、この男、友人の大原の家にメシをたかりに来たのだが、肝心の彼の母ちゃんがいないものだから、メシにはありつけず、仕方ないので二人揃って外で軽く食事しようと出てきたのだった。
「草壁さあ、ひとんちに遊びに来るのはいいけど、メシ時狙って、一食ごちそうになろうって言うの、いい加減やめろよ」
「そんなつもりはない」
などと言いながら、何度もペンキを塗りなおしてすっかりアバタ面した朱色の円筒形郵便ポストとか、「塩」って書いてある小さな青看板を出しっぱなしのまま、ずっと昔に閉店した酒屋の前なんかを通り過ぎてたどり着くのが。
”ひまわりが丘商店街”である。
「この商店街にいい店あるの?なんか寂れているって感じだけど……」
草壁の言うとおり。
商店の2階窓の上に大きく覆いかぶさっている白いアーケードは、塗装もまだ綺麗で、立派と言えば立派。道幅だって、2トントラックが余裕ですれ違えそうな広さ。
けど、人通りは少ない。
そして、シャッターを下ろしたまんま、新しいテナントも入らずじまいっていう店もあちこちに。
しかも、そのシャッターがサビだらけになっているなんてのもいくつもある。
「けど、このひまわりが丘の駅って結構でかいよな?快速も止まるだろ?駅も立派だし」
「それは、駅の反対側に大きなニュータウンがあるからな。こっちは古い町並みのまんまだから、駅のこっちなんか、ドーナツ屋があるぐらい」
「へえ……」
「だから、何か食うんだったら、駅の反対側に出たほうが話がはやいな」
大原の言うとおり、駅の反対側、いわゆる「北口」は、賑やかである。
ファーストフードや定食屋のチェーン店、飲み屋、キャバレー、お洒落な美容室……etc……
反対に、商店街のある「南口」のほうはっていうと、割と大きなロータリーなんかもあるにはある。
ただ、客待ちのタクシーもまばら。
「こっちはさ、古くからある住宅街でさ、ずっと昔はこっちのほうが賑やかだったんらしいけどね」
「へえ……」
「けどさ、俺なんかにしてみたら、駅の反対側に出たら、なんでもあって、しかもこのあたり割と静かだから暮らしやすくて、いいところだよ」
商店街の人にとってはいいどころの騒ぎではないのだが。
「しかし、今日は寒いな。俺、油断してカーティガン羽織って家出たのは、間違いだったな……お前みたく、厚手のフリース着りゃよかった」
「今から家に戻るとか言うなよ」
「言わないよ、ちょっとの距離なんだから」
などと言いながら、静かなひまわりが丘の商店街を歩く、大原と草壁。
ちょうど商店街の真ん中あたりに差し掛かった頃だった。
そのまま抜ければ、もうひまわりが丘の駅の南口、そのどまん前の交差点に出ようかとしている時。
「おっ、ちょっと待った!」
と言うので、立ち止まって、ふと横をみるとそこに一軒の喫茶店。
一面の大きなガラス窓の向こうに4人がけのテーブルが2セット並んでいるのが見える。中に客の姿は見えない。
扉のほうは、ガラスの嵌った木枠の格子窓。
で、聞いたことのないようなコーヒー豆業者の名前が下に書いてある看板が店先に出してあって、そこに店の名前。
”喫茶アネモネ”
うわあ、ザ・喫茶店だなあ……。最近あんまり見ないよなこんな店。それにしても、この商店街にはぴったりハマッってるよなあ。
とか、草壁が感心していると、大原のほうは、彼の手を強引にひっぱって店内に連れ込んだ。
「おっ、ちょっ……なんで、こんな店にはいるんだ?」
「いいから!たまにはいいだろ、こういう店も」
店に入るとき、ドアベルがカランコロン鳴った。
なるほど……そういうことか。
草壁も店内に入ってみて、なぜ自分がこの店に連れ込まれたかすぐわかった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの前では、ステンレスの丸盆を胸の前で抱えて立っている、ちょっと背の高い、かわいいウエイトレスの姿。
肩の下あたりまで垂れている黒髪を揺らせて、軽く会釈。
あの長瀬さんは、どっちかっていうとモデルって感じだけど、こっちはアイドルって感じかな。
なぜかわからないが、草壁が勝手な比較を頭の中でやっている。
あ、そうだ、アレ!去年、うちの大学のミスキャンパスに選ばれて、今年からタレントやっているっていう、あの人に似てるな……。
とか、草壁が思う。誰だよ、それ?
