頭上から襲いかかってくるはずの〝呪われた水〟を飲み込まないように、私はうつむいて息を止めた。が、ボートの中に水は落ちてこなかった。

 私はゆっくりと顔を上げた。 

〝水の悪魔〟はボートに流れ込む寸前でストップモーションをかけられたように動きを止めていた。水は緑色に濁って、ぷるぷると震えている。悪魔の顔は苦痛に歪んでいた。

 じいさんが感心してうなった。

「うーむ。こんな手があったとはな」

 名人がぽかんと〝悪魔〟見上げる。

「どうして……?」

 私が説明した。

「プランクトンと藻よ」

〝悪魔〟の体内に、グリーンの微生物と藻の切れ端が入り込んでいたのだ。無数の小さな生き物が内部から〝水〟を縛りつけ、動きを封じている。だが〝悪魔〟の力が消えたわけではなく、それはわずかずつボートの上にせりだしてきていた。

 恐怖に駆られた兄貴分が叫ぶ。

「早く漕げ!」

 兄貴分は猛然とオールを振う。ボートが離れると〝水の悪魔〟はどっと崩れ落ちた。

 直撃は避けられたものの、波をかぶったボートは水浸し。もはや、泳ぐしかない。たとえ、泳げなくても。

 と、周囲の水面が瞬く間にグリーンに変わっていった。沈みかけたボートが、ぐぐっと持ち上がる。傾いたボートから、侵入した水が流れ出た。

 私はうめいた。

「水草がボートの下に集まっている……」

 じいさんがうなずいた。

「神の力じゃ。信じろと言ったろう」

 うん、とうなずいた瞬間、ボートはどしんと落ちた。不意に水草がへこんだのだ。水面にできた緑色の落とし穴……。

 神様、何をする気なのよ……?

 私たちは落下の衝撃でボートから放り出された。じっとりと濡れた緑色のじゅうたんが激しくうねる。私たちは立ち上がることもできずに草のへこみの中心に転げ落ちていった。逆にボートは水草の外側に押し出され、視界から消え去ってしまった。私たちの下には、絡み合った藻しか残っていない……。

