第33話:勉強会の行方


「来ちゃったって……。誰? 知り合い?」

 そうポツリと言った飛島さんは、頬杖を突きながらこっちに顔を向けた。

 早くも勉強に疲れたのか、気怠けだるそうに細められたその瞳の輝きはさっきお喋りに花を咲かせていた時よりも弱くなっている。

「ああ、守の妹だよ。よっ! 麻実ちゃん!」

「よっ! 信行君!」

 それを意に介さずに手を上げ合った2人は、身体を乗り出して僕達の前でそのままパチンと当てた。

「へえ、妹さんなんだ。ふぅん、可愛い子だね……。……あんまり似てないね?」

「ほっといてよ」

 暫く僕と麻実の顔の間で視線を彷徨わせた飛島さんがトーンを落としてボソッと落ち着いた声で言うので、自然に返してしまった。

 僕のその応答がツボに入ったのか、飛島さんはお腹を抱えてケラケラと大きな声を出して笑い出した。

「ア、アハハハハ! ジョーダンだって! 守君も充分カッコいいから!」

 溢れた涙を手の甲で拭った飛島さんは、手を合わせて謝って来た。

 ……その顔は未だ、押し隠している笑いに歪んでいるけど。

 って、んん? カッコいい?

「今の返しは良かったよな! 声のトーンも、短いワードも。お前ら2人で、M-1に出たらどうだ?! 最年少優勝を目指してさ!」

 同じ様に笑い転げる信行。

 いや、それは飛躍し過ぎだろ。

「良いね、それ! コンビ名は何にする?!」

「って、乗り気か!」

 ……しまった、つい。

 最近エチュードづいているから、何らかの役に入り易くなっているな。気を付けないと。

「良いねえ、守君!」

「お! 検索したら、エントリーは未だ行けるらしいぞ」

「だから信行も調べるなってば」

「会場は?! やっぱり恒例の名古屋飛ばし?!」

「いや、1回戦だけは名古屋も有るみたいだな」

「……んん、微妙……」

「うん、それなら、いっそ無かった方が良かったかもね。ちな、何日?」

「1回戦の47日中、2日間」

「少なっっっ!!!」

「「「アハハハハハハ!!!」」」

 3人の笑い声に、ハッと我に返る。

 ……思った傍からやってしまった……。

 まあ、今は麻実がずっと笑ってくれていたから良しとしようか。序に、周りのお客さんも。

 僕もトイレに行って、顔を洗って冷まして来ようかな。


「でぇ、えっと、マミちゃん、で良かったっけ?!」

 飛島さんは笑いながら、立った儘笑っている麻実に声を掛けた。

「あ、はい! ……えーっと……」

「私、お兄ちゃんのクラスメートの、飛島柚葵。よろしくね」

「お兄ちゃんの妹の美浜麻実です! よろしくお願いします!」

 勢い良く下げられた麻実の頭とテーブルの間に瞬間的に手を入れたので、手の平も甲も痛い。

「なんか麻実ちゃん、前にどこかで会った気がするんだけど、気のせいかなぁ?」

 首を傾げながら自分の顔を見詰めている飛島さんの顔を見つめ返す麻実。

「私も、柚葵さんの顔に見覚えが有るかも……」

 恐る恐るそう言う麻実の顔にも、疑問が溢れている。

 でも、飛島さんと知り合ったのは中学になってからだし、直ぐにことりと仲が良くなったとは言え、その頃には既に僕とことりが疎遠になっていたので、その繋がりは考え辛いか。