まあ、可愛い子には違いない。
カウンターに、二人並んで腰掛けてみて、またちょっと驚いた。
「公衆電話……」
おもわず、呟く草壁。ピンクのダイヤル式公衆電話。カードは使えない。100円玉も使えない。それが、現役バリバリらしくピカピカに光ってる。
そんなのがカウンターの隅にデンと置いてある。
「ご注文、お決まりですか?」
水玉模様のエプロンの腰元についている大きなリボンの飾りが揺らしながら、ウエイトレスが二人のそばまで注文を取りにきてくれた。
大原は持ち前のフットワークの軽さを発揮した。
「彼氏いるの?」
「えっ!?」
うーん、この反応は、明らかにこの手の会話に慣れてないな……。
けど、これだけ可愛かったら告白されたりとか、口説かれたりとかないのか?こういう店の客の中にだって、そんなの今まで何人もいたっておかしくないんだけどなあ……。
草壁がそう思うのも、無理はない。ただ、この子、どっちかというと内向的な性格だったりする。
長瀬さんだったら、案外、ウイットで綺麗に切り返しそうなんだけどなあ。
と、またもや、心の中でなんでか判らないが、ゆかりと比較している草壁。
「えっ、あっ、いや……」
照れた様子で、ちょっと言葉につまるウエイトレス。
と、そこで、それまでじっとしていたこの店のマスターらしき男が、カウンターから草壁に話しかけた。
らしき、というか、マスターなんですが。
パリッと糊の利いた白いカッターシャツに蝶ネクタイをしめて、サテンの光沢もつややかなチョッキ姿。体型もスラッとしてる。年齢は、はっきりわからないが、30半ばぐらいか・・・
「君の友達さ、あやちゃん気に入ったみたいだけど……」
マスターがにんまりして、草壁に言った。気さくで話しやすそうなマスターだなと草壁は思った。
「彼女、結構固いから、ああいう迫り方する男は難しいと思うよ」
大原がその言葉に、ちょっと不満げな顔をする。あやのほうもちょっと微苦笑。これはマスターなりの助け舟。だから、草壁はその隣で、とりあえず笑ってたらいい、のである。
しかし、草壁は笑わなかった。
「僕みたいな誠実な男のほうがいいのでしょうか?」
「連れも連れかいっ!」
こういうことを言い出すときの草壁は、半分、じゃなく、ほとんどマジだ。
こいつには、こういう厚かましいところが、確かにある。
このアネモネなる喫茶店、4人がけのテーブル席が3つに、二人がけの小さなテーブルが2つ。ピンクの公衆電話のあるカウンターは5人がけ。
まあ、個人経営の喫茶店なら、まずまずといった広さ。
店内スペース自体は、割りとゆったりしている。
床は安易にフローリングじゃなくて、木貼りというのは、なんとなく落ち着く。
それでいて天井に、妙に豪華そうなシャンデリアが釣ってあるのは、イマイチな趣味。
要は店内装飾に、これといったコンセプトはない、らしい。
「じゃあ、ぼくヤキソバを」
「はい、えっと、塩にしますか?ソースにしますか?それともカレーにしますか?」
「え、そんなの選べるんだ?」
「あ、はい」
「じゃあ……とりあえず、ソースで」
「ソース味ですね?じゃあ、あと、豚肉にしますか?海鮮にしますか?」
ほおっ!ただの喫茶店だと思ったら、案外にこだわってる。こういうところでヤキソバって言ったら普通、”ソース”一択じゃないの?
あやに注文を告げながら、草壁が感心した。
カウンターのマスターも、どうだって顔をする
「一応、そういうところにうちのこだわりがあってね」
あるある!一応普通の喫茶店だけど、グラタンがすごくおいしいとか、自家製パスタが自慢だとかではやってる店。
これは期待できるかも!
