7
与太郎の太い前足を引きずり上げたが、巨体は動かない。鼻を殴ろうが、髭を引っ張ろうが、腹を蹴飛ばそうが、目も開けない。
と、村にうおぅーと雄叫びが上がる。あわてて様子を見ると、広場に飛び回っていたタコが消えている。槍で刺されて焚き火に投げ込まれ〝焼タコ〟に変えられていたのだ。
血まみれのビーストは興奮し、村からあふれ出てくる……。
私はビーストが発散する狂暴なエネルギーにおびえて、思わず口走ってしまった。
「森間へ戻りましょう!」
だが、言ったとたんにビーストたちは横に広がり、森への逃げ道は塞がれた。
真っ裸の団体様は、にやにや笑いながら包囲を縮めてくる……。先頭の女が仲間からもぎ取ったらしい腕をかじってから、それを振り上げて一際大きな叫びを上げた。
兄貴分が負けずに怒鳴り返す。
「いてこましたろうかぁ!」
さすがに迫力では負けていない。
成り行きというものだ。いかに強力な与太郎でも、この状態で残していったら活き造りにされてしまう。戦う他ないわ。
私は、じいさんから借りたリュックを下ろして、叫んだ。
「人間様をなめるんじゃないわよ!」
リュックにはタコをぎっしり詰め込んであるのだ。手のひらのぺたぺたひっつくタコを一匹取り出すと、にじり寄るビーストに向かって投げつけた。
あわてて投げ出したので狙いはメチャクチャ。勢いもリトルリーグ投手にさえ及ばない。だがタコはビーストの〝殺意〟を感じ取ったのか、ぐいと加速して誘導ミサイルのように進路を曲げる。そして先頭の女の股間にぴちゃっと吸いついた。女はタコをはがそうと身をよじったが、腹を減らしていたらしいタコは果敢に抵抗する。
これなら映倫も文句は言わないわね。
ビーストの群れはずずっとしりぞいた。
しかし、持ってきたタコの数は知れている。相手は何人いるものやら……。
じいさんと名人もタコを取った。
じいさんが言った。
「女を人質に取ろう!」
若造が応えた。
「あっしは男の方がいいっす」
こいつら、状況がまったく理解できてない!
「人質なんかムダ。共食いする奴らなんだから! パッション! 早く与太郎を!」
パッションは必死に与太郎をかじる。
「やってるよ!」
若造、リュックからタコを取り出す。
「へい、兄貴どうぞ!」
兄貴分はタコをにらみつけた。
「タコは嫌ぇだ」
勝手にしなさい!
私もリュックに手を突っ込んだ。
「ありゃ、イカだ……」
まあいい。とにかく、投げよう。
ひょいと投げたイカは、しかし、凄まじい勢いでスピードを上げてビーストの胸に尽き刺さった。
「な、なによ、このイカ……」
パッションが言った。
「ヤリイカ」
……だから、槍代わりになるって?
兄貴分がにやりと笑う。
「イカなら使ってやる。よこせ」
イカは兄貴分に手渡した。
兄貴分が投げたイカは破壊力抜群の凶器となって、ビーストを足止めする。なんと一匹で三人のビーストの腹を貫き通してしまったのだ。
「がはは! 俺さまの恐ろしさを思い知ったか!」
「女を……」
じいさん! 未練たらしいってば!
それでも、与太郎は動かない。
名人が言った。
「タコが切れた……」
イカもない。
ついにタコ尽き、イカも切れ……。
ビーストも、こっちの武器がなくなったことを見抜いた。警戒を続けながらも、じわじわと包囲網を縮めてくる……。
兄貴分、ついにドスを抜いた。
「叩っ殺してやる」
おや。武器は奪われていなかったのね。そうだ! 私にもナイフがあったんだ! しかし、相手はまだ三十人は残っている……。いつの間にか霧も消えていた。
私たちは見捨てられたのか……?
「兄貴、男を一人――」
そうつぶやいた若造は、兄貴分に力一杯張り飛ばされた。
私はナイフを口にくわえ、木の槍を握りしめた。
と、また、ビーストの足が止まった。
ん? 私たちはまだ何もしていないよ?
草の中から、黒っぽい煙のようなものが漂い出た。霧ではない。〝それ〟はビーストに吸い取られるように集まり、彼らの裸身を包み込んだ。
パッションが叫ぶ。
「蚊だわ!」
ビーストは狂ったように暴れた。全身をかきむしり、腕を振り回し、転げ回る。無数の蚊がビーストを釘付けにしている!
異変はさらに続いた。
風もないのに、平原を覆った草がなびきはじめたのだ。大洋から押し寄せる波のように、草のうねりが私たちに向かってきた。
ふわりと、与太郎の体が浮いた。
「なに?」
与太郎は〝草の波〟に乗ったのだ。
パッションがすかさず与太郎に飛び乗る。
「早く! 走って!」
与太郎はするすると動き出し、次第にスピードを早めた。まるでサーフボード、いや、リニヤモーターカーだ。
あけみは素早くリュックに飛び込む。じいさんがリュックを取った。
考えている暇なんかない。
「追って!」
私たちは、草に運ばれる与太郎の後を息を切らせて走った。
*
草原が岩場に変わるまで、一キロほど走った。
草のジュウタンが途切れて与太郎が先に進めなくなると、全力で走ってきたみんなもぶっ倒れた。
息が……止まりそうよ……。
私はパッションに聞いた。
「何なの……今の……?」
パッションは、与太郎の上であくび。楽をしやがって。
「わかんない。いいじゃない、逃げられたんだから」
それはそうです。
じいさんが地べたに転がってつぶやく。
「これから……どうするんじゃ……?」
「与太郎が寝てたら……動けないわ……」
私は与太郎の頭をごつんと叩いた。
太くて長い髭がぷるんと震えた。
「あ、起きた」
パッションが地面に降りて与太郎の鼻をなめる。
「世話を……やかせて……」
与太郎はでっかい目を開いて起き上がると、ぐいっと背をのばす。与太郎が元に戻れば一安心だ。私は仲間たちを見回した。
じいさんと名人は大の字に寝転がって酸素をむさぼっている。
若造は地面に座り込み、指先で何やらいたずら書きをしていた。暇な奴だこと。
兄貴分だけは元気いっぱいだ。いきなり声を荒らげる。
「こんな所、さっさとずらかりてぇ! 城はどっちだ⁉ ブルなんぞ叩っ殺してやる!」
ビーストの血を見て興奮しているようだ。野蛮な男ね。
でも、気持ちは同じだ。さっさと決着をつけないと、ビーストに骨までしゃぶられる。
パッションがじいさんのリュックを突っつく。あけみが顔を出して前足で前方を指す。
「あっちの方だってさ」
私は息を整えてから言った。
「与太郎と偵察に行ってきます。おじいさん、双眼鏡を」
ようやく起き上がったじいさんは、腰にぶら下げていた双眼鏡を素直に差し出した。
私はパッションに頼んだ。
「みんなをゆっくり連れてきてね。与太郎の居場所は分かる?」
「兄さんだから、離れていても気配が伝わるよ」
私はうなずいて、与太郎に乗った。
与太郎は軽やかに走った。辺り一面、ごつごつとした岩場。生き物の影は見えない。
与太郎……草に運ばれたこと、覚えている? 誰が私たちを助けてくれたの? 知っていたら母さんにも教えてくれない……?
柔らかく暖かい背中にしがみついているうちに、眠くなった。いけない。こんな場所で落ちたらコブだけじゃすまないわよ……。
と、与太郎は不意に止まって、ぐにゃあと鳴いた。
行き止まり。
先は深い谷になっていた。岩場に裂け目ができている。対岸は百メートルほども先にある。到底渡れないし、裂け目は左右に果てしなく延びている。縁から身を乗り出して恐る恐るのぞき込むと――底まで日が届いていないので、どれだけ深いかも分からない。
こりゃぁ弱ったわね……。
しばらく弱り続けていると、背後に聞き慣れた叫び声が起こった。
連中、もう来たの?
仲間たちの叫び声は警告だった。
「ビーストだ!」
追って来たの⁉
私は叫んだ。
「止まって! 崖がある!」
身を挺してでも止めようと、仁王立ちになって両腕を広げた。間に合わなかった。
緩い斜面を下ってきた名人たちは勢いが止められず、突進してくる。
「わ! ばか! やめて!」
言っている間に、私たちはひと固まりになって崖から落ちた。
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