第35話:両親の歴史
「えっと、それでどこ迄話したんだっけ?」
リビングのソファに座った母さんが、コーヒーを一口含んだ後に一息吐いてから、お店での話を続けるために口を開いた。
その両隣には父さんと、ことりの母親である緑さん。
ローテーブルを挟んで向かい合う様に僕が陣取り、左隣に麻実、続いてことり。
2家族、7人がこのリビングに揃うのは久し振りだ。前は、事有る毎に父さん達が何だかんだと理由を付けて集まっていたんだけど。
……それにしても、以前と比べて、皆が集まった随分このリビングを窮屈に感じる。
前に集まったのは僕が小5の時だし、それだけ、僕達子供陣が大きくなったって云う事かな。
特に、あの頃麻実は、父さんや母さんの膝の上に居たし。うん、小学校に上がってからは「私ももう大きくなったから」って、父さんと母さんの間に窮屈そうに挟まっていたりもしたっけ。幸せそうな笑顔を浮かべて。
そんな麻実も今は僕の隣で、ホットミルクを「あちち」と言いながら美味しそうに啜っている。
「うん、母さんが手術の為にアメリカに渡る事になって、その時父さんはどうしていたのかって」
「その時は付き合っていたの?」
僕の質問に間を開けずに、ことりが続ける。やっぱり、それは気になるか。
「うん、私がアメリカに行ったのは高3のGW明けなんだけど、高2の終わりに告白してくれていてね。あの時の梅の花の香りは、今でも忘れられないな」
……母さん、ちょっと生々しい情報は入れなくて良いから。僕としては母さんがアメリカに居る時、父さんがどうしていたかだけを訊ねた心算なんだけど。
「因みに、緑達は2学期の文化祭の時から付き合っていたんだけどね」
「こらみなみ、余計な事言わない」
頬を赤く染めてツッコミを入れる緑さんと、視線を逸らす
「あはは、ごめんごめん。それでね……」
ふっと笑いを止めた母さんの、雰囲気が変わる。
「それで私もお医者さんに見放されている身だったから、断る心算だったんだけどね。湊人を巻き込むわけにもいかないから。でも、全部話して、それでも良いって湊人は言ってくれたから、付き合う事になって」
「それはだって、みなみが『私は死ぬ気がしていない』って言っていたし。……少しでもみなみを笑顔に出来るならと思ってさ」
……照れ臭さに堪え切れずに口を挟んだ父さんの言葉で、僕達が堪え切れなくなる。
「うん、そうだったね。あの頃の私の変化に、湊人だけが気付いてくれていたんだよね」
母さんの言葉に、その隣に座る、緑さんの口許が少し歪んだ。
「あれ? お母さんは?」
「……気付かなかったわ。みなみがアメリカに行く日迄ね」
ことりが訊くと、緑さんは淡々と答えた。凄く、口惜しそうに。きっと、小学校来の親友として、ぽっと出の父さんに負けた事が自分でも許せないのだろう。
「ふふふ、あの時は黙っていてごめんね」
「それは良いわよ。帰って来てから散々謝ってくれたし、私がその立場でも怖くて言えなかっただろうしね」
「ありがと、緑。私もあの時、凄く悩んだし、湊人も話した方が良いって言ってくれていたんだけど、緑には、どうしても、ね」
今の話の断片からその時の母さんの気持ちを想像して、様々な感情が綯い交ぜになって、ぐちゃぐちゃになった。ずっと、母さんは、バカみたいに明るい人だと思っていたのに。
「何か有る時、あんた達はちゃんと話し合いなさいよ。……身に染みているだろうけれどね」
「「……うん」」
緑さんに言われて、ことりと揃って頷いた。2人共、痛い程に分かり過ぎているから。何も言わなかった方も、何も訊かなかった方も。
それを見て、何故だか麻実も「うん!」と声を上げた。
「あ、そ、それで、GW明けに向こうに行ったって事は、その時は1か月位しか? それでも湊人小父さんは待っていたの?」
「ことちゃんもグイグイ来るね。先ずは、うん、高校生として付き合えたのは、1か月位だったよ。2年の終業式の日に付き合い始めて、GW2日目に別れたから」
「別れちゃったの?!」
ここで大きな声を上げたのは、誰あろう麻実。
「うん、その時はね。お母さんがどうなるかも、帰って来られたとしてもどれ位掛かるか分からなかったから、お父さんを縛り付けるのは嫌だったしね」
母さんは、麻実に優しく言って聞かせた。その話を分かったのかどうか、麻実はコクンと静かに頷いた。
「でも、……ね」
「……うん、でも。……あ、ちょっと待っていてね」
緑さんの言葉に意味深に続けた母さんは、徐に立ち上がってリビングから出て行った。
「どうしたんだろ、母さん」
「ああ、うん……」
何となく訊ねると、父さんは恥ずかしそうに顔を逸らした。
緑さんと
「これなんだけどね」
再びリビングに戻って来た母さんは、ビニールに入った一枚の色紙をテーブルに置いた。
「これって……」
