目覚めると、蒸気が神の形に変わっていた。人間の感覚に合わせようとしたらしく、いわゆる仙人を思わせる老人の姿をしている。猫と同じに尖った耳と太く長い髭を何本かつけているのが滑稽で、向こうが透けて見えるのがさらに奇妙だ。

 仙人は言った。

「あなたがたの活躍には感謝しております。これで、猫の国も人間世界も、ブルの悪意から守られました」

 兄貴分が口を尖らせる。

「だがよ、帰れないんじゃねぇのか」

「ご心配なく。出口の場所が変わっただけです。私がお送りいたしましょう」

 若造が言った。

「ありがたい……早く頼みますよ。こんな世界に長くいたら、気が変になっちゃう」

 私はとっくに、変。しかし、あっちが恋しいのは同じこと。

「家族も心配しているでしょうから」

 仙人、ちょっぴり不満そうだ。

「そうですか……。しばらく、滞在していただきたかったのですが……」

 名人が私を見た。

「お言葉に甘えちゃ、いけません?」

「一人で残る?」

 名人は、ぶるるっと頬を振った。

 じいさんがうなずく。

「神は信じてよかったじゃろう?」

 確かに。まだ生きてはいるからね。

 私たちは、またもよみがえったフクロウに分乗して外に舞い出た。空気が新鮮で、甘い。猫の国の全景を初めて見渡す。

 光に満ち、穏やかにたたずむ霊の世界。美しい。人間のあの世も、こうならいいが……。

 パッションがつぶやいた。

「無理ね。人間って、素直じゃないから」

 そうだね。こんなに安らぐ世界を望めるほど、人類は穏やかな生き物じゃない。霊の世界にも人間の邪悪さは満ちあふれているに違いない。ビーストのあさましい姿は、確かに人間の本性を映し出していた。

 いつか死を迎える日が来なければ確かめようはないけれど……。

 私は初めて死への恐怖を感じた。

 パッションがつぶやいた。

「母さん、死んだら、こっちに来る?」

「猫のあの世、に? ビーストになって?」

「ううん、猫になって」

 それもいいかもしれない。

「帰ったら、みんなと相談してみようね」

「うん」

 パッション、嬉しそうに鼻をこすりつけた。卯月は私の腕の中で寝息を立てている。

 かわいい奴らね。

 猫の街の上空を旋回した。街といっても、建物があるわけじゃない。無数の猫が原っぱや木陰でごろごろ寝そべっているだけだ。呪いから解放された兵士たちだ。木の回りには小魚が群れている。食べ物に不自由しなければ、ごろごろしていて当然。猫、だもの。

 漫才コンビがどら声を張り上げた。

「こいつら、俺たちに感謝してるのかよ⁉」

「誰も歓迎してくれませんぜ!」

 じいさんが叱りつける。

「いいんじゃ、これで。猫とは、こういうものじゃ」

 そう。私も満足だ。猫が猫でいられる国を守ったんだもの。少なくとも三匹は、私たちのやり遂げたことを見届けた。彼らはいつか、安心して猫の国に帰れる。宝猫たちへのささやかな恩返しよ。

 充分ね、それだけで。

 湖のほとりに着地した。水草の塊が迎えに出ている。

 名人が脅える。

「またこれ? 犬は大丈夫でしょうね?」

 仙人は笑った。

「犬は追い払った。ブラックホールとやらが湖底に転がってしまったので、潜るしかないのじゃ。引き上げるまで、待つか?」

 私は首を振った。

「すみませんが、早くお風呂に浸かりたくて。服も着たいし」

 みんなもうなずいた。

 仙人は水面に溶け込んだ。代わって湖水が仙人の形に盛り上がる。

「乗るがよい」

 私たちは水草の上に乗った。草は沈み、潜水球に変わった。ゆっくりと潜っていく。

 私はつぶやいた。

「やはり湖が神の本体だったんだな……」

 じいさんが応える。

「水は生命の源じゃ。世界に満ちる小さな命を育て、大きな者を養っておる。ブルは世界の表面しか見ておらなかった。大きく強い生き物ばかりを支配しようとした。だから、敗れたのじゃ」

 名人が不意に言った。

「ブルは、どうやって神様に呪いをかけたんだろう……」

 神が答えた。

「私が愚かだったのじゃ。つい、誘いに乗って……」

 口ごもる。

 パッションがささやいた。

「あけみに聞いたわ。ブルと花札をしたんですって。こてんぱんに負けて、このざま」

 博打? 神様が……?

