第五章・決戦! 人猫総統(じんびょうそうとう)

 ブルは立ち上がり、前足で空を切った。

 王座の前に悲鳴が上がる。

 じいさんと漫才コンビは空中に跳ね上げられ、私たちの前に落ちて尻餅をついた。

 ブルは強力な〝気〟を放ったのだ。

 たあいなく吹き飛ばされた兄貴分が、それでもすかさず立ち上がる。

「てめえ! なにしやがる! ただじゃあおかねぇぞ!」

 ブルは笑った。

「吠えろ、雑魚ども」

 止める間もなく、兄貴分がブルに飛びかかった。が、その身体は透明な壁にぶつかったように跳ね返った。

「痛てぇ! な、なんだ、これ……」

 またも尻もちをついた兄貴分は、恐る恐る空中に手を差しのべた。やはり何も見えない。しかし、手は壁にさえぎられている。

 ブルの精神エネルギーが物理的な障壁になっているようね……。

 ブルが前足を軽く振ると、兄貴分は巨人に蹴られたかのように転がってきた。

 口から血をたらしながらも、吠える。

「畜生……おちょくりやがって……」

 私は言った。

「やめて。相手が悪いわ」

 少なくとも今の状態では。首を落としても死なない相手と、どう戦えというの……?

 ブルが私たちに命じた。

「水を飲むのだ!」

 がん!

 前ぶれもなく、顔面に衝撃を受けた。気づくと、池の近くにまで弾き飛ばされていた。身体が痺れて立ち上がれない……。

 仲間たちも並んで崩れている。

 時間を稼がなくては……。戦う方法を考えなければ……。

 私は言った。

「ヒトラーのブロンディは犬よ。なのにどうして猫の世界に……?」

 ブルは笑いをこらえながら答えた。

「第三帝国は敗れた。逃げ場は、もはや霊の世界にしかなかった。しかし、人間の霊界には敵が多く、復活も望めん。だから私は動物に身をやつした。我が忠実なる下僕、ブロンディを用いてな。だが犬は、しょせん兵士に過ぎん。有能で忠誠心には優れていても、指導者の器ではない。私が求める精神力と孤高の魂は、猫の中にこそ存在した。私は霊能力者に命じ、ブロンディの血をこの猫に飲ませ、私自身の霊をも封じ込ませたのだ」

 晩年のヒトラーがオカルティズムに傾倒していた事は有名だ。第二次世界大戦とはすなわち、ヒトラーの黒魔術と連合軍の白魔術の激突だったというトンデモ解釈もある。それは論外としても、ヒトラー自身が魔術的なカリスマ性によって人心を掌握したことは間違いはない。だが、こんな離れ業が可能だったとは……。

「なぜ、日本に? 祖国から遠く離れた小島に何の用事があって……?」

 ブルはついに声を出して笑った。

「世界を征服するためには、ドイツ国民は力不足だった。私は日本を手中に納めたかった。そのために、猫に変身してロシアに渡り、死に、生まれ変わり、シベリアを横断し、また死に……人間の霊の監視をかいくぐりながら、ようやくここまでたどり着いたのだ」

 考えなくては……戦う方法を、考えなくては……。

 しかし私は、ブルの言葉に思考力を奪われていた。

「日本になら、世界を征服する手段があるというの……?」

「ある。お前たち自身が、その力だ。ドイツ人は勇敢な兵士になれた。ロシア人も奴隷としては優秀だ。だが彼らは、自分が兵士であり、奴隷であることを知っている。それが限界だ。ドイツ国民は私の兵士にはふさわしくない。己の頭で考えることを拒否し、命令に盲従し、平然と他民族を蹂躙できる残虐性を持つ兵士――それこそが私の部下に必要な資質だ。そしてその資質は、日本人の中にしか存在しない。真の全体主義を行うには、奴隷であることに気づかずに奴隷であり続けられる、お前たちが必要なのだ。お前たちも、完全な命令を下す絶対者を常に求めてきたではないか。私が完全な兵士を求めてきたように、な。我々が結びつけられるのは歴史の必然なのだ……」

 違う! そう、叫びたかった……。

 しかし、私の頭に噴出したイメージは、ブルの言葉を裏づけるものばかりだった。

 戦争にまつわる日本人の歴史は、まさにブルの言った通り。アジアの多くの国々は今も心の底で日本を憎み、疑っている。そして〝民主主義〟が根づいたかに見える現在でさえ、その根本は変わっていない。

 リストラに怯えながらもすし詰めの通勤電車に耐え、過労死を甘受するサラリーマン。夫がいないのが正常だという、ありふれた家庭。受験という〝人種〟選別システムと、〝学生服〟という名の軍服で規格化されていく若者。誰もが他人と違うことに脅え、マニュアルを漁る。群れているのにコミュニケーションが取れず、長い物に巻かれ、短いものを踏みにじる。

 何のために? そんな素朴な疑問さえ口にすることができない民族が、答えを出せるはずはない。まさに、奴隷ではないか。確かに日本人は奴隷であり、これからも奴隷であり続けることを望んでいる……。

 だが、そこにヒトラーが――狂暴な絶対君主が君臨することは許せない。絶対に……。

 ブルは、ふんと笑った。

「運命を受け入れろ。池の水を飲め!」

 いやよ! 私はどうせ異端児だもの。はぐれ者らしく、最後まであがいてやるわ!

 じいさんが涙混じりにささやいた。

「いけねぇよ……そいつぁ、いけねぇ……また俺たちに、あんな酷いことをやれってぇのか……? いけねぇよ……亡霊っていうのは、人様に迷惑をかけちゃぁいけねぇ……」

 ゆっくりと立ち上がり、歩き出した。見えない壁に額がぶつかる。少しも進まないのに、じいさんは泣きながら歩き続ける。足下の砂がゆっくりと掘り返されていく……。

 漫才コンビも身体を起こした。

「極道をなめるんじゃねぇぞ……」

 名人が続く。

「幸せだね、こんな立派なボスキャラに巡り逢えるなんて……」

 この壁を破るには、どうすればいいの……?

 不意に、ブルが消えた。

 私は気配を察して上を見た。凄まじい跳躍力で上昇したブルが、急降下してくる。

「上!」

 すでに与太郎が跳んでいた。

 ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!

 叫びながら、空中で二匹の巨体が絡み合う。血しぶきが空気を染め、互いに相手を蹴って着地した。

 与太郎は、ざっくりと背を引き裂かれていた。鮮血が噴き出す。それでも私たちを守るように前に立ち、ブルに牙をむいた。

 パッションが叫んだ。

「兄ちゃん!」

 与太郎は全身の毛を逆立てて、うなる。

 ブルは、また前足を振った。

 地面が揺れた。遠い雷鳴のような不気味な轟きが湧き上がる。ざざっと、周囲に何かが降ってきた。それは私たちの身体をかすって地面に突き刺さった。

 たいまつだった。燃える丸太が壁から一斉に飛んできたのだ。一段と大きな炎が私たちのまわりに吹き上がった。私たちは炎の壁に包囲され、池に押しつけられた。

 ブルは穏やかに言った。

「熱いだろう? 水を飲め。そうすれば、熱に耐えられる身体を与えよう。不死の身体だ。このままでは焼け死ぬぞ」

 私は叫んだ。

「飲むものですか! 殺せるものなら、殺すがいいわ!」

 炎はさらに高く、大きくふくれ上がる。目を開けていることさえ、つらい……

 と、鼻先に奇妙な瞬きが現れた。星に似ている。一つ、二つ……それはたちまち、数百の輝きとなって私たちを取り囲んだ。

 手をのばせば容易につかめる〝星〟……。何なの、これは? あれ? おかしいわね……熱さを感じなくなった……。

 パッションがつぶやいた。

「霊よ。ブルに殺された勇者たちの……」

 感じる。私たちを守ろうとする強い力。ブルを倒そうとする意志。彼らの魂が身を呈して熱をさえぎっている!

 私たちには仲間がいるんだ!

 同時に私の頭の中に〝声〟が充満した。

〝私を解放しろ!〟

 神だ!

 解放? 私たちに出来るの? そもそも、神はどこに……?

 ブルの叫びが耳を打つ。

「出来るものか! 神は敗れた。貴様らも、神と共にひれ伏せ!」

 神と共に……? 神様、近くにいるの? どこ? 近くにあるものといえば、生き物も見えない池だけ……。

 閃いた。疑問が氷解した。

 私たちは、ずっと小さな者たちに助けられてきた。常にガイドに立っていたのが〝生きた蒸気〟だ。吸い込むと、異常なほど勇気が湧く。身体の傷も癒える。蒸気は味方、水は敵。それが答えだ。神とは、湖水そのものだ。しかし湖は呪われた。呪いから解放するには本体から切り離すしかない。つまり、蒸発させる。それが、意志を持った蒸気なのだ!

 私は炎に手を突っ込んだ。皮膚が焼ける。悲鳴をこらえて、たいまつを握る。引き抜いて池に投げ入れた。

 ぶはーっ!

 蒸気が吹き上がった。蒸気は私たちの回りに集まり、瞬く〝星〟に吸い込まれた。

 猫が現れた。一匹、また一匹……。前足に金色に輝く爪をつけた勇者たち。

 神の蒸気が霊に肉体を与えたんだわ!

「たいまつを入れて! 神は蒸気よ!」

 男たちは、ぽかんと口を開けた。

 じいさん、すぐにうなずく。

「おお! 神は湖そのものじゃったか!」

 次々に、たいまつが投げ込まれた。球形の水面は沸騰し、濃い蒸気が辺りをおおう。

 数を増す猫たちは、たいまつの包囲を飛び越えてブルの兵士に襲いかかっていった。

 ブルが吠える。

「くらえ!」

 空気が歪んだ。歪みの中から新たな敵がにじみ出る。ヒグマ、フクロウ、そしてシャチ。私たちに向かって突進してきた。彼らの霊が、またも悪用されたのだ。かわいそうに……。

 が、彼らはたちまち蒸気に取り巻かれた。わずかにもがき、敵意を失う。くるりと向きを変え、逆にブルへ牙をむいた。

 パッションがうなずく。

「彼らが猫の敵のはずはないもの……」

 博士が言った。

「世界が正常に戻りつつある……」

 新たな助っ人が現れた。

 私たちが入ってきた壁面のドアから、無数のタコが飛び出したのだ。それを追って、猫の兵士がぴょこぴょこと空中に踊り出る。猫には蒸気が吸い込まれ、十メートルの高さを落下しても大丈夫な跳躍力を得る。

 パッションが叫んだ。

「地下に集めた兵隊が正気に戻ったわ!」

 異変は私たち自身にも起こった。

 蒸気が渦を巻いて身体を取り囲んだ。むき出しの肌にひんやりとした蒸気が密着していく。一瞬後、私たちの全身は銀色に輝いていた。火傷も傷も疲労も、さっぱりと消え去った。身体にはち切れんばかりの闘志が充満する。

 名人がうなずく。

「神の鎧です! 言った通りでしょう!」

 そうだね! そうだね!

 勝てる!

 確信したとたん、ブルの笑い声が響き渡った。

「では私も、本気で戦いを楽しもう」

 くそ! まだ手下がいるの⁉

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