その色紙の中央には“瑞穂みなみさんへ 3年1組一同”と書かれていて、周りには色取り取りのメッセージが添えられている。元は眩しい程に白かった筈の表面が大分黒ずんでいる処が、その歴史を感じさせた。
「GW明けの朝のホームルームで、まあくんと麻実ちゃんのお父さんがクラスの皆に書かせて、その足でセントレアから発とうとしていたお母さんに届けた、伝説の一品よ」
……伝説って……。
「コーヒーのお代わり淹れて来る。欲しい人は?」
誰も手を上げなかったので、父さんは自分のカップだけを持って、いそいそとキッチンに引っ込んで行った。
それにしても“その足で”って事は、学校を飛び出してって事か。父さんに、そんなに情熱的な処も有ったのか。普段の様子からは、とても想像出来ないけど。
「あ、お父さんとお母さんの名前も有るね」
色紙をジッと見ていたことりが不意に声を上げて、笑い掛けた麻実に釣られて笑顔になった。
「そりゃ有るわよ。皆、同じクラスだったんだから」
「そうなんだ。……でもこれ、凄い。皆に愛されていたんだね、みなみさん」
しみじみと言う、ことり。
それを聞いて僕も、1つ1つのメッセージをしっかりと読んで行く。
色紙を埋め尽くす、1人1人の、真摯な言葉。
誰もが本気でクラスメートの瑞穂みなみの事を心配していて、帰りを待っていた事が分かる。
「そりゃそうよ。私のみなみなんだから」
「こらこら、緑。……ってちょっと、守?! 何で泣いているの?!」
「えっ?」
頬に触れると、確かに指先が濡れた。
……これは、涙? 僕、泣いていたのか。
不意に目に入った、担任からのメッセージ。
ここに担任の言葉も書いてあると云う事は詰まり、先生も父さんが学校を飛び出すのを黙認していたって云う事で。
「ねえお母さん、このメッセージ、“担任
「そうね。あの時の千種先生、皆が急いで色紙に書き終わった後、『忘れ物をした』って一度職員室に戻ったから、そう云う事ね」
「そっかあ……」
ことりは緑さんの答えに満足気に呟いて、また視線を色紙に戻した。
この担任の先生の行動は、高校の教師としては間違っているのかも知れないけど。
「あの時、湊人がそれを届けてくれていなかったら、術後の経過が思わしくなかった時に、気持ちが負けちゃってたかもしれなかったよ」
……僕はとても、否定をする気にはならない。
しげしげと色紙を眺めている内に、或る事に気付いた。
「これ、父さんからのメッセージは? 書いて無くない?」
そう、どこにも父さんの名前が書かれていないのだ。
「ああ、そうね。湊人からは、手紙を別に貰ったから」
「へえ、それでなんだ。その手紙は?」
「ちょっと、それは!」
慌ててキッチンから顔を出す、父さん。
「部屋に有るけど、それは見せないからね」
母さんが笑いながら言うと、父さんはホッと息を吐いてまた引っ込んだ。
「うん、分かった」
それはきっと、誰にも触れられたくない、母さんだけの宝物なのだろう。
「私が別れを切り出していたからって、律儀に学級委員長として渡してくれたんだよ」
「へえ、父さん、学級委員長だったんだ」
「そうよ。湊人も頑張っていたんだから」
父さんが学級委員長……。それはまたイメージに合わない事で。
「おいおい、それはみなみがそうなる様に仕向けたんじゃないか」
コーヒーを淹れ終わって戻って来た父さんは、カップをテーブルに置いて、ソファに座りながら言った。
「そうよ。『手伝うから』って言って私も副委員長にしておきながら居なくなったのは、誰だったかしら?」
「あ、藪蛇だったかな」
舌を出して微笑む母さん。……だから、親のテヘペロは見たくないんだってば。
「それで母さんはアメリカに渡って。手術して戻って来てからまた付き合い始めたの?」
意識的に咳払いをして、話に割り込んだ。
「そうね。向こうに着いて改めて検査してから手術して経過観察が終わる迄が約1年で、日本に戻って来て復学して卒業して再会した時からだから、最初に告白された日の約2年後から、また」
「あれ? 直ぐには会わなかったの?」
「うん。湊人は一足先に大学生になっているんだもん。対等な立場になってからって思って」
……対等な立場になってから。その気持ちは、物凄く良く分かる。
「その間、湊人小父さんはみなみさんを待っていたのね。素敵」
「ううん、待ってなかったんだよね、湊人」
「うん、待ってなかったね」
「えっ?!」
まさか、この話の流れで、母さんが渡米して直ぐに他の人と付き合い始めたとか?!
「“待たない”って云うのはみなみとの約束だったから、意識して周りの女性にも目を向けていたんだけどね」
「私以上に付き合いたいと思える人が居なかったんだって」
幸せそうに、そう
「それで、2人はいつキスをしたの?!」
……ごめん麻実、それ、本当に訊きたい?
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