二件目は難しい。

 火をおこそうにも、燃やせる物が見つからない。

「パッション、与太郎をこのままにしておいたらどうなるの?」

 あけみに聞いてから、悲しげに答えた。

「一日で本当に死んじゃうって。ブルの呪いはそれほど強いの」

 ならば、考える余地はない。この際、女を忘れる。与太郎は殺せないもん。

 私はポケットの中の物を出してウエストポーチに詰め替え、服を脱ぎ始めた。

「先生、何を……あ、燃やすんですね⁉」

 湿ってはいるが、どうにかなりそうね。

 名人もためらわずにシャツのボタンを外す。

 兄貴分が、ふんとせせら笑った。

「俺は脱がねえぜ。高ぇんだ、オーダーだから。まだ濡れてるしな。それっぽっち燃やしたって、融けるとは限らねえぜ」

 じいさんがベルトを抜きながら応えた。

「じゃがな、猫の力は偉大じゃぞ。身を削って助けた人間に対する恩は決して忘れぬ」

「ふん、そりゃあ犬のことだろう?」

「なんの。犬ころなんぞに及びがつくものか。猫は誰にでも尻尾を振るわけではない。その分、超能力は何倍も強い。だから〝化け猫〟になる。それに、力を出すのは心から慕う人間にだけじゃ。分かるか、この意味?」

 名人がダメ押し。

「あなただけ人間世界に戻れなかったりして……」

 そして、くくっと笑った。

 その方が〝あっち〟では喜ぶけど。

 私はベージュのパンティーとブラだけになった。恥ずかしいが、水着にスニーカーのカリフォルニアギャルだと思い込む。

 パッションが兄貴分に止めを刺した。

「私、ぜんぶ教えちゃおうっと。兄さん、普段はぼんやりしてるけど、怒ると怖いよ」

 積み上げた衣類に火をつけた。

「パッション、脅かすんじゃないわよ」

「だって……」

 暖めたからといって生き返る保証はないんだから。

 私は兄貴分を見た。

「はぐれなければ、置いていきはしないわよ。嫌なら着ていればいいし……。あ、あなたの服はそっち側に。全体を暖めなくちゃ」

 名人はライターを取って火をつけた。

 ちらりとこっちを見て言った。

「先生、けっこういけてますね……」

「惚れるなよ。迷惑だから」

 じいさんまで言った。

「うむ。美しいのぅ」

「迷惑だってば!」

 タコに尻の穴から邪心を吸い出された若造は、放心したように私たちを見ていた。

 突然にやりと笑うと、服を脱ぎ始める。

 兄貴分があわてた。

「お、お前まで?」

 若造、にやりと笑った。

「一人だけ、着ていられます?」

 何のことはない。兄貴分の裸体が見たいわけだ。私は女だし、名人はがガリ、じいさんは……賞味期限切れ。鑑賞に耐える身体は兄貴分しかいない。

 動機は不純だが、ま、許しましょう。

「裏切りやがって……」

 ぶつぶつ言いながら、兄貴分もジャケットを脱いだ。

 始めはくすぶるばかりだった衣類も、いったん炎を上げると順調に燃えた。与太郎は揺らめく炎に照らされて、幸せそうだ。暖炉の前でうたた寝をしているように。しかし身体はまだ冷たい……。煙が目にしみる……。

 名人が不意に叫んだ。

「ああ! 空気、大丈夫ですか⁉」

 はっとした。密閉した空間で火をたけば、酸素がなくなる!

 水面を見た。上がっている。酸素が減った分だけ洞窟内部の空気の容積が小さくなり、水を吸い上げているのだ……。

 火を消さないと、みんな死んでしまう。だが、暖めなければ与太郎は……。

 と、水面がぼこぼことわき立った。激しく噴き出す気泡の間に、私たちをここに導いた水草が見える。水面はしだいに下がっていった。水草が外の光で合成した酸素を運び、吐き出しているのだ。

 私は胸をなで下ろした。

「やっぱり、神様が味方なんだ……」

 じいさん、晴れやかに笑う。

「当たり前じゃ」

 酸素が増えて炎も勢いを増した。

 パッションが叫ぶ。

「融けてる!」

 くいっ、と与太郎の前足の先が動いた。続いて、短い尻尾が、ぴくん!

 私は与太郎におおい被さって、身体を密着させた。

 ありがたい! さっきほど冷たくない!

 与太郎はしだいに柔らかくなっていく。

 私は耳元で叫んだ。

「頑張って! 呪いに敗けないで!」

 と、耳がぱたぱたと動く。

「いいわよ! その調子!」

 与太郎はぐるっ首を回し、私を見た。

 ぞっとした。

 暖かそうな金色だった目が、冷たいブルーに変わっている! 底無し沼のようなブルーの目から〝敵意〟がにじみ出た。

 よたじゃない! ブルの呪い!

