5
目覚めると、蒸気が神の形に変わっていた。人間の感覚に合わせようとしたらしく、いわゆる仙人を思わせる老人の姿をしている。猫と同じに尖った耳と太く長い髭を何本かつけているのが滑稽で、向こうが透けて見えるのがさらに奇妙だ。
仙人は言った。
「あなたがたの活躍には感謝しております。これで、猫の国も人間世界も、ブルの悪意から守られました」
兄貴分が口を尖らせる。
「だがよ、帰れないんじゃねぇのか」
「ご心配なく。出口の場所が変わっただけです。私がお送りいたしましょう」
若造が言った。
「ありがたい……早く頼みますよ。こんな世界に長くいたら、気が変になっちゃう」
私はとっくに、変。しかし、あっちが恋しいのは同じこと。
「家族も心配しているでしょうから」
仙人、ちょっぴり不満そうだ。
「そうですか……。しばらく、滞在していただきたかったのですが……」
名人が私を見た。
「お言葉に甘えちゃ、いけません?」
「一人で残る?」
名人は、ぶるるっと頬を振った。
じいさんがうなずく。
「神は信じてよかったじゃろう?」
確かに。まだ生きてはいるからね。
私たちは、またもよみがえったフクロウに分乗して外に舞い出た。空気が新鮮で、甘い。猫の国の全景を初めて見渡す。
光に満ち、穏やかにたたずむ霊の世界。美しい。人間のあの世も、こうならいいが……。
パッションがつぶやいた。
「無理ね。人間って、素直じゃないから」
そうだね。こんなに安らぐ世界を望めるほど、人類は穏やかな生き物じゃない。霊の世界にも人間の邪悪さは満ちあふれているに違いない。ビーストのあさましい姿は、確かに人間の本性を映し出していた。
いつか死を迎える日が来なければ確かめようはないけれど……。
私は初めて死への恐怖を感じた。
パッションがつぶやいた。
「母さん、死んだら、こっちに来る?」
「猫のあの世、に? ビーストになって?」
「ううん、猫になって」
それもいいかもしれない。
「帰ったら、みんなと相談してみようね」
「うん」
パッション、嬉しそうに鼻をこすりつけた。卯月は私の腕の中で寝息を立てている。
かわいい奴らね。
猫の街の上空を旋回した。街といっても、建物があるわけじゃない。無数の猫が原っぱや木陰でごろごろ寝そべっているだけだ。呪いから解放された兵士たちだ。木の回りには小魚が群れている。食べ物に不自由しなければ、ごろごろしていて当然。猫、だもの。
漫才コンビがどら声を張り上げた。
「こいつら、俺たちに感謝してるのかよ⁉」
「誰も歓迎してくれませんぜ!」
じいさんが叱りつける。
「いいんじゃ、これで。猫とは、こういうものじゃ」
そう。私も満足だ。猫が猫でいられる国を守ったんだもの。少なくとも三匹は、私たちのやり遂げたことを見届けた。彼らはいつか、安心して猫の国に帰れる。宝猫たちへのささやかな恩返しよ。
充分ね、それだけで。
湖のほとりに着地した。水草の塊が迎えに出ている。
名人が脅える。
「またこれ? 犬は大丈夫でしょうね?」
仙人は笑った。
「犬は追い払った。ブラックホールとやらが湖底に転がってしまったので、潜るしかないのじゃ。引き上げるまで、待つか?」
私は首を振った。
「すみませんが、早くお風呂に浸かりたくて。服も着たいし」
みんなもうなずいた。
仙人は水面に溶け込んだ。代わって湖水が仙人の形に盛り上がる。
「乗るがよい」
私たちは水草の上に乗った。草は沈み、潜水球に変わった。ゆっくりと潜っていく。
私はつぶやいた。
「やはり湖が神の本体だったんだな……」
じいさんが応える。
「水は生命の源じゃ。世界に満ちる小さな命を育て、大きな者を養っておる。ブルは世界の表面しか見ておらなかった。大きく強い生き物ばかりを支配しようとした。だから、敗れたのじゃ」
名人が不意に言った。
「ブルは、どうやって神様に呪いをかけたんだろう……」
神が答えた。
「私が愚かだったのじゃ。つい、誘いに乗って……」
口ごもる。
パッションがささやいた。
「あけみに聞いたわ。ブルと花札をしたんですって。こてんぱんに負けて、このざま」
博打? 神様が……?
「それで、戦う力を奪われたの?」
神が小声でつぶやく。
「負けたら、奴とは戦わぬと約束した。神は嘘をついてはならん決まりなのじゃ」
なるほど。それで自分の身代わりになる人間の兵士を求めていたわけね。後方支援なら戦闘行為には当たらない――。それじゃあ、どこかの国の屁理屈と同じでしょうが。
兄貴分が吐き捨てる。
「あほか。嘘がつけねえなら博打はやるな。素人がブルに勝てるわけがねぇ」
若造がうなずく。
「あいつ、親分のいかさまを、膝に乗ってたっぷり見てますからねぇ」
「なに! いかさま、じゃと⁉」
「苦労が足りねぇな。他人の力ばかり頼ってるからだ」
神様、咳払いでごまかした。
「終わったことじゃ。誰にも弱みはある。ところでお前ら、博打が本職なのじゃろう? しばらく遊ばんか?」
パッションが叫んだ。
「帰るの!」
「す……すまん……」
兄貴分が笑った。
「ここには欲しいものはねぇ。よかったら、あっちに遊びに来な。かわいがってやる」
「あっしには、ビーストの兄さんを土産に……」
「てめえは黙ってろ!」
「へい……」
じいさんが問う。
「あけみ……連れて行っていいか?」
「特別に許そう。知っておるか? その猫も、元々は人間じゃったことを」
あ、だからブルはあけみに惚れたのね。
じいさん、当然だというようにうなずく。
「かけ替えのない女じゃった」
「人間の姿にも戻せるが?」
じいさん、目を丸くした。あけみをじっと見つめる。そして、ほほえんだ。
「やめとこう。その代わり、死んだらわしを猫にしてくれ」
「人間の神にかけ合ってみる」
あけみはじいさんに頭をすりつけた。
透明な窓からブラックホールが見えた。
確かめたいことがあった。推理作家としては、最後に謎解きがないと落ち着かないもの。
「なぜ、私たちを選んだのですか? この猫たちに異変を起こしたのは、私たちをこの世界に連れてくるためだったのでしょう?」
神は言った。
「ブルが人間だと分かったのは、呪いをかけられた後じゃった。奴と戦える者は、もはや人間しかおらん。そこで、残った力を振り絞って人間世界の猫に魔術をかけた。だが、この世界で戦うには人間離れした想像力が必要じゃ。並の人間では歩いているだけで頭がおかしくなってしまう。だから、SFとやらの夢物語を書いておる前を選んだ……」
SF? 私はミステリーの……うそ⁉
名人がいきなり吹き出した。
「ああ! 人違いだ! 先生、流行作家と間違われた! 別荘を買うなんて、大それたことするからですよ!」
げらげら笑うな! あの家を買ったのは亭主なんだから!
神様、まだ理解できないらしい。
「人違いなものか。人間世界の住所録は、ちゃんと……」
パッションが冷たく言った。
「何年前の?」
「あ……五年も昔……。ま、よいではないか。終わりよければ、すべてよし」
勝手にしなさい!
私は肩をすくめ、じいさんに言った。
「ところでおじいさん、猫になったら年中発情しているわけにはいかないわよ」
「あ……。しまった! 若い頃のあけみに戻してもらえば余生をずっと楽しめたんじゃ!」
遅い。
神様、笑われて焦っていた。私たちは乱暴にブラックホールに放り込まれた。
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