ということで、まずはオーソドックスに豚肉ソースヤキソバをオーダーしてみたら――
普通の味だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あやちゃんって、学生?」
「はい大学の2年です」
「あ、そうなんだ、じゃあ、俺ら3人ともタメなんだね…」
「そうなんですか……」
「もう、このバイト長いの?」
「半年ちょっとぐらいです」
「よく出てる、また来たら会える?」
「いや……わたし、たまにお手伝いに来るぐらいですから……」
マスターにああは言われても、大原は大原、持ち前の軽さをさっきから発揮しだした。
カウンターの奥で洗い物でもしている様子のあやに、馴れ馴れしそうに話しかけている。
一方、大原の隣のカウンター席でヤキソバを頬張りながら草壁。
こちらはというと、さっきから黙り込んでいた。あやのほうをチラチラ見ているだけ。
草壁クンはシャイなのである。
そうして、大原にからかわれたりしたとき、一瞬キョトンとなっているあやのことを横目で見ながら
(長瀬さんって、普段、お上品だけど、怒らせたら怖そう。こっちは、割と温和な性格なのかも)とか思っていたりする。
なんでさっきから、1年前ほったらかしにされておしまいの人をもぢだしてあやと比較しているのかは謎。
そんなとき、ふとカウンターの中のあやが、草壁のほうをチラっと見た。
あやと目があって、草壁はドキッとなった。
次の瞬間、あやは不思議な表情をして草壁を見た。
まるでお母さんに手をひかれながらヨチヨチ歩くような子供とふと何気なく目があったときのような。
つづいて、あやの表情が今までで一番自然な微笑みに変ると
「あっ」
と言いながら、カウンターを出て草壁のほうへと歩み寄ってきた。なにが嬉しいのかは他の人にはわからない。
「ちょっと、そのまま……髪になにかついてます」
この子、いい匂いがするなあ、なんて思いながら、言われるまま草壁もじっとした。その彼の髪にあやが手を伸ばして、なにか拾いあげた。
隣の大原も、マスターもじっと黙ってその様子を見守っていた。
あやが草壁の髪から拾い上げたものは、一枚の桜の花びらだった。
「もう桜なんて、このへんどこにも咲いてないよ」
マスターの言うとおりで、今年は観測史上最速で開花宣言が出され、4月の半ばには、ここいらの桜は全部散ってしまっていた。
「草壁、おまえ、ずっと髪につけたのか?」
「人をずっと風呂入ってないヤツみたいに言うな!」
「この店入ったときに、そんなんついてなかったような……」
「うちだって、店の中毎日きちんと掃除してるからなっ!」
あやはそんな話の間、草壁の傍らに立ったまま、手のひらにそっとのせた一枚の桜の花びらをなぜか嬉しそうに見つめているばかりである
それから、あやが何をしたか……その行動に深い意味なんか別になかった。少なくとも彼女にとって。
なぜかそのとき、彼女は目の前の草壁をちょっとからかってみたかった、そんな程度のこと。
そのまま桜の花びらの乗った掌を草壁のほうへ向けると、そっと口元まで持ち上げて、こう言った。
「今年の名残の……」
そしてスッと息を静かに吸い込み
「……桜吹雪」
ふぅっ、と息を吹きかえると薄桃色のひとひらが、ふんわりとあやの手のひらから飛び上がっていった。
花びらは草壁の目の前を掠めるように飛んでいった。あやの吐息に乗って。
草壁の前髪があやの吐息にゆれた。
”ドクンッ”と草壁の胸が大きく高鳴った。
草壁がこれで彼女をちょっと意識しだしたのは確かである。
ドキドキしながら、真っ赤な顔をして、グラスの水をグイッと一気に飲み干す草壁。
「あっ、お水、お注ぎしますね」
自分が何をして、結果どうなったかなんて、てんで考えてないあやのほうは、ウエイトレスとして職務を全うすべく、水差しを持って草壁のもとへ戻ってきた。
ひょいとグラスを持ち上げて、水差しを傾けた途端、思いのほか水が一気に流れ出した。アッと思ったがあやの手に持ち上げられたグラスがその勢いに転げ落ちた。
そして、ジャバアッとこぼれた水は……
草壁の薄いベージュのズボンのそれも股間のジッパーを中心とした一帯に、派手なシミをつくった。
思わず固まる一同。
まさに、水を打った静けさ。
あやのほうは、申し訳ない気持ちで一杯で、真っ青になりながら、「ごめんなさい!」と草壁の横で平謝りだし、草壁はまだ赤い顔で「あ、いや、いいんですよ……」と適当な言葉もみつからないまま、しどろもどろだし。
マスターと大原はぼおっとそんな様子を見てるだけだし。
水をこぼしたぐらいで何を大げさなと思ってる大原はそんな様子をみながら、冷静な調子で呟いた。
「ただの水なんだしさ、隠せないのか?そのうち乾くだろ?」
