5
二件目は難しい。
火をおこそうにも、燃やせる物が見つからない。
「パッション、与太郎をこのままにしておいたらどうなるの?」
あけみに聞いてから、悲しげに答えた。
「一日で本当に死んじゃうって。ブルの呪いはそれほど強いの」
ならば、考える余地はない。この際、女を忘れる。与太郎は殺せないもん。
私はポケットの中の物を出してウエストポーチに詰め替え、服を脱ぎ始めた。
「先生、何を……あ、燃やすんですね⁉」
湿ってはいるが、どうにかなりそうね。
名人もためらわずにシャツのボタンを外す。
兄貴分が、ふんとせせら笑った。
「俺は脱がねえぜ。高ぇんだ、オーダーだから。まだ濡れてるしな。それっぽっち燃やしたって、融けるとは限らねえぜ」
じいさんがベルトを抜きながら応えた。
「じゃがな、猫の力は偉大じゃぞ。身を削って助けた人間に対する恩は決して忘れぬ」
「ふん、そりゃあ犬のことだろう?」
「なんの。犬ころなんぞに及びがつくものか。猫は誰にでも尻尾を振るわけではない。その分、超能力は何倍も強い。だから〝化け猫〟になる。それに、力を出すのは心から慕う人間にだけじゃ。分かるか、この意味?」
名人がダメ押し。
「あなただけ人間世界に戻れなかったりして……」
そして、くくっと笑った。
その方が〝あっち〟では喜ぶけど。
私はベージュのパンティーとブラだけになった。恥ずかしいが、水着にスニーカーのカリフォルニアギャルだと思い込む。
パッションが兄貴分に止めを刺した。
「私、ぜんぶ教えちゃおうっと。兄さん、普段はぼんやりしてるけど、怒ると怖いよ」
積み上げた衣類に火をつけた。
「パッション、脅かすんじゃないわよ」
「だって……」
暖めたからといって生き返る保証はないんだから。
私は兄貴分を見た。
「はぐれなければ、置いていきはしないわよ。嫌なら着ていればいいし……。あ、あなたの服はそっち側に。全体を暖めなくちゃ」
名人はライターを取って火をつけた。
ちらりとこっちを見て言った。
「先生、けっこういけてますね……」
「惚れるなよ。迷惑だから」
じいさんまで言った。
「うむ。美しいのぅ」
「迷惑だってば!」
タコに尻の穴から邪心を吸い出された若造は、放心したように私たちを見ていた。
突然にやりと笑うと、服を脱ぎ始める。
兄貴分があわてた。
「お、お前まで?」
若造、にやりと笑った。
「一人だけ、着ていられます?」
何のことはない。兄貴分の裸体が見たいわけだ。私は女だし、名人はがガリ、じいさんは……賞味期限切れ。鑑賞に耐える身体は兄貴分しかいない。
動機は不純だが、ま、許しましょう。
「裏切りやがって……」
ぶつぶつ言いながら、兄貴分もジャケットを脱いだ。
始めはくすぶるばかりだった衣類も、いったん炎を上げると順調に燃えた。与太郎は揺らめく炎に照らされて、幸せそうだ。暖炉の前でうたた寝をしているように。しかし身体はまだ冷たい……。煙が目にしみる……。
名人が不意に叫んだ。
「ああ! 空気、大丈夫ですか⁉」
はっとした。密閉した空間で火をたけば、酸素がなくなる!
水面を見た。上がっている。酸素が減った分だけ洞窟内部の空気の容積が小さくなり、水を吸い上げているのだ……。
火を消さないと、みんな死んでしまう。だが、暖めなければ与太郎は……。
と、水面がぼこぼことわき立った。激しく噴き出す気泡の間に、私たちをここに導いた水草が見える。水面はしだいに下がっていった。水草が外の光で合成した酸素を運び、吐き出しているのだ。
私は胸をなで下ろした。
「やっぱり、神様が味方なんだ……」
じいさん、晴れやかに笑う。
「当たり前じゃ」
酸素が増えて炎も勢いを増した。
パッションが叫ぶ。
「融けてる!」
くいっ、と与太郎の前足の先が動いた。続いて、短い尻尾が、ぴくん!
私は与太郎におおい被さって、身体を密着させた。
ありがたい! さっきほど冷たくない!
与太郎はしだいに柔らかくなっていく。
私は耳元で叫んだ。
「頑張って! 呪いに敗けないで!」
と、耳がぱたぱたと動く。
「いいわよ! その調子!」
与太郎はぐるっ首を回し、私を見た。
ぞっとした。
暖かそうな金色だった目が、冷たいブルーに変わっている! 底無し沼のようなブルーの目から〝敵意〟がにじみ出た。
よたじゃない! ブルの呪い!
