熊の爪が私の頭に振り下ろされた――はずなのに……。

 なんとそれは、私の体の中をふっと突き抜けてしまった。

 衝撃も痛みも、ない。熊を見上げた。ぼやけて見える……。そうじゃない! 色が薄くなっているんだわ!

 熊は幻であったかのように、揺らいで、消えた。

 消えた……?

 鉄パイプが、からんと音をたてて落ちた。

 背後で名人がつぶやく。

「このモンスター、死ぬと蒸発してしまうんだ……」

 博士が言った。

「獣の霊がブルの魔力で実体を与えられていたのでしょう。肉体を殺せば霊が解放され、浮遊する魂に戻ります」

「死んだわけではないの?」

「もともと肉体は死んでいますから。きっと、熊の霊は感謝しているでしょう。誇り高いヒグマが、ブルごときの支配を喜ぶはずはありません。それより、早く!」

 博士は次のホールへ向かった。

 息ぐらい、つかせてくださいよぉ!

 仕方なく、奥の扉に走った。名人と一緒に重そうなドアを押す――。

 扉は意外に軽く開いて、勢い余った私たちは中に転げ込んだ。

 とたんに、耳元に何かが襲いかかる。首をすくめて、やみくもに鉄パイプを振った。

 何かがパイプに刺さった!

 床に落ちてもがくのは巨大なフクロウだ。

 パッションが言う。

「シマフクロウよ!」

 人間を乗せて飛べそうな、とんでもない大きさの化け物だ。

 ホールにはモンスターの羽ばたきの音が充満していた。フクロウの数は十羽を越える。それが一気に降下して来た。

 私たちは〝熊のホール〟に退却した。背中をくちばしで食われるのを覚悟して……。

 しかし、フクロウはホールの境目を越えなかった。扉は大きく開けたままなのに。

 名人が、当然だというようにうなずく。

「モンスターは、決まった部屋でしか活動できないんです」

 ならば、ここは攻撃されない。だが、通り抜けなければ王の広間へは行けない……。

 やるっきゃないか。

「火炎瓶に火を!」

 名人がたいまつの火をぼろ切れに移す。

「準備よし!」

「行くわよ!」

 私は扉を越え、鉄パイプで床を叩いた。

「間抜け鳥め、来てみなさい!」

 どっと、くちばしが押し寄せた。

 名人が床にフラスコを叩きつける。ホールの真ん中に炎がふくれ上がった。

 翼を燃やされたフクロウが一羽落ちて、消えた。残りはうろたえ、上昇する。

「走り抜けて!」

 猫たちとだんご状態になって、次の出口を目指した。熊のホールと同じ大きさなら、百メートルほど先に扉があるはずだ。

 一羽のフクロウが背後にまわって扉を閉じる。残りは七羽。頭上で一斉に羽ばたく。

 突風が渦を巻き、ガソリンの炎が私たちを取り囲んだ。

 あちちぃ!

 ヘッドスライディングで炎を飛び越えた。汗が、ジッと蒸発する。腹で滑って、ごんと壁に衝突した。振り返った。名人はついて来ているが……。

 猫たちが炎に巻かれ、すくんでいる!

 私は辺りを見回した。鳥の飲み水らしい大きな桶がある。

 名人に命じた。

「鳥を寄せつけないでね!」

「そう言ったって……」

 名人はぶつぶつ言いながら、襲いかかってくる鳥をパイプでなぎ払う。

 私は渾身の力を込めて、桶をひっくり返した。

 ごき!

 い、いけない……腰が……。

 それでも、水は床にあふれた。ざざっと炎を流し、盛大に蒸気を吹き上げる。

 炎の恐怖から解き放たれた猫たちは、水で足を滑らせながら私の足元に駆け寄った。腰を痛めた私は床にぺったり座って、鉄パイプで襲ってくるフクロウを牽制した。

 与太郎も懸命に鳥に飛びつき、はたき落とす。それでも、私たちの身体にはつっつき傷が増える一方だ。

 名人が叫ぶ。

「先生! 早く!」

「腰が……動けない……」

 広大なホールを自在に舞うフクロウは、いつまででも私たちを釘づけにできる。互角に戦うには、翼がなければ……。

 翼……? そうだ! 助けを呼べる!

 リンゴを出してパッションに差し出す。

「母親に虫を集めさせて! ハチでもクワガタでもバッタでも、飛べる虫ならなんでもいいから! 鳥に食いつかせるのよ!」

 パイプを振り回し、待つこと五分。ぶうぅーんという羽音が小さな窓越しに押し寄せる。

 天井を見上げた。窓から、ひときわ濃い黒雲がにじみでている。天井は、あっという間に真っ黒に塗りつぶされた。そこに、辺りに漂っていた蒸気が吸い込まれていく。

 黒雲はぱっと分散すると、飛び回るフクロウに襲いかかり、包み込んだ。無数の虫たちが、何者かに指揮されてるように統率の取れた行動をしている。

 虫たちにかじられ、毒を刺されたフクロウは、激しくもがいて抵抗した。しかし、数には勝てなかった。フクロウはばたばたと落ち、消えていく……。

 後には、虫の黒雲が残った。

 ビンゴ。とっさの思いつきにしては見事な戦果でしたこと。

 パッションが言った。

「虫が母さんの命令を待ってるわ」

 喜び余って、口を滑らせてしまった。

「私の腰を直して」

 ぶん!

 ススメバチの団体が押し寄せてくる!

 わ! やだ! ……ごき!

 あ、あれれ? 身体をよじったとたんに、直ってしまった。

 ……虫のくせに、ツボを心得てるのね。

 改めて命じた。

「ここで待ってて。呼んだら来てね」

 雑多な種類が集まった虫の集団は勝手気ままに壁に張りつく。こうしてみると、なかなかかわいい奴らですこと。

 名人に言った。

「次の扉よ!」

 返事がない。

「む……虫……」

 硬直し、目が焦点を失っていた。

 モンスターなら大喜びのくせに。

 私は壁の虫に命じた。

「こいつの腰を上げさせて!」

 うぅーんととびたったクワガタに追われ、名人は叫んだ。

「ぎぃやっ!」

 次の扉を体当たりで開けてしまった。

 考える間もありゃしない。

 私と猫は名人を追った。

 中をのぞき込む……。一段と暗い。むっと湿気がこもっている。

 まだ巨大タコは解放できないの⁉ せめて明かりさえあれば……。

 いきなり目の前を、巨大な生き物がよぎった。白黒のぶち模様――。

 名人が転がり出て、うめいた。

「ク……クジラ……」

 クジラはこいつらのディナーです。

「シャチよ!」

 ホールに浮かぶシャチは、流線型の身体をぶんとうねらせた。鋭い牙をきらめかせて、突進してくる。踏み込めば、ずたずたに食い散らされる。

 どう戦えばいいの……?

 シャチといえども水からは出られない。つまり空気中に濃い湿気がなければ、泳げないか。高熱をかければ空気は乾燥する……。

 火炎瓶! しまった、品切れでした。

 使える武器は、虫だけ。やってみるしかないわね。

 私は振り返って叫んだ。

「こっちに来て!」

 虫の雲は、うぅーんと迫った。が、扉を越えられなかった。

 パッションが言う。

「虫は湿気が嫌いなのよ!」

「素手で戦えって言うの⁉」

 せめて、火炎瓶が……。湿気を消せればいいのよ。湿気を……。

 と、奇妙なことが起こった。

 虫の固まりから大量の蒸気がにじみ出てきたのだ。その蒸気は一つに集まり、雲が意志を持ったかのように扉に向かっていく。

「な……なに……?」

 パッションが応えた。

「何でしょうね?」

 成り行きを見守るしかない。

 蒸気の固まりは円錐状に形を整え、先端をシャチのホールに突き刺していった。どんどん奥に潜り込む。よく見ると、円錐の中には蒸気がない。シャチはその中に入れず、窮屈そうにホールの壁に押しやられていく。

〝生きた蒸気〟は、乾いた空気のトンネルを作っているのだ!

 私は名人たちに命じた。

「走り抜けるわよ!」

 みんなが、どっと続く。

 シャチが襲ってきた。しかし、空気のトンネルに触れると身をそらして弾かれる。

「おあいにくさま!」

 私は走った。

 背後にパッションの悲鳴。

 振り返った。パッションは真上を見てすくんでいる……。シャチが口をいっぱいに開いて、落ちてくる! 勢いをつけて一気に蒸気の壁を破る気だ!

 私はとっさに駆け戻り、鉄パイプを横にして押し出した。

 ぐき!

 パイプはシャチのあごにはまった。私が飛びのいた床に、シャチは激突した。

 まずい……進路を塞がれちゃった……。

 が、シャチは口を閉じられず、はねまわるだけだった。しかも乾燥した空気に生命力を奪われ、動きが鈍っていく。

 名人が前に出た。

「許せよ……」

 鉄パイプを目に突き立てた。

 シャチは消えた。

 私は言った。

「あなたもなかなかやるじゃない」

「先生には及びませんがね」

「いよいよブルと対決よ」

 名人も、さすがに不安げだ。かすかに震えている。

「武者震いですよ。やっとボスキャラにたどり着いたんだから……。それにしても、まだタコは解放できないんでしょうかね……」

 待つわけにはいかない。

「行くわよ。いい?」

「は、はい……」

 与太郎は平然と顔を洗っている。

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