「この前、麻実が高校の門まで迎えに来てくれた時は? 飛島さんがその光景を見たって云うメッセージ貰ったって、ことりが言っていたけど」

 近い処だと、これかな。

「え? ……あ、ひょっとして門の前で男子たちに囲まれていた子?! いやあ、麻実ちゃん、やるねぇ」

「あ、あはははははは…………」

 麻実は乾いた笑いをしながら、直ぐそこに座る僕の服の袖をギュッと握った。

 ……しまった、麻実はアレで怖い思いをしていたんだっけ……。

「あー、でも私その時、顔までは見れてないんだよね。男子達の顔が面白くって」

「お、面白……」

 その言葉を繰り返す、麻実の表情が少し綻んだ。

「だって、皆鼻の下が伸びてて猿みたいだったんだもん。あんな顔で言い寄っていて、誰がついて行くんだろってさ。いやー、男ってバカだね」

「男ってバカだね!」

 麻実は屈託の無い笑みを浮かべて飛島さんの言葉をまた繰り返した。僕も一緒に、内心でそれを繰り返す。

 ……もう大丈夫かな。今度、飛島さんには何かお礼をしないと。

「だってさ、守」

 ……だってさ、信行。

「私、その時は周りを見れなかったから、それは違うかなあ」

「んー、だとすると、どこかなぁ。2人とも見覚えが有るのに、気のせいって事は無いよねぇ」

「じゃあ、k」

「あれ?! 麻実ちゃん、どうしたの?!」

 再び口を開き掛けた麻実の口許を、背後から色白で細長い指を持つ手が包み込んだ。

 誰あろう、2階の御手洗いに顔を洗いに行っていたことりである。

「は! ほほふぃふぁん!」

「何でここに?」

 その手を首元に回しながら、ことりはもう一度麻実に訊ねた。

「うん、……あ、そうそう、お母さんに言われてお兄ちゃんを迎えに来たの。ここに居るからって」

「僕を? 何で?」

 母さんには、皆で部活帰りに勉強会をして序に軽く食べて行く事をメッセージで伝えておいたので、こうして態々麻実を寄越すと云う事は、それなりの何かが有ると云う事だろう。

「うん、お父さんがサプライズでいきなり帰って来たからさ、皆でご馳走を食べに行こうって」

「……何で急に」

 父さんは1年程前から仕事で東京の方に単身赴任をしている。

 出張は3年の予定らしいから、家族ごと引っ越すには及ばないと云う事で、僕達はそのまま名古屋に住み続けていると言う訳だ。

 あっちは物価が高いって聞くし、何よりも持ち家だし。

 今迄も何回か帰って来た事は有ったけど、その時はいつも前以てその日にちを母さんに伝えていた筈。

 ……何か、有ったのかな。

「あれ、小父さん帰って来たんだ。じゃあ守、今日は帰らなきゃね」

「ことりちゃんもだよ?」

「えっ?」

 麻実の言葉に、素っ頓狂な声を上げることり。

「私も?」

「うん、ことりちゃんちの小父さんも小母さんも一緒に行くから、お兄ちゃんのついでに呼んで来てって頼まれたよ?」

「えっ? でも私、勉強会が……」

 静かに飲み物を口にしながらこっちの成り行きを見守っている飛島さんと信行、それと麻実の顔を見比べながら、ことりは困惑している。

 まあ、こっちが先約だしね。

 僕だって、出来る事ならこの儘皆で勉強したい。

「えー? 熱田さんの所のひつまぶし、久し振りに皆で食べようよう」

 麻実のその拗ねた様な一言に、ことりの動きが止まった。

「ひつまぶし……」

 念の為に言っておくと、ここで云う“熱田さん”とは人名では無く“熱田神宮”の事であって、そこのひつまぶしと云う事は詰まり、一説には名古屋名物ひつまぶしの発祥とも言われる、あの有名店。

 ホカホカのご飯と、それが見えない程に敷き詰められた食べ易いサイズにカットされているふぅわりと香ばしい鰻の蒲焼をお茶碗に装って、1杯目は丼みたいに普通に、2杯目はワサビやネギなんかの薬味を乗せて、3杯目はお茶漬けにして……。

 ……ヤバイ、よだれが……。

「……えーっと、ユズ、清須君……」

 控えめに2人を伺うことり。

「良いって、行って来なよ! 鰻にゃ勝てん!」

「感想よろしくな!」

「ご、ごめんね? 勉強会はまた今度ちゃんとしようね!」

「う、うん」

「ハハ」

「じゃあ行こ、お兄ちゃん、ことりちゃん! 信行君も柚葵ちゃんも、またね!」

「うん、マミちゃん、また!」

 鞄を持って自分の分のコーヒーチケットを伝票の上に置くなり、ことりと共に麻実に腕を引っ張られたので、その儘信行と飛島さんの2人に手を振りながら勉強会の会場の筈だった喫茶店を後にする事になった。



 それにしても、久し振りのひつまぶし、楽しみだな。

 ことりも、きっと同じ気持ちなんだろうな。

 ……これは何も、僕やことりが特別食いしん坊だからとかそう云う事では無くて。

 “ひつまぶし”が名古屋の名物とは言え、当然そんな高価な物を一般家庭の僕たちが頻繁に食べられる訳も無く、お祝い事とか、何か目出度めでたい事が有った時のご馳走になっている。

 僕たちの例で言えば、例えば七五三とか、ことりが町の絵画コンクールなんかで賞を取った時とか、そんな、ハレの日の。

 行く時は、うちとことりのうち、2家族一緒なのが当たり前だった。

 本当だったら、僕とことりが高校に合格した時にも行く心算だったって、この前母さんが言っていた。


 ……うん、本当に久し振りだ。


 家に向かう途中、隣を歩くことりの方を見ると不意に視線が合ったので、ニッコリと微笑んでおく。

 梅雨明けを待つ雲に覆われた空は、日没を待たずに暗く染まっている。

 雲の向こうの空に想いを馳せ、決意を新たに自分を鼓舞する。

 今年の夏は、どんな夏に出来るのかな。



 ……それにしても父さん、急に帰って来るなんてどうしたんだろう。

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