パッションがおびえた声を絞り出した。

「母さん……怖い……」

 抱きしめた私の腕に生暖かいものが広がる。アンモニアの臭いが、つんと鼻を突いた。 ちびっちゃったのね……。

 誰かが言う。

「く……臭せえぞ……」

 否定は出来ない。もう、空気さえないというのに……。私も思わず顔をそむけた。

 ……そむけた? あれ? 空間が広がっているじゃない!

 名人が言った。

「あ……あれ? どうしたんだろう?」

 外を囲んだ犬の集団に隙間ができた。緑の壁にぼんやりとした光が筋になって現れる。呼吸も少し楽になった。

 じいさんが足もとを指さした。

 水草の床が激しくうごめいている。パッションのおしっこがかかった所らしい。

「栄養を取って成長しておるんじゃ……」

 あ、そうか。肥料をやったわけね。それで、こんなに元気に……。

 こういう時の名人は異様に反応が早い。

「人間のおしっこも、あり?」

 言いながらもがいて、ジッパーを下げている。壁に張りついたまま放尿したらしい。びちょびちょと音がした。

 ぐぐぐ……。

 お! 効きます!

 空間はさらに広がった。それにつれて差し込む光も強まり、酸素も増す。藻の球体は水面に向かってぐんぐん伸びているようだ。もう一息で、犬どもの包囲を突き抜けられる。「どれ、わしもひとつ」

「俺もするぜ!」

 若造は兄貴分の股間に見惚れる。

「う……嬉しい……」

 やだな、こんな狭い場所で。レディーもいるのに。でも……でかい……かも……。

 兄貴分は照れた。

「ばか! 早くお前もたれろ!」

 男どもが一斉に、した。小便はすぐに壁に吸い込まれ、下には溜まらない。しかし、臭いはひどかった。

「臭ぇな」

「当然よね」

 臭くても酸素がある。清潔にあの世に旅立つより、鼻を曲げて生き延びた方が賢い。

 壁は活発にうねっていた。

 ぶん!

 いきなり空間が膨張した。光が満ちる。ついに犬の体重に打ち勝って弾き飛ばしたのだ。内部は始めよりも広くなり、再び窓ができていた。

 私は外をのぞいた。

 壁の外には無数のトゲが生えていた。〝槍〟と呼ぶ方が正確かもしれない。緑の球体はウニのように武装し、犬たちを攻撃していた。くねくねと動く槍を使って、張りついている犬を容赦なく突き落とす。こりずに飛びかかる奴はあっけなく串刺しになった。湖底には、傷つき、倒れた犬がひしめいている。

 助かった……。

 私は思わずつぶやいた。

「すばらしい成長力ね……。おしっこをかけただけでこんなに育つなんて……」

 じいさん、うなずいた。

「わしゃぁ信じておったよ」

 どうかな。震えていたでしょうに。

 私はほほえんでパッションをなでた。

「偉いね。お手柄だったわ」

 パッションはうつむいてつぶやく。

「恥ずかしくなんかないもん……。私、猫なんだから……」

 結果はどうあれ、人前で漏らしたのはつらいか。あなたもレディーだもんね。

 私はパッションに窓を見せた。

「洞窟に入るわよ」

 私たちは崖の穴に突入した。

 球体は狭く暗い穴をうねうねと通過し、やがて上昇した。水面を割る。

 天井が開くと、アンモニア臭のない空気が内部に吹き込んだ。胸いっぱいに吸い込む。

 やっぱり、臭いのはつらいよね。

 しかし、洞窟は真っ暗だった。手で辺りを探る……。固い岩に触れた。登れそうだ。

 背後でじいさんが言った。

「ど、どうするんじゃ?」

「もちろん、出る」

「わ、わしは……」

 兄貴分が、くくっと笑った。

「怖いか?」

 じいさん、むきになった。

「ば、馬鹿を言うな!」

 じいさん、暗いのが怖いの……?

