与太郎の太い前足を引きずり上げたが、巨体は動かない。鼻を殴ろうが、髭を引っ張ろうが、腹を蹴飛ばそうが、目も開けない。

 と、村にうおぅーと雄叫びが上がる。あわてて様子を見ると、広場に飛び回っていたタコが消えている。槍で刺されて焚き火に投げ込まれ〝焼タコ〟に変えられていたのだ。

 血まみれのビーストは興奮し、村からあふれ出てくる……。

 私はビーストが発散する狂暴なエネルギーにおびえて、思わず口走ってしまった。

「森間へ戻りましょう!」

 だが、言ったとたんにビーストたちは横に広がり、森への逃げ道は塞がれた。

 真っ裸の団体様は、にやにや笑いながら包囲を縮めてくる……。先頭の女が仲間からもぎ取ったらしい腕をかじってから、それを振り上げて一際大きな叫びを上げた。

 兄貴分が負けずに怒鳴り返す。

「いてこましたろうかぁ!」

 さすがに迫力では負けていない。

 成り行きというものだ。いかに強力な与太郎でも、この状態で残していったら活き造りにされてしまう。戦う他ないわ。

 私は、じいさんから借りたリュックを下ろして、叫んだ。

「人間様をなめるんじゃないわよ!」

 リュックにはタコをぎっしり詰め込んであるのだ。手のひらのぺたぺたひっつくタコを一匹取り出すと、にじり寄るビーストに向かって投げつけた。

 あわてて投げ出したので狙いはメチャクチャ。勢いもリトルリーグ投手にさえ及ばない。だがタコはビーストの〝殺意〟を感じ取ったのか、ぐいと加速して誘導ミサイルのように進路を曲げる。そして先頭の女の股間にぴちゃっと吸いついた。女はタコをはがそうと身をよじったが、腹を減らしていたらしいタコは果敢に抵抗する。

 これなら映倫も文句は言わないわね。

 ビーストの群れはずずっとしりぞいた。

 しかし、持ってきたタコの数は知れている。相手は何人いるものやら……。

 じいさんと名人もタコを取った。

 じいさんが言った。

「女を人質に取ろう!」

 若造が応えた。

「あっしは男の方がいいっす」

 こいつら、状況がまったく理解できてない!

「人質なんかムダ。共食いする奴らなんだから! パッション! 早く与太郎を!」

 パッションは必死に与太郎をかじる。

「やってるよ!」

 若造、リュックからタコを取り出す。

「へい、兄貴どうぞ!」

 兄貴分はタコをにらみつけた。

「タコは嫌ぇだ」

 勝手にしなさい!

 私もリュックに手を突っ込んだ。

「ありゃ、イカだ……」

 まあいい。とにかく、投げよう。

 ひょいと投げたイカは、しかし、凄まじい勢いでスピードを上げてビーストの胸に尽き刺さった。

「な、なによ、このイカ……」

 パッションが言った。

「ヤリイカ」

……だから、槍代わりになるって?

 兄貴分がにやりと笑う。

「イカなら使ってやる。よこせ」

 イカは兄貴分に手渡した。

 兄貴分が投げたイカは破壊力抜群の凶器となって、ビーストを足止めする。なんと一匹で三人のビーストの腹を貫き通してしまったのだ。

「がはは! 俺さまの恐ろしさを思い知ったか!」

「女を……」

 じいさん! 未練たらしいってば!

 それでも、与太郎は動かない。

 名人が言った。

「タコが切れた……」

 イカもない。

 ついにタコ尽き、イカも切れ……。

 ビーストも、こっちの武器がなくなったことを見抜いた。警戒を続けながらも、じわじわと包囲網を縮めてくる……。

 兄貴分、ついにドスを抜いた。

「叩っ殺してやる」

 おや。武器は奪われていなかったのね。そうだ! 私にもナイフがあったんだ! しかし、相手はまだ三十人は残っている……。いつの間にか霧も消えていた。

 私たちは見捨てられたのか……?

「兄貴、男を一人――」

 そうつぶやいた若造は、兄貴分に力一杯張り飛ばされた。

 私はナイフを口にくわえ、木の槍を握りしめた。

 と、また、ビーストの足が止まった。

 ん? 私たちはまだ何もしていないよ?

 草の中から、黒っぽい煙のようなものが漂い出た。霧ではない。〝それ〟はビーストに吸い取られるように集まり、彼らの裸身を包み込んだ。

 パッションが叫ぶ。

「蚊だわ!」

 ビーストは狂ったように暴れた。全身をかきむしり、腕を振り回し、転げ回る。無数の蚊がビーストを釘付けにしている!

 異変はさらに続いた。

 風もないのに、平原を覆った草がなびきはじめたのだ。大洋から押し寄せる波のように、草のうねりが私たちに向かってきた。

 ふわりと、与太郎の体が浮いた。

「なに?」

 与太郎は〝草の波〟に乗ったのだ。

 パッションがすかさず与太郎に飛び乗る。

「早く! 走って!」

 与太郎はするすると動き出し、次第にスピードを早めた。まるでサーフボード、いや、リニヤモーターカーだ。

 あけみは素早くリュックに飛び込む。じいさんがリュックを取った。

 考えている暇なんかない。

「追って!」

 私たちは、草に運ばれる与太郎の後を息を切らせて走った。


         * 


 草原が岩場に変わるまで、一キロほど走った。

 草のジュウタンが途切れて与太郎が先に進めなくなると、全力で走ってきたみんなもぶっ倒れた。

 息が……止まりそうよ……。

 私はパッションに聞いた。

「何なの……今の……?」

 パッションは、与太郎の上であくび。楽をしやがって。

「わかんない。いいじゃない、逃げられたんだから」

 それはそうです。

 じいさんが地べたに転がってつぶやく。

「これから……どうするんじゃ……?」

「与太郎が寝てたら……動けないわ……」

 私は与太郎の頭をごつんと叩いた。

 太くて長い髭がぷるんと震えた。

「あ、起きた」

 パッションが地面に降りて与太郎の鼻をなめる。

「世話を……やかせて……」

 与太郎はでっかい目を開いて起き上がると、ぐいっと背をのばす。与太郎が元に戻れば一安心だ。私は仲間たちを見回した。

 じいさんと名人は大の字に寝転がって酸素をむさぼっている。

 若造は地面に座り込み、指先で何やらいたずら書きをしていた。暇な奴だこと。

 兄貴分だけは元気いっぱいだ。いきなり声を荒らげる。

「こんな所、さっさとずらかりてぇ! 城はどっちだ⁉ ブルなんぞ叩っ殺してやる!」

 ビーストの血を見て興奮しているようだ。野蛮な男ね。

 でも、気持ちは同じだ。さっさと決着をつけないと、ビーストに骨までしゃぶられる。

 パッションがじいさんのリュックを突っつく。あけみが顔を出して前足で前方を指す。

「あっちの方だってさ」

 私は息を整えてから言った。

「与太郎と偵察に行ってきます。おじいさん、双眼鏡を」

 ようやく起き上がったじいさんは、腰にぶら下げていた双眼鏡を素直に差し出した。

 私はパッションに頼んだ。

「みんなをゆっくり連れてきてね。与太郎の居場所は分かる?」

「兄さんだから、離れていても気配が伝わるよ」

 私はうなずいて、与太郎に乗った。

 与太郎は軽やかに走った。辺り一面、ごつごつとした岩場。生き物の影は見えない。

 与太郎……草に運ばれたこと、覚えている? 誰が私たちを助けてくれたの? 知っていたら母さんにも教えてくれない……?

 柔らかく暖かい背中にしがみついているうちに、眠くなった。いけない。こんな場所で落ちたらコブだけじゃすまないわよ……。

 と、与太郎は不意に止まって、ぐにゃあと鳴いた。

 行き止まり。

 先は深い谷になっていた。岩場に裂け目ができている。対岸は百メートルほども先にある。到底渡れないし、裂け目は左右に果てしなく延びている。縁から身を乗り出して恐る恐るのぞき込むと――底まで日が届いていないので、どれだけ深いかも分からない。

 こりゃぁ弱ったわね……。

 しばらく弱り続けていると、背後に聞き慣れた叫び声が起こった。

 連中、もう来たの?

 仲間たちの叫び声は警告だった。

「ビーストだ!」

 追って来たの⁉

 私は叫んだ。

「止まって! 崖がある!」

 身を挺してでも止めようと、仁王立ちになって両腕を広げた。間に合わなかった。

 緩い斜面を下ってきた名人たちは勢いが止められず、突進してくる。

「わ! ばか! やめて!」

 言っている間に、私たちはひと固まりになって崖から落ちた。

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