目の前に巨大な口が開く……。
パッションが泣き叫ぶ。
「いやぁ! 兄さん、だめぇぇぇ!」
身体を離す間もなかった。
気づいた時には、私は首をかじられていた……いや、牙は突き立っているが、皮膚を破ってはいない。致命傷を負わせる寸前で止まっている……。
私は与太郎の背にしがみついたまま、動けない。
与太郎の迷いを感じた。
ブルは私を殺せと命じている。しかし、与太郎は与太郎だ。私の家族だ……。
名人が一歩、前に出た。
「みんなでかかれば、外せるかも……」
与太郎は、ふぅーっと喉を鳴らした。敵意は去っていない。迷いも消えない。
私はかすれた声をしぼり出した。
「動かないで……刺激しないで……」
パッションが言う。
「母さん! 兄さんに話しかけて!」
分かった……。
「与太郎……母さんよ……お前の、母さんよ……離しておくれ……痛いよ……」
ゆっくりと腹をさする。こうすると、いつも心地よさそうに寝返りをうったものだ……。
うなり声が穏やかになった。
じいさんがつぶやく。
「お……目が金色に……」
首をくわえた牙がわずかにゆるむ……。
そうよ……そのまま……思い出して……家族だということを……こうして、いつも一緒に過ごしていたことを……。
いきなり、兄貴分が飛び出した。
「今だ! 叩っ殺せ!」
ばかな!
与太郎の心がこわばった。
パッションが兄貴分に飛びつく。
「やめてぇ!」
兄貴分はパッションに足をかじられてわめいた。
「てめえ!」
パッションをつかんで水に投げ込む。
若造が兄貴分にしがみついた。
「やめてください!」
じいさんも兄貴分を押さえに加わる。
黙って! 静かに! 動かないで! 牙が食い込んでいるんだってば!
与太郎の敵意は爆発寸前だった。今、与太郎の中では呪いと記憶が戦っている。このまま呪いが強まれば、牙は閉じる……。
パッションを水からすくい上げた名人が、ゆっくりと与太郎に近づきながらうめいた。「目が、またブルーに……」
パッションの尻尾からしたたった水が、衣類が上げる炎に落ちて蒸気が上がる。
ジュ!
緊張が高まる。みんな、金縛りだ。
パッションが叫んだ。
「写真よ! いずみちゃんと、つばさちゃんの写真!」
パッションの意図を察した名人は、大きくうなずいた。下に落ちていた私のポーチからカード入れを出し、写真を抜く。
いずみとつばさ、そして猫三匹が戯れる、のどかな午後――。我が家の庭先には、初夏の光が満ちあふれている――。
名人は、さらにゆっくり与太郎に近づいた。
与太郎は喉の奥で低いうなり声をたてて威嚇する。
「よた……僕だよ……いつも、煮干しを持ってきてただろう……友達だろう……」
そっとよ……そっと近づくのよ……。
牙は今にも頸動脈を切断しそうだ……。
名人はさらにさらにゆっくりと写真を差し出した。
「分かるかい……いずみちゃん……つばさちゃん……大切な家族だ……いつも一緒に遊んでいたじゃないか……散歩も一緒、雪遊びも一緒……思い出してくれよ……ブルなんかに敗けるな……打ち勝つんだ……やっつけて、帰ろう……みんなの所に帰ろうよ……」
パッションは小さく震えている。
「兄ちゃん……兄ちゃん……」
パッションは水を飲まずにすんだようね……。おまえまで呪われてしまったら……。
与太郎の敵意がしぼんでいく。牙がゆるんだ。
助かったの?
目を上げると、炎から立ちのぼっていた蒸気がくるくると渦を巻くのが見えた。自らの意志を持った生き物のようにうねり、私たちの目の前に漂う。そして二つに分かれ、私と与太郎の鼻に飛び込んだ。
呪いが解けたことが〝分かった〟。
与太郎が口を開く。
私は放心状態で与太郎の背中から転げ落ちた。不思議なことに、牙が刺さった首の痛みが消えていた。
与太郎は何事もなかったように、しなやかに立ち上がる。ぼんやりと寝転がっている私を見て、ぐるぐると嬉しそうに喉を鳴らした。いきなり、あごをなめあげる。
「やだ……痛いってば……」
涙があふれた。
みんなも気が抜け、ぺったりと座り込んでいる。
私はすり寄る与太郎の首にしがみついた。勝ったのよ!
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