 兄貴分は半狂乱だ。

「馬鹿野郎! なんでボートを捨てるんだよ⁉ ここは水の中だろうが!」

 そう……そのはずよね。私たちは水面から一メートルは下にいる……。

 回りは一面、緑色。上に見える円形の空がしだいに縮まっていく。

 おい、神様! 助ける気があるの⁉

 しかしやはり、神には信じるに足る力があった。私たちは、球体に変わっていく水草に包み込まれていたのだ。水中に漂う、馬鹿でかいシャボン玉に――。

 名人が感激する。

「潜水艦……ですね」

 ぼんやりと上を見つめている間に、天井もきっちり閉じた。狭い。しかし、暗くも、息苦しくもない。植物プランクトンが光を透過し、内部に酸素を吐き出しているらしい。

 私はそっと壁面に触った。

「柔らかいけど、相当厚みがあるみたい」

 兄貴分が鼻を鳴らす。

「喜ぶな。閉じ込められたんだぞ」

「神を信じろ!」

 と、じいさん。

「外も見えねぇのに信じられるか!」

 兄貴分が金切り声を上げたとたんに目の前が明るくなった。緑の壁にぽっかりと丸い〝穴〟が開いたのだ。

「ばか!」

 兄貴分はあわてて両手で穴を塞いだ。

「あれ……? 穴じゃねぇのか……」

 壁の一部分が透明に変わったのだ。透き通ったプランクトンが集まったのだろう。

 じいさん、当然のことのように言った。

「な、窓だってあるじゃろう?」

 パッションは、私の胸にしがみついて震えていた。

 そりゃぁ、怖いよね。水の中だもの。

 私はそっと抱きしめた。

 窓をのぞいていた兄貴分、振り返って茫然と言った。

「水の中に何が泳いでいると思う?」

 ぴんときた。

「犬」

「何で知ってる⁉」

「猫が好きな魚は空中にいる。嫌いな犬は水の中に決まってるでしょう?」

 ミステリー作家を甘く見ないでね。

「じゃあ、何をしていると思う?」

「襲ってくるの⁉」

 私の脇で緑の壁がぐっと出っ張った。犬の顔の形に変わる。外から力まかせにかじりついているのだ。

 大型犬ね……。

「よけて!」

 と言ったって、中は狭い。みんなごろごろと転がって、もみくちゃになった。私もパッションを抱えたまま三回ほどでんぐり返ってしまった。

 しかも、犬の頭はあっちこっちから飛び出してくる。目の前にもでっかい口が……。

 じいさんが叫んだ。

「落ち着け! 信じろ!」

 言えることはそれだけ⁉ ……が、正解だった。

 牙は勢いよく閉じたが、私に身体にはかすりもしない。後は元通りの草の壁。犬たちはうなり、かじり続けたが、壁が破れる気配はなかった。

 自分に言い聞かせた。

「そう……信じるのよ」

 落ち着きを取り戻した若造が言った。

「でも、あっしらはどこに連れて行かれるんですか?」

 兄貴分が身をよじって殴る。

「ふざけた口をきくな! ボートを沈めやがって!」

「す、すんません! で、でも、自分でも何をしたのか……」

 分かっていないんでしょうね。

 私は、さらに殴りかかろうとする兄貴分を止めた。

「話をつけるのは、助かってからにして」

「女がぐずぐず口を出すんじゃねぇ!」

「興奮すると、酸素がなくなるわよ」

 兄貴分、ひっとうめいて口を押さえた。

 若造は私に向かって素直にほほえんだ。

「先生……ありがとう」

 しかし、本当にどこへ連れて行かれるのかな……?

 名人がつぶやく。

「ゲームだったら、城の地下とかに出られるんだけ……」

「そんなに簡単にいくもんですか」

 わ!

 突然〝球体〟が激しく動き出した。私たちは壁に押しつけられた。球の形も、まさしく潜水艦のように細長く変わっている。

 名人が這って前方の窓をのぞいた。

「あ! 陸地が近づいている……いいえ! 島です! 猫の島だ!」

「ほんと?」

 私も名人と頬を並べた。

 切り立った崖が見える。崖にはぽっかり黒い穴が開いていて……。

 名人、興奮していた。指先がゲームのコントローラーを押すように、せわしなく動いている。

「行け! 突っ込め! あの洞窟、城に続いていますよ、きっと!」

「だといいけど……」

「決まってるじゃないですか!」

 あなたの世界では、ね。

 じいさん、笑った。

「信じるんじゃ」

 が、やはり簡単にはいかない。

 私たちの下を、巨大な犬が群れをなして疾走していく。ハスキー、セントバーナード、ドーベルマン――さまざまな犬が湖底から湧き出るようにして、どんどん数を増す。崖の穴に先回りして塞ぐ気らしい。私たちが着いた時には、穴は組体操のように積み上がった犬に封じられていた。

〝潜水艦〟がぐらぐらと揺れた。犬のバリアーに激突したのだ。

 犬は私たちの上に崩れ、のしかかった。植物を通して届いていた光がさえぎられ、暗くなる。内部の空間は、折り重なった大型犬の体重につぶされてどんどん狭まっていく。

 そんな馬鹿な⁉ このまま死んじゃうなんて、あり?

「おじいさん! どうするのよ⁉」

 言葉がない。

 兄貴分がうめく。

「畜生、苦しいぞ……」

 酸素が減っている!

 光を阻まれて光合成が出来なくなったの⁉

 空間はさらに縮まり、私たちは互いの身体に顔面を押しつけた。与太郎の冷たい身体が全員の体温を奪っていく……。

「く……苦しい……」

「痛てぇな! 手をどけろ!」

「どけろったって……」

 そんな場所はないわよ。やだ、誰よ、そんなところ触らないで!

 なんて言っている余裕もない。うう……。骨が……折れそう……。

 若造がつぶやく。

「兄貴と死ねて、本望っす……」

「嬉しくねぇ!」

 頭がくらくらしてきた……。

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