扉を押し開いた。

 薄暗い。異様に静かだ。じっと、目をこらすと――。

 巨大な空間が広がっているみたい。深夜の東京ドームに迷い込んだ気分ね……。

 目が慣れてきた。床は、はるか下にある。横長の階段が続いていた。壁や天井はごつごつとした岩肌でおおわれている。真ん中に小山のような盛り上がりが見えるが……。

 とたんに、明るくなった。壁に並べられたたいまつから一斉に火が噴き出したのだ。

 人間の声――それも、日本語が広間に響きわたる。

「待っていたぞ、勇敢な戦士よ。そして、我がしもべよ」

 ブルね……。

 名人が胸を張る。

「しもべだと? 馬鹿言うんじゃない! 僕たちは貴様を倒しにきたんだ!」

 思ったとおり、広い。小山と見えたのは〝池〟だった。人の背たけを越えそうな大きな石を円状に並べ、その中に水を満たしている。しかし、入っているのは普通の水ではない。直径五メートルの水晶玉を埋め込んだかのように、中央が半球状に盛り上がっている。その上を見ると――空中に小さな黒い穴がぽっかりと浮かんでいた。

 ブラックホール!

 その引力が池の水を吸い寄せ、盛り上がらせている。天井と水を引き合わせてバランスを取り、ブラックホールを空中に固定しているわけだ。それは王の権力を示すモニュメントのように感じられた。

 そう――ここは競技場なのだ。王の気まぐれを満足させるために、命を賭けた戦いを見世物にするコロシアム……。

 声が言った。

「思う存分、戦いたまえ。お前たちがどれほど勝れた戦士か、とくと見せてもらおう。だが、お前たちの運命はとうに定められておる。私と共に人間世界に戻るのだ。そして、私の手足となって人の世界を統べるのだ」

 こん……と小さな音がして、向かい側の壁が開いた。ぐぐっと台座がせり出してくる。中央にばかでかい王座が据えられていた。あまりに遠く離れているで、王座にうずまるブルの姿は点にしか見えない。が、そこから発散する狂暴な意志ははっきりと感じられる。

 名人がささやいた。

「遠すぎますね……」

「こっちに来て、と頼んでみる?」

「外の黒い霧も晴れませんね……」

 天井には、やはり無数の小窓がつけられている。が、光はまったく差し込まない。

「窓は塞がれているようね」

「条件はよくならないじゃないですか」

「なったわよ。敗けても帰れるもの」

「化け猫の奴隷なんてご免ですよ」

「あんな野蛮な猫なら、私もやだ」

 私たちは、ゆっくりと階段を下っていった。長い。上で感じていたよりも、ずっと長い。私は周辺の壁をじっと観察した。どこからかブルの兵隊が現れるはずだ。

 何も起こらない……。私たちは、コロシアムの床に立った。敷きつめられた砂に、くるぶしが埋まる。

 足場が悪くて動きにくいわね……。

 背後で、ごくんと音がした。振り返ると、階段が静かに壁に吸い込まれていく。階段の動きが止まった時には、私たちが通ってきた扉は床から十メートルも高い位置にあった。その間は、垂直の壁。

 名人がつぶやいた。

「逃げられませんね、もう……」

「逃げる気でいたの?」

 名人は肩をすくめた。

 と、両側の側面の壁が、ゆっくりせり上がる。私は鉄パイプを握りしめた。

「来るわよ!」

 うわぁーんというような音があふれ、湧き出してきたのは無数の猫の兵隊だった。

 名人が吠える。

「きったねぇぞ! まだこんなに残っていたのかよぉ⁉」

 兵士の数は、百や二百ではきかない。地下のマタタビはここまでは届かなかったの……? そうじゃないわ。走り寄る兵士は全員、鼻にマスクをつけている。マスクからはチューブがのび、背中に付けた小さなボンベにつながっているのだ。

 化学兵器戦に備えた特殊部隊なんだわ。

 恐れていた鉄爪は装備していなかった。

 パッションが言う。

「あれをつけてると、仲間のマスクのチューブを切ってしまうから」

 それなら戦える!

「よし! 蹴散らしてやるわ!」

 与太郎が毛を逆立てた。飛びかかる兵士を叩き飛ばし、噛み、踏みつける。ひたすら暴れ回る巨体の迫力は圧倒的だった。

 私と名人は背中を合わせて立ち、鉄パイプを振った。顔に向かってジャンプしてくる猫兵を打ちのめす。そのたびに猫たちは、ぎゃっとうめいて凄まじい勢いで逃げ去った。敵は、たかだか猫だ。かわいそうだが、人間の力に勝てはしない。

「ブルめ! 見なさい! 残らず追い払ってやるわ!」

 ブルは冷静だった。

「いくらでも時間をかけるがいい。楽しみたまえ」

 生意気な口を叩くんじゃないわよ!

