5
熊の爪が私の頭に振り下ろされた――はずなのに……。
なんとそれは、私の体の中をふっと突き抜けてしまった。
衝撃も痛みも、ない。熊を見上げた。ぼやけて見える……。そうじゃない! 色が薄くなっているんだわ!
熊は幻であったかのように、揺らいで、消えた。
消えた……?
鉄パイプが、からんと音をたてて落ちた。
背後で名人がつぶやく。
「このモンスター、死ぬと蒸発してしまうんだ……」
博士が言った。
「獣の霊がブルの魔力で実体を与えられていたのでしょう。肉体を殺せば霊が解放され、浮遊する魂に戻ります」
「死んだわけではないの?」
「もともと肉体は死んでいますから。きっと、熊の霊は感謝しているでしょう。誇り高いヒグマが、ブルごときの支配を喜ぶはずはありません。それより、早く!」
博士は次のホールへ向かった。
息ぐらい、つかせてくださいよぉ!
仕方なく、奥の扉に走った。名人と一緒に重そうなドアを押す――。
扉は意外に軽く開いて、勢い余った私たちは中に転げ込んだ。
とたんに、耳元に何かが襲いかかる。首をすくめて、やみくもに鉄パイプを振った。
何かがパイプに刺さった!
床に落ちてもがくのは巨大なフクロウだ。
パッションが言う。
「シマフクロウよ!」
人間を乗せて飛べそうな、とんでもない大きさの化け物だ。
ホールにはモンスターの羽ばたきの音が充満していた。フクロウの数は十羽を越える。それが一気に降下して来た。
私たちは〝熊のホール〟に退却した。背中をくちばしで食われるのを覚悟して……。
しかし、フクロウはホールの境目を越えなかった。扉は大きく開けたままなのに。
名人が、当然だというようにうなずく。
「モンスターは、決まった部屋でしか活動できないんです」
ならば、ここは攻撃されない。だが、通り抜けなければ王の広間へは行けない……。
やるっきゃないか。
「火炎瓶に火を!」
名人がたいまつの火をぼろ切れに移す。
「準備よし!」
「行くわよ!」
私は扉を越え、鉄パイプで床を叩いた。
「間抜け鳥め、来てみなさい!」
どっと、くちばしが押し寄せた。
名人が床にフラスコを叩きつける。ホールの真ん中に炎がふくれ上がった。
翼を燃やされたフクロウが一羽落ちて、消えた。残りはうろたえ、上昇する。
「走り抜けて!」
猫たちとだんご状態になって、次の出口を目指した。熊のホールと同じ大きさなら、百メートルほど先に扉があるはずだ。
一羽のフクロウが背後にまわって扉を閉じる。残りは七羽。頭上で一斉に羽ばたく。
突風が渦を巻き、ガソリンの炎が私たちを取り囲んだ。
あちちぃ!
ヘッドスライディングで炎を飛び越えた。汗が、ジッと蒸発する。腹で滑って、ごんと壁に衝突した。振り返った。名人はついて来ているが……。
猫たちが炎に巻かれ、すくんでいる!
私は辺りを見回した。鳥の飲み水らしい大きな桶がある。
名人に命じた。
「鳥を寄せつけないでね!」
「そう言ったって……」
名人はぶつぶつ言いながら、襲いかかってくる鳥をパイプでなぎ払う。
私は渾身の力を込めて、桶をひっくり返した。
ごき!
い、いけない……腰が……。
それでも、水は床にあふれた。ざざっと炎を流し、盛大に蒸気を吹き上げる。
炎の恐怖から解き放たれた猫たちは、水で足を滑らせながら私の足元に駆け寄った。腰を痛めた私は床にぺったり座って、鉄パイプで襲ってくるフクロウを牽制した。
与太郎も懸命に鳥に飛びつき、はたき落とす。それでも、私たちの身体にはつっつき傷が増える一方だ。
名人が叫ぶ。
「先生! 早く!」
「腰が……動けない……」
広大なホールを自在に舞うフクロウは、いつまででも私たちを釘づけにできる。互角に戦うには、翼がなければ……。
翼……? そうだ! 助けを呼べる!
リンゴを出してパッションに差し出す。
「母親に虫を集めさせて! ハチでもクワガタでもバッタでも、飛べる虫ならなんでもいいから! 鳥に食いつかせるのよ!」
パイプを振り回し、待つこと五分。ぶうぅーんという羽音が小さな窓越しに押し寄せる。
天井を見上げた。窓から、ひときわ濃い黒雲がにじみでている。天井は、あっという間に真っ黒に塗りつぶされた。そこに、辺りに漂っていた蒸気が吸い込まれていく。
黒雲はぱっと分散すると、飛び回るフクロウに襲いかかり、包み込んだ。無数の虫たちが、何者かに指揮されてるように統率の取れた行動をしている。
虫たちにかじられ、毒を刺されたフクロウは、激しくもがいて抵抗した。しかし、数には勝てなかった。フクロウはばたばたと落ち、消えていく……。
後には、虫の黒雲が残った。
ビンゴ。とっさの思いつきにしては見事な戦果でしたこと。
パッションが言った。
「虫が母さんの命令を待ってるわ」
喜び余って、口を滑らせてしまった。
「私の腰を直して」
ぶん!
ススメバチの団体が押し寄せてくる!
わ! やだ! ……ごき!
あ、あれれ? 身体をよじったとたんに、直ってしまった。
……虫のくせに、ツボを心得てるのね。
改めて命じた。
「ここで待ってて。呼んだら来てね」
雑多な種類が集まった虫の集団は勝手気ままに壁に張りつく。こうしてみると、なかなかかわいい奴らですこと。
名人に言った。
「次の扉よ!」
返事がない。
「む……虫……」
硬直し、目が焦点を失っていた。
モンスターなら大喜びのくせに。
私は壁の虫に命じた。
「こいつの腰を上げさせて!」
うぅーんととびたったクワガタに追われ、名人は叫んだ。
「ぎぃやっ!」
次の扉を体当たりで開けてしまった。
考える間もありゃしない。
私と猫は名人を追った。
中をのぞき込む……。一段と暗い。むっと湿気がこもっている。
まだ巨大タコは解放できないの⁉ せめて明かりさえあれば……。
いきなり目の前を、巨大な生き物がよぎった。白黒のぶち模様――。
名人が転がり出て、うめいた。
「ク……クジラ……」
クジラはこいつらのディナーです。
「シャチよ!」
ホールに浮かぶシャチは、流線型の身体をぶんとうねらせた。鋭い牙をきらめかせて、突進してくる。踏み込めば、ずたずたに食い散らされる。
どう戦えばいいの……?
シャチといえども水からは出られない。つまり空気中に濃い湿気がなければ、泳げないか。高熱をかければ空気は乾燥する……。
火炎瓶! しまった、品切れでした。
使える武器は、虫だけ。やってみるしかないわね。
私は振り返って叫んだ。
「こっちに来て!」
虫の雲は、うぅーんと迫った。が、扉を越えられなかった。
パッションが言う。
「虫は湿気が嫌いなのよ!」
「素手で戦えって言うの⁉」
せめて、火炎瓶が……。湿気を消せればいいのよ。湿気を……。
と、奇妙なことが起こった。
虫の固まりから大量の蒸気がにじみ出てきたのだ。その蒸気は一つに集まり、雲が意志を持ったかのように扉に向かっていく。
「な……なに……?」
パッションが応えた。
「何でしょうね?」
成り行きを見守るしかない。
蒸気の固まりは円錐状に形を整え、先端をシャチのホールに突き刺していった。どんどん奥に潜り込む。よく見ると、円錐の中には蒸気がない。シャチはその中に入れず、窮屈そうにホールの壁に押しやられていく。
〝生きた蒸気〟は、乾いた空気のトンネルを作っているのだ!
私は名人たちに命じた。
「走り抜けるわよ!」
みんなが、どっと続く。
シャチが襲ってきた。しかし、空気のトンネルに触れると身をそらして弾かれる。
「おあいにくさま!」
私は走った。
背後にパッションの悲鳴。
振り返った。パッションは真上を見てすくんでいる……。シャチが口をいっぱいに開いて、落ちてくる! 勢いをつけて一気に蒸気の壁を破る気だ!
私はとっさに駆け戻り、鉄パイプを横にして押し出した。
ぐき!
パイプはシャチのあごにはまった。私が飛びのいた床に、シャチは激突した。
まずい……進路を塞がれちゃった……。
が、シャチは口を閉じられず、はねまわるだけだった。しかも乾燥した空気に生命力を奪われ、動きが鈍っていく。
名人が前に出た。
「許せよ……」
鉄パイプを目に突き立てた。
シャチは消えた。
私は言った。
「あなたもなかなかやるじゃない」
「先生には及びませんがね」
「いよいよブルと対決よ」
名人も、さすがに不安げだ。かすかに震えている。
「武者震いですよ。やっとボスキャラにたどり着いたんだから……。それにしても、まだタコは解放できないんでしょうかね……」
待つわけにはいかない。
「行くわよ。いい?」
「は、はい……」
与太郎は平然と顔を洗っている。
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