 私は言った。

「神を信じましょうよ」

 よじ登った所は、乾いた砂利におおわれていた。相当の広さがあるようだが……。

「誰か、ライターを持っていない?」

「あ、あっしが」

 若造だ。かすかにオイルの匂いがして、小さな火がともる。

 不気味なほど、がらんとした空間だ。豪邸が一軒が納まるほどの大きさで、天井も高い。生き物の住みかではないらしい。動物的な臭いがまったくしない。

 私はジッポを受け取った。

「まず、与太郎を上げるわよ」

 兄貴分が上陸した。パッションも飛び上がる。

 二人で前足を引き、残りが押す。与太郎は砂利の上にごとんと転がった。

 私はかがんで与太郎の心臓に耳を押しつけた。与太郎の体毛はごわごわ強ばり、身体は氷のように冷たい。押しつけた耳がしびれるほどだ。

 鼓動は聞こえない……。

 パッションがきっぱりと言った。

「死んではいないわ」

 私には信じられない。こんなに冷えきっても、まだ生きていられるの?

「本当に分かるの?」

「兄さんだもの。とにかく、暖めて」

 希望を捨ててはいけない。与太郎を殺してはならない。

 私はうなずき、燃やせるものを捜し始めた。

 みんなが上陸すると、草の球体は水に沈んだ。暗さに慣れてくると、水面がぼんやり光っていることが分かった。水中にも、洞窟にあったような光る苔が生えているらしい。

 名人が言った。

「犬……入って来ないでしょうね」

「プランクトンが守ってくれるわよ」

 兄貴分がいきなり私をにらみつけた。

「約束だ。子分に落としまえをつけさせる。いいな?」

 そうだった。若造、ブルにコントロールされているんだものね。放ってはおけない。

 私は若造に尋ねた。

「自分がしたこと、覚えてないのね?」

「へえ……すんません」

 私はうなずき、みんなに言った。

「おかしいと思っていたのよ。ビーストは迷わず追って来たし、私たちはことごとく罠にはまるし。手引きした者がいるとしか考えられないわ」

 みんなは若造を厳しい目で見つめた。

 若造がうめく。

「そ、そんな……」

「あなたが地面に模様を書いていたのを、二度見たわ。あれ、ビーストに知らせるサインだったんでしょう?」

「あ、あっしが? まさか、そんな……そんな事、したんですか?」

 覚えていなくて当然かもね。

「あなた、ビーストにオカマを掘られたのよね?」

「え? あ、まあ、その……。はい」

 にやにやするんじゃない!

 じいさんが、おおっと手を打った。

「そうか……。奴らの子種じゃな?」

 私はうなづいた。

「恐らく。尻からあなたをコントロールしたんでしょう」

「た、助けてくださいよぅ!」 

 しがみつかれた兄貴分が言った。

「オカマ、やめろ」

「そ、そんな……いまさら……。ど……どうすりゃあ、いいんですか……?」

 うーん。方法はあるが、道具が…… あ。もしかしたら!

 私はじいさんのリュックからあけみを出し、手を突っ込んだ。

「きゃ、ラッキー!」

 ちっこいのが一匹張りついている!

 兄貴分が身を乗り出す。

「何だ?」

 私は目の前に差し出した。

「ほら」

「ひ! タ、タコ!」

 兄貴分はあわてて三歩しりぞく。

 タコはあけみに足を半分食いちぎられていたが、辛うじて生きていた。

 兄貴分に言った。

「取って。子分さんのお尻に貼りつけるのよ。きっとブルの呪いが吸い出せるわ」

 さらに二歩バック。

「な、なんで、俺が⁉」

「兄貴なんでしょう? 子分の不始末は兄貴の不始末」

 若造、ズボンのベルトに手をかけ、うっとりと鼻を鳴らした。

「兄貴ぃ、お願いしますぅ」

 これにて、一件落着。

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