そう言われたあやと草壁、ふたりして顔を見合わせて考え込んだ
「隠すんですか?」
「隠すと言っても……」
二人は真剣に悩んでいるらしい。
マスターと大原はそんな様子をぼおっと見ていた。
「そうだ!」
草壁がなにか良い案でも浮かんだ様子。
「お前のカーティガン、それちょっと貸して!」
「俺のカーティガン?何するの?」
「こうやって……」
大原から、剥ぎ取るようにしてカーティガンを脱がせると、それを手にとって、マスター、大原、あやの3人が注視するなか、草壁が立ち上がった。
そして、カーティガンの背の部分をクルッと前にもってくると袖を後ろにまわしキュッと締めて……
カーディガンの前垂れが出来上がった。
あやが首をかしげる。
「なんかファッション的に違うと思いますよ、それ」
あやの評判はよくない
「君、その格好で外歩けるの?」
マスターも同意する
「お前、それするんだったら自分のフリースでやれよ!俺寒いだろ!」
しかし、草壁の発想に触発されるものがあったマスターがそれを見ると、指を弾きながら店の奥へと消えていった。
「なるほど!そういう発想でいいのなら!!」
で、どうなったかというと……
「あのですねえ、なんで男の僕がこんな真っ白のフリルのついたメイドさんみたいなエプロン着けなきゃならないんですかっ!」
「発想の方向性は君と変らないと思うんだがねえ……」
「おまえもさあ、マスターが持ってきたもん一目みたら、だいたいなにか判るだろうに、とりえあえず着てみてから文句言うんだな……」
あやは一応、申し訳なさそうに黙って、そんな草壁メイドと3人の掛け合いを黙って見ているしかなかった。
しかし、思うのである。
この人、いつまであのフリフリのエプロンつけてるつもりだろうと。
「やっぱり乾かすのが一番かな?」
やっと、まとも結論にたどり着いた一同。それを受けてマスターがドライヤーを持ってきた。
「そうですねえ」
草壁がそのドライヤーをマスターから受け取ろうとしたそのとき、いまだ、自責の念のぬぐえずに一人落ち込んでいたあやが、おずおずと声をかけた。
「あの……こうなったのも私の責任ですから……」
あやちゃんは真面目な子。
責任感も人一倍強かったりする。
傑出した優等生、そんなタイプじゃなかったけど、何をやらせてもソツのない子。
大人しいけど、なぜか毎年のようにクラス委員長に選出されちゃったりする。そして、大人しいけどその仕事をミスなくこなし続けてた。
喫茶店のお手伝いだって、1円のお釣りを間違えることも今までなし。
何をやらせてもソツなくこなしてきた。
彼女の人生の中で、誰かに何かをぶっかけるなんて、経験はなかった。
ついでに言っておくと、ぶっかけられた経験もない。
それが、お客さんに水をぶっかけるなんて、彼女の人生最大の失敗。
その人生最大の失敗の責任をとらなければならい……と、彼女は思った。
「アノ……お加減、熱すぎたりしませんか?」
「あ、はい……ちょうどいいです……」
草壁の言う、ちょうどいい、とはどういう意味かは謎。今、コイツの思考は飛んでしまっているので、意味を考えるだけ無駄。
そして、真剣な表情で草壁の股間にドライヤーを当てているあやのほうも、自責の念で思考はかなり飛んでしまっている様子。
多分、責任の取り方を少し間違えている。
その様子をじっと見ているしかない、大原とマスター。
「異様な光景ですね……」
「いまこの瞬間、うちはただの喫茶店じゃなくなった気がする……」
帰りがけ、まだ申し訳なさそうなあやに
「今日はすみませんでした。草壁さん」
と名前を言われた草壁、すっかり名前を覚えてもらった!と内心喜んだ。
別にあやのほうにそのつもりはない。
ついでに「また来てくださいね」と微笑んだのも。
向こうは、また会いたがっている!と密かに喜ぶ草壁。
違います。
自分のせいでお客を一人逃しては、店に申し訳ないというあやの責任感オンリーの言葉です。
「気にしないでいいですよ、あやさん」
と思い切って、名前を呼びかけた。
ちょっと、照れくさかった。
ところで、同い年なのに、なぜ「あやさん」とさんづけなのかというと。
チャンづけでは馴れ馴れしすぎる。
かといって苗字を知らない。
ウエイトレスさんも、なんか他人行儀
だからという考えなのだが、「他人行儀」とか思っているところに、もうすっかり狙う気マンマンなところが見え隠れしている。そのくせ、じゃあなんで苗字を聞かないかと言うと。
あらためて聞くのも、なんか照れるから。
草壁クンは厚かましい、しかし草壁クンはシャイである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます