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電話の相手は笑っている。
「動物がいきなり巨大化するなんて、ありえないね。ネズミはネズミ、象は象。大きさはおおむね決まっているもんさ。身長五メートルの人間なんてトイレにも入れないぜ。便器があふれちまう」
そんな事は分かっています……訂正、いました。
「小説のネタに使いたいのよ。もっともらしい説明が欲しくてさ」
「食い詰めてSFに転向か? プロだろう? 何とでもこじつけろよ。しかしね、こっちもプロ。三流大学とはいえ、生物学の助手だぜ。『猫が虎のようになります』なんて講義をしたら、首が飛ぶ」
「わ!」
「な、なんだ、いきなり! でっかい声を出すなよな」
「な、なんで『猫』だなんて……⁉」
「猫? あはは、ものの例えさ。君があんまり真剣なんで、からかっただけだよ」
やめてよね、手が震えるじゃない……。
そもそも、大学の教師なんかに聞いたのが間違いでした。幼なじみとはいえ、筋金入りの常識人ですからね。
「でも、何か理由を考えつけない?」
「SFは苦手なんだって……。ミステリーならいつもみたいに手伝ってやれるんだがな。でも、ホルモンの失調とか、新種のウイルスでDNAが変異したとか……どうせ作り話だろう? なんだっていいじゃないか」
「うