4
パッションがおびえた声を絞り出した。
「母さん……怖い……」
抱きしめた私の腕に生暖かいものが広がる。アンモニアの臭いが、つんと鼻を突いた。 ちびっちゃったのね……。
誰かが言う。
「く……臭せえぞ……」
否定は出来ない。もう、空気さえないというのに……。私も思わず顔をそむけた。
……そむけた? あれ? 空間が広がっているじゃない!
名人が言った。
「あ……あれ? どうしたんだろう?」
外を囲んだ犬の集団に隙間ができた。緑の壁にぼんやりとした光が筋になって現れる。呼吸も少し楽になった。
じいさんが足もとを指さした。
水草の床が激しくうごめいている。パッションのおしっこがかかった所らしい。
「栄養を取って成長しておるんじゃ……」
あ、そうか。肥料をやったわけね。それで、こんなに元気に……。
こういう時の名人は異様に反応が早い。
「人間のおしっこも、あり?」
言いながらもがいて、ジッパーを下げている。壁に張りついたまま放尿したらしい。びちょびちょと音がした。
ぐぐぐ……。
お! 効きます!
空間はさらに広がった。それにつれて差し込む光も強まり、酸素も増す。藻の球体は水面に向かってぐんぐん伸びているようだ。もう一息で、犬どもの包囲を突き抜けられる。「どれ、わしもひとつ」
「俺もするぜ!」
若造は兄貴分の股間に見惚れる。
「う……嬉しい……」
やだな、こんな狭い場所で。レディーもいるのに。でも……でかい……かも……。
兄貴分は照れた。
「ばか! 早くお前もたれろ!」
男どもが一斉に、した。小便はすぐに壁に吸い込まれ、下には溜まらない。しかし、臭いはひどかった。
「臭ぇな」
「当然よね」
臭くても酸素がある。清潔にあの世に旅立つより、鼻を曲げて生き延びた方が賢い。
壁は活発にうねっていた。
ぶん!
いきなり空間が膨張した。光が満ちる。ついに犬の体重に打ち勝って弾き飛ばしたのだ。内部は始めよりも広くなり、再び窓ができていた。
私は外をのぞいた。
壁の外には無数のトゲが生えていた。〝槍〟と呼ぶ方が正確かもしれない。緑の球体はウニのように武装し、犬たちを攻撃していた。くねくねと動く槍を使って、張りついている犬を容赦なく突き落とす。こりずに飛びかかる奴はあっけなく串刺しになった。湖底には、傷つき、倒れた犬がひしめいている。
助かった……。
私は思わずつぶやいた。
「すばらしい成長力ね……。おしっこをかけただけでこんなに育つなんて……」
じいさん、うなずいた。
「わしゃぁ信じておったよ」
どうかな。震えていたでしょうに。
私はほほえんでパッションをなでた。
「偉いね。お手柄だったわ」
パッションはうつむいてつぶやく。
「恥ずかしくなんかないもん……。私、猫なんだから……」
結果はどうあれ、人前で漏らしたのはつらいか。あなたもレディーだもんね。
私はパッションに窓を見せた。
「洞窟に入るわよ」
私たちは崖の穴に突入した。
球体は狭く暗い穴をうねうねと通過し、やがて上昇した。水面を割る。
天井が開くと、アンモニア臭のない空気が内部に吹き込んだ。胸いっぱいに吸い込む。
やっぱり、臭いのはつらいよね。
しかし、洞窟は真っ暗だった。手で辺りを探る……。固い岩に触れた。登れそうだ。
背後でじいさんが言った。
「ど、どうするんじゃ?」
「もちろん、出る」
「わ、わしは……」
兄貴分が、くくっと笑った。
「怖いか?」
じいさん、むきになった。
「ば、馬鹿を言うな!」
じいさん、暗いのが怖いの……?
私は言った。
「神を信じましょうよ」
よじ登った所は、乾いた砂利におおわれていた。相当の広さがあるようだが……。
「誰か、ライターを持っていない?」
「あ、あっしが」
若造だ。かすかにオイルの匂いがして、小さな火がともる。
不気味なほど、がらんとした空間だ。豪邸が一軒が納まるほどの大きさで、天井も高い。生き物の住みかではないらしい。動物的な臭いがまったくしない。
私はジッポを受け取った。
「まず、与太郎を上げるわよ」
兄貴分が上陸した。パッションも飛び上がる。
二人で前足を引き、残りが押す。与太郎は砂利の上にごとんと転がった。
私はかがんで与太郎の心臓に耳を押しつけた。与太郎の体毛はごわごわ強ばり、身体は氷のように冷たい。押しつけた耳がしびれるほどだ。
鼓動は聞こえない……。
パッションがきっぱりと言った。
「死んではいないわ」
私には信じられない。こんなに冷えきっても、まだ生きていられるの?
「本当に分かるの?」
「兄さんだもの。とにかく、暖めて」
希望を捨ててはいけない。与太郎を殺してはならない。
私はうなずき、燃やせるものを捜し始めた。
みんなが上陸すると、草の球体は水に沈んだ。暗さに慣れてくると、水面がぼんやり光っていることが分かった。水中にも、洞窟にあったような光る苔が生えているらしい。
名人が言った。
「犬……入って来ないでしょうね」
「プランクトンが守ってくれるわよ」
兄貴分がいきなり私をにらみつけた。
「約束だ。子分に落としまえをつけさせる。いいな?」
そうだった。若造、ブルにコントロールされているんだものね。放ってはおけない。
私は若造に尋ねた。
「自分がしたこと、覚えてないのね?」
「へえ……すんません」
私はうなずき、みんなに言った。
「おかしいと思っていたのよ。ビーストは迷わず追って来たし、私たちはことごとく罠にはまるし。手引きした者がいるとしか考えられないわ」
みんなは若造を厳しい目で見つめた。
若造がうめく。
「そ、そんな……」
「あなたが地面に模様を書いていたのを、二度見たわ。あれ、ビーストに知らせるサインだったんでしょう?」
「あ、あっしが? まさか、そんな……そんな事、したんですか?」
覚えていなくて当然かもね。
「あなた、ビーストにオカマを掘られたのよね?」
「え? あ、まあ、その……。はい」
にやにやするんじゃない!
じいさんが、おおっと手を打った。
「そうか……。奴らの子種じゃな?」
私はうなづいた。
「恐らく。尻からあなたをコントロールしたんでしょう」
「た、助けてくださいよぅ!」
しがみつかれた兄貴分が言った。
「オカマ、やめろ」
「そ、そんな……いまさら……。ど……どうすりゃあ、いいんですか……?」
うーん。方法はあるが、道具が…… あ。もしかしたら!
私はじいさんのリュックからあけみを出し、手を突っ込んだ。
「きゃ、ラッキー!」
ちっこいのが一匹張りついている!
兄貴分が身を乗り出す。
「何だ?」
私は目の前に差し出した。
「ほら」
「ひ! タ、タコ!」
兄貴分はあわてて三歩しりぞく。
タコはあけみに足を半分食いちぎられていたが、辛うじて生きていた。
兄貴分に言った。
「取って。子分さんのお尻に貼りつけるのよ。きっとブルの呪いが吸い出せるわ」
さらに二歩バック。
「な、なんで、俺が⁉」
「兄貴なんでしょう? 子分の不始末は兄貴の不始末」
若造、ズボンのベルトに手をかけ、うっとりと鼻を鳴らした。
「兄貴ぃ、お願いしますぅ」
これにて、一件落着。
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