「それで、戦う力を奪われたの?」

 神が小声でつぶやく。

「負けたら、奴とは戦わぬと約束した。神は嘘をついてはならん決まりなのじゃ」

 なるほど。それで自分の身代わりになる人間の兵士を求めていたわけね。後方支援なら戦闘行為には当たらない――。それじゃあ、どこかの国の屁理屈と同じでしょうが。

 兄貴分が吐き捨てる。

「あほか。嘘がつけねえなら博打はやるな。素人がブルに勝てるわけがねぇ」

 若造がうなずく。

「あいつ、親分のいかさまを、膝に乗ってたっぷり見てますからねぇ」

「なに! いかさま、じゃと⁉」

「苦労が足りねぇな。他人の力ばかり頼ってるからだ」

 神様、咳払いでごまかした。

「終わったことじゃ。誰にも弱みはある。ところでお前ら、博打が本職なのじゃろう? しばらく遊ばんか?」

 パッションが叫んだ。

「帰るの!」

「す……すまん……」

 兄貴分が笑った。

「ここには欲しいものはねぇ。よかったら、あっちに遊びに来な。かわいがってやる」

「あっしには、ビーストの兄さんを土産に……」

「てめえは黙ってろ!」

「へい……」

 じいさんが問う。

「あけみ……連れて行っていいか?」

「特別に許そう。知っておるか? その猫も、元々は人間じゃったことを」

 あ、だからブルはあけみに惚れたのね。

 じいさん、当然だというようにうなずく。

「かけ替えのない女じゃった」

「人間の姿にも戻せるが?」

 じいさん、目を丸くした。あけみをじっと見つめる。そして、ほほえんだ。

「やめとこう。その代わり、死んだらわしを猫にしてくれ」

「人間の神にかけ合ってみる」

 あけみはじいさんに頭をすりつけた。

 透明な窓からブラックホールが見えた。

 確かめたいことがあった。推理作家としては、最後に謎解きがないと落ち着かないもの。

「なぜ、私たちを選んだのですか? この猫たちに異変を起こしたのは、私たちをこの世界に連れてくるためだったのでしょう?」

 神は言った。

「ブルが人間だと分かったのは、呪いをかけられた後じゃった。奴と戦える者は、もはや人間しかおらん。そこで、残った力を振り絞って人間世界の猫に魔術をかけた。だが、この世界で戦うには人間離れした想像力が必要じゃ。並の人間では歩いているだけで頭がおかしくなってしまう。だから、SFとやらの夢物語を書いておる前を選んだ……」

 SF? 私はミステリーの……うそ⁉

 名人がいきなり吹き出した。

「ああ! 人違いだ! 先生、流行作家と間違われた! 別荘を買うなんて、大それたことするからですよ!」

 げらげら笑うな! あの家を買ったのは亭主なんだから!

 神様、まだ理解できないらしい。

「人違いなものか。人間世界の住所録は、ちゃんと……」

 パッションが冷たく言った。

「何年前の?」

「あ……五年も昔……。ま、よいではないか。終わりよければ、すべてよし」

 勝手にしなさい!

 私は肩をすくめ、じいさんに言った。

「ところでおじいさん、猫になったら年中発情しているわけにはいかないわよ」

「あ……。しまった! 若い頃のあけみに戻してもらえば余生をずっと楽しめたんじゃ!」

 遅い。

 神様、笑われて焦っていた。私たちは乱暴にブラックホールに放り込まれた。

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