 目の前に巨大な口が開く……。

 パッションが泣き叫ぶ。

「いやぁ! 兄さん、だめぇぇぇ!」

 身体を離す間もなかった。

 気づいた時には、私は首をかじられていた……いや、牙は突き立っているが、皮膚を破ってはいない。致命傷を負わせる寸前で止まっている……。

 私は与太郎の背にしがみついたまま、動けない。

 与太郎の迷いを感じた。

 ブルは私を殺せと命じている。しかし、与太郎は与太郎だ。私の家族だ……。

 名人が一歩、前に出た。

「みんなでかかれば、外せるかも……」

 与太郎は、ふぅーっと喉を鳴らした。敵意は去っていない。迷いも消えない。

 私はかすれた声をしぼり出した。

「動かないで……刺激しないで……」

 パッションが言う。

「母さん! 兄さんに話しかけて!」

 分かった……。

「与太郎……母さんよ……お前の、母さんよ……離しておくれ……痛いよ……」

 ゆっくりと腹をさする。こうすると、いつも心地よさそうに寝返りをうったものだ……。

 うなり声が穏やかになった。

 じいさんがつぶやく。

「お……目が金色に……」

 首をくわえた牙がわずかにゆるむ……。

 そうよ……そのまま……思い出して……家族だということを……こうして、いつも一緒に過ごしていたことを……。

 いきなり、兄貴分が飛び出した。

「今だ! 叩っ殺せ!」

 ばかな!

 与太郎の心がこわばった。

 パッションが兄貴分に飛びつく。

「やめてぇ!」

 兄貴分はパッションに足をかじられてわめいた。

「てめえ!」

 パッションをつかんで水に投げ込む。

 若造が兄貴分にしがみついた。

「やめてください!」

 じいさんも兄貴分を押さえに加わる。

 黙って! 静かに! 動かないで! 牙が食い込んでいるんだってば!

 与太郎の敵意は爆発寸前だった。今、与太郎の中では呪いと記憶が戦っている。このまま呪いが強まれば、牙は閉じる……。

 パッションを水からすくい上げた名人が、ゆっくりと与太郎に近づきながらうめいた。「目が、またブルーに……」

 パッションの尻尾からしたたった水が、衣類が上げる炎に落ちて蒸気が上がる。

 ジュ!

 緊張が高まる。みんな、金縛りだ。

 パッションが叫んだ。

「写真よ! いずみちゃんと、つばさちゃんの写真!」

 パッションの意図を察した名人は、大きくうなずいた。下に落ちていた私のポーチからカード入れを出し、写真を抜く。

 いずみとつばさ、そして猫三匹が戯れる、のどかな午後――。我が家の庭先には、初夏の光が満ちあふれている――。

 名人は、さらにゆっくり与太郎に近づいた。

 与太郎は喉の奥で低いうなり声をたてて威嚇する。

「よた……僕だよ……いつも、煮干しを持ってきてただろう……友達だろう……」

 そっとよ……そっと近づくのよ……。

 牙は今にも頸動脈を切断しそうだ……。

 名人はさらにさらにゆっくりと写真を差し出した。

「分かるかい……いずみちゃん……つばさちゃん……大切な家族だ……いつも一緒に遊んでいたじゃないか……散歩も一緒、雪遊びも一緒……思い出してくれよ……ブルなんかに敗けるな……打ち勝つんだ……やっつけて、帰ろう……みんなの所に帰ろうよ……」

 パッションは小さく震えている。

「兄ちゃん……兄ちゃん……」

 パッションは水を飲まずにすんだようね……。おまえまで呪われてしまったら……。

 与太郎の敵意がしぼんでいく。牙がゆるんだ。

 助かったの?

 目を上げると、炎から立ちのぼっていた蒸気がくるくると渦を巻くのが見えた。自らの意志を持った生き物のようにうねり、私たちの目の前に漂う。そして二つに分かれ、私と与太郎の鼻に飛び込んだ。

 呪いが解けたことが〝分かった〟。

 与太郎が口を開く。

 私は放心状態で与太郎の背中から転げ落ちた。不思議なことに、牙が刺さった首の痛みが消えていた。

 与太郎は何事もなかったように、しなやかに立ち上がる。ぼんやりと寝転がっている私を見て、ぐるぐると嬉しそうに喉を鳴らした。いきなり、あごをなめあげる。

「やだ……痛いってば……」

 涙があふれた。

 みんなも気が抜け、ぺったりと座り込んでいる。

 私はすり寄る与太郎の首にしがみついた。勝ったのよ!

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