 パッションと博士は私たちの間に逃げ込んだが、時折前足を突き出して応戦する。

 しかしパッションは泣きべそ。

「だめよ……数が多すぎるもん……」

 言われて視線を上げた。

 ぞっと、血が下がった。手が届く範囲の猫は追い払っているが、兵士の多くはドーナツ状に隊列を組んで牙をむき出しているのだ。しかも壁の穴からは、ぞろぞろと新たな兵士が湧き出してくる……。

 与太郎も奮闘していたが、足にかじりつく兵士の数は、さっきよりも多い。動きも鈍っている。

 私の足も引っかき傷で血まみれに変わっていた。いつまでも、パイプを振り続けることはできない。疲れて倒れれば、身体中に牙を立てられて内蔵まで食われてしまう……。

「まずいわね……」

 名人が泣いた。

「先生! 虫を!」

 死ぬほど嫌いな虫に、助けを求めている。こいつも必死ね。

 まだ、言うことを聞いてくれればいいんだが……。

 私は念じた。

「こっちへ来て! 猫を追い払って!」

 黒雲は、やって来た。

 名人、ひっと息を呑んで固くなる。

 虫はうあぉーんという羽音を響かせ、床に広がって猫兵にまとわりつく。ハチは毒を刺し、毒のない虫は手当り次第にかじりつく。虫たちは身の危険もかえりみずに、猫兵士に果敢に戦いを挑んだ。

 結果は……兵士を喜ばせただけだった。

 猫兵は一斉に後ろ足で立ち、両手で虫を捕まえようと跳ねた。本能丸出しで、尻尾をふくらませて興奮している。まるでロックフェスかねぶた祭りだ。

 考えてみれば、当然。うちの猫だって、虫や鳥を採っては見せびらかしに来たもん。

 博士がつぶやいた。

「どうせ虫ならダニの方が良いのに……」

 ダニ、ね……

 私は叫んだ。

「虫たち! 地上に戻ってダニを乗せて来て! 出来るだけたくさん運ぶのよ!」

 虫は上昇した。あっという間にドアから消え去る。

 私は名人をつっついた。

「朝よ! 働きなさい!」

 虫取りでヒートアップした兵士を相手に、さらにパイプを振り続ける。

 名人がぼやいた。

「虫……まだ来ないんですか……」

 記憶にございません――てか? どうせ援軍を見たら、今度も動けなくなるくせに。

「到着予想時刻は神様に聞いてね……」

 息を切らせた私たちを、ブルがあざ笑う。

「もがけ! わめけ! そして、悟れ! 貴様らは私の敵ではない!」

 うるさい! 気が散るじゃないさ!

 しかし、パイプが重い。腕がこわばり、目がかすむ。足に牙を立てられても抵抗する気力が失せ始めた……。あと五分もしたら、ぶっ倒れてしまうわね……。

 その時、羽音が聞こえた。

 虫が戻った!

 今度は虫たち、猫の手が届く位置までは降りなかった。上空で旋回して盛んに〝粉〟振り落とす。黒雲から降るダニの集団は、まるで雪のように光り輝いて見えた。

 猫たちの動きが変わった。

 ちょこんと座り、耳の後ろをかく者。背中に潜り込んだダニを取ろうと、ボンベを外す者。大部分はかゆみに耐えかね、砂に身体をこすりつけた。

 私たちを囲んだ狂暴な兵士たちは、あっという間に転げ回るだけの無害な猫に変わってしまった。かゆさを我慢しきれなくなった猫は、出て来た穴に駆け戻る。最初は数匹だった脱走兵は次第に増え、ほとんどの猫は穴に逃げ帰ってしまった。

 ブルがうめく。

「味なまねを……」

 与太郎が、かすかに足を引きずりながら戻ってきた。ダニには食われているだろうが、もともとが大きいから気にかけていない。

 名人が硬直しながらもつぶやいた。

「さすが博士だ……効果てきめん」

 博士は、もじもじしながらうなずく。

「だてに猫はやっていません。し、しかし……」

 食いつかれたのね。

 私はしゃがんで、ダニを捜した。あれあれ、米粒のようなダニが房になって食いついているじゃない。一匹ずつつまみ取っていたんじゃ日が暮れるわ……。

 しかも、私も頭がむずむずしてきた。

 名人も青くなって頭をかく。

「やだよ、こんなの! 先生の命令、聞くんじゃないんですか⁉」

「そうか……ダニよ、我々から去れ」

 すると、どこからともなく薄い水蒸気が集まり博士とパッションを包んだ。ダニは自然に、ぽろぽろと落ちていく……。

 またもや、水蒸気……? これには何か秘密があるわね。

 と。お、おお……。今度は水蒸気が私たちにもまとわりついてきた。やわらかな羽でなでられているように、こそばゆいが……ありゃりゃ。な、なんと、引っかき傷が治っていくじゃないさ!

 ブルの笑い声が轟いた。

「この勝負は貴様らの勝ちだ。しかし、こんな状況には打つ手があるかね?」

 私たちは王座を見た。

 ブルと手下の猫が四匹。私たちを見て笑っている。問題は、彼らに囲まれた人間だ。

 じいさんと兄貴分が、後ろ手に縛り上げられている。

 二人に剣を突きつけているのは……なんですって⁉ 若造じゃないのさ!

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