第三章・悶絶! 猫次元行(ねこじげんこう)

 目を開けた。

 おや、生きているの……? ありゃ、それどころか、痛みも感じない。

 切り立った崖を、まっさかさまに五十メートル――それぐらいは落ちた気がする。なのに、なんで無事なのさ?

 横で名人がつぶやいた。

「ラッキーですね」

 はい。……でも、なぜ?

 じいさんが言った。

「地面が柔らかい。ほれ、コンニャクのようじゃ……」

 不思議そうに地面を平手で打つ。ぶるるんと波紋が広がった。

 兄貴分がまねて、地面を叩く。力が強すぎて拳は地面を突き抜けた。

「わ! なんだ⁉ 穴が開いちまった!」

 やりすぎなんだってば。

 辺りがぼんやりと明るい。崖の全面にびっしりと張りついた苔が、淡い光を放っている。とりあえず、全員揃ってもいる。理由はともかく、助かったことは素直にありがたい。足元が安定しないので立ち上がれないのが不安ですけど……。

 頭上には、夜明けの空が天の川のように開けている。やはり相当な距離を落ちたらしい。

 と、ビーストの叫びが聞こえ、崖の縁から小さな顔がずらりとのぞいた。槍が降ってくる。しかし、下の方が暗いので狙いはでたらめだ。次には石が落ちてきた。これも当たらない。最後に投げられたのは、ビースト自身だった。走りすぎてへばった奴が爆弾代わりにされたんだわ。つくずく残忍な生き物だ。人間爆弾にされたビーストは、両手を振り回しながら五メートルほど脇を落ちていく。

 落ちていく……? なんでさ。ここが割れ目の底じゃないの?

 異常に気づいた。わずかずつだが、崖がせり上がっている……。

 違う! 私たちが下がっている! まるで、エレベーターで降下していくように。

 パッションが、地面に鼻をすりつけながら歩いた。すぐに止まる。

「あら。先がないわ」

「え?」

「私たちがいる所だけ地面が出っ張ってるのよ。プリンみたい」

 一部分だけ盛り上がった柔らかい地面が、落下する私たちを受け止めたわけだ。それが今度は、平べったくなりつつある。

 崖の下降が止まった。本物の底に着いたらしい。地面も固くなった。しかし、空気はよどんで、かびくさい。陰気な場所だ。生き延びられた喜びも、たちまちしぼんでしまった。

 与太郎が歩きだした。私も立ち上がった。光る苔のおかげで足元は確かめられる。

 私たちが乗って来た〝地面〟が、ざわざわと細かく動いていた。水が染み込むように動きが広がり、固い地盤と見分けられなくなっていく……。

 じいさんが足もとの土を一握りすくい上げた。手のひらを苔に近づけ、見つめる。

「生きておる……土が生きておる……」

 若造が鼻を鳴らした。

「馬鹿な」

 名人が胸を張った。

「いい土は生きています。菌類や大量の微生物が盛んに活動し、地球の環境を支えているんです。遺伝子工学が発展したおかげで、近年、微生物の存在価値が見直されてきました」

 明快な解説です。SFオタクも馬鹿にできないじゃない。

 じいさんが手のひらを差し出す。

「こいつら、ほとんど生き物だ……」

 砂が落ちるように、指の間から土がこぼれた。一つ一つの粒が自分で動いている……。

 私は言った。

「全部、虫なの……?」

 兄貴分が気味悪そうにうめいた。

「おい、虫の固まりに落っこちたのか?」

 たしなめたのはパッションだ。

「命を助けられたのに、失礼ね」

 名人は……目をむいて硬直していた。

「む、むし……」

 嫌い、らしい。知識と感情は別だという見本ね。

 すぐそばには、血反吐を吐いたビーストの死体が転がっていた。地面から盛り上がった微生物がいなければ、我々も同じ目にあっていた……。

 じいさんがうなずく。

「こんな土は見たことがない。まして、土が人間を助けるなどは……。誰かの指図で虫どもが動かされたに違いない」

 パッションが応えた。

「神様、ね」

 私もうなずいた。誰かが私たちを見守り、援助していることは、もはや疑いようがない。そんなことができる存在を、普通、神と呼ぶ。

「しかし、神って何者? 猫の神様なんでしょう? どこにいるのか知ってる?」

 パッションは言った。

「会ったことはないけど、神様はたいてい湖に住んでいるって、おばあちゃんが言ってた」

 湖……。何かの生き物の形を取っているのだろうか? 少なくとも、魚ではないわね。彼らの住処は空中だから……。

 じいさんが真剣に言った。

「わしはずっと考えて来た。答えが出たよ」

「なんの?」

「わしらを助けている者が何か、という疑問じゃ」

「なに?」

「小さな者、じゃ」

「ん?」

「草や微生物……。タコやイカ、蚊もそうじゃな。だから、大きく強いものは敵じゃ。サメにビースト……。奴らはブルの悪意に操られておる」

 パッションがうなずく。

「そうよ。私たちをビーストの村に連れていったのは樫の木だもの。しかも、ビーストの正体を知っている私たちをマタタビで引き離しておいてからよ。木が猫をだますなんて、普通じゃ考えられない。ビーストだって、いつもはあんなにしつこくないし。この世界の決まりが狂ってきてるのよ。ブルの仕業ね」

 私もうなずいた。

「森の中で、草は樫の木を邪魔しようとしていたわね。あれは、私たちをビーストに近づけないためだったんだわ……。そうすると、都合よく湧いてきた霧も?」

 じいさんは言った。

「何かの生き物が吐き出したのかもな」

 と、頭の上を何かがよぎった。

 ぶん! ぶん!

「ぎゃ!」

 肩に鋭い痛みが走る。何かが頬を叩く。

 鳥だ! クチバシが刺さったのだ。しかも、でっかい。ワシかタカか?

 与太郎が跳んだ。羽ばたきながら私の目をつつこうとする鳥を牙でくわえる。

 ふん! たかが鳥が、地上で猫に勝てるものですか!

 しかし、鳥は無数に舞い降りてくる。見上げると、空の帯が真っ黒にうずめられていた。鳥たちは振り払ってもすぐに頭のまわりに戻り、しつこく目を狙ってくる。与太郎はジャンプを続けるが、焼け石に水……。

 皆、頭を抱えてうずくまるのが精一杯。

 名人だけが動かない……。なんで? ありゃ、まだ硬直してる!

 私は名人の足に飛びついて倒し、身体の上におおいかぶさった。いくらなんでも、これほど虫が苦手だとは知らなかったわ。

 しかし、神は私たちを見捨てなかった。

 地面のあちこちからまたも霧が湧き上がったのだ。始めはラーメンの湯気ほどの揺らめきだったが、急激に厚みを増していく。私たちの身体はぐんぐんと高さを上げていく霧に呑み込まれていった。目の前が白く濁る。同時に鳥の攻撃は遠ざかっていった。

 霧に包まれてようやく一息ついた私は、上体を上げて顔をのぞかせた。困ったことに私って、好奇心が押さえ切れないB型で……。

 つま先立ちをするとようやく霧の表面から頭が出た。

 高山のてっぺんで見る雲海のような霧の表面は、ふつふつとわき立っていた。波打つ白い雲から無数の霧の固まり飛び出し、勢いよく上昇していく。音はしないが、何百という迫撃砲が一斉に発射されているようだ。白い球体はすばしこく進路を変えて鳥を追い、包み込む。捕らえられた鳥たちは一瞬でひきつり、次々に落ちていく……。

 この霧は意志を持って鳥たちを攻撃し、我々を守っているのだ。

 すべての鳥が落下して動きを止めると、霧は薄く広がり、私たちのまわりでかすかに漂うだけになった。

 お祭り騒ぎは呆気なく終わった。残ったのは周囲を埋め尽くす鳥の死体だけ。

 私は立ち上がって、肩の傷を確かめた。出血はわずかで、深くもない。

 じいさんがぼんやりとつぶやく。

「ここの霧、生きておるな……。それにしても、追手がしつこい。鳥まで使うとは……」

 名人の頬を叩き、立たせた。

「なにか、あったんですか? あれ、この鳥……うわぁ、こんなにいっぱい、どうしたんでしょう? 昼飯は焼き鳥ですか?」

 どうしたのか聞きたいのは、こっち!

 じいさんが説明すると、名人は悲しげに結論した。

「この世界……すっかりブルの手に落ちてしまったんですね……」

 うなずくしかなかった。

「神はブルに敗れたようね。少なくとも、表向きは。ブルは大きく強い生き物を配下に納めた。今、神の意志に従っている者は、小さく弱いものだけみたい……」

 神をも凌ぐブルの魔力……。まともに戦っても勝ち目はないのかも……。

 ひんやりとした霧のせいか、空気が甘く、新鮮に感じられた。次第によどんだ気持ちが晴れていく。なぜか、心の奥から力がわき上がる……。

 みんなも顔を上げ、胸を張りはじめた。

 じいさんが威勢よく言った。

「小さな者は弱くなどない。世界の根っこを支えているのは、目にも見えぬ彼らなのじゃ。事実、わしらは救われた」

 その通りだ。勝ち目はある。ただ一つの、勝ち目……。

 私は決断した。

「まず、神様を捜すのよ。ブルに力を奪われているなら、救い出して手を組むのよ。でなければブルは倒せない。家にも帰れない」

 誰かが、おうっと気合を入れた。

 活気が戻っていた。〝神の力〟を体内に呼び込んだような気分だ。

 口々に叫ぶ。

「やったるぜ!」

「敗けるものですか!」

「目にもの見せてやるのじゃ!」

 パッションがぽつりと言った。

「道案内が欲しいわね」

 あ……。

 地面の底から這い上がらなければ、手も足も出ないんだっけ……。

 みんな、またうつむいてしまった……。

 わずかに残った霧までが、崖に吸い込まれるように消えていく……。

 私は溜め息をつき、目を上げた。行く手に立ちはだかる絶壁を仰ぎ見ると――。

 思わず噴き出してしまった。

 若造が鼻を鳴らす。

「不謹慎ですぜ、先生。こんな時に……」

「ごめん……でもね……あれ、見て」

 笑いが止まらないんだもん。

 指さした先に、光る苔の矢印がへばりついているのだ。ご丁寧に矢印の中には『EXIT』の文字が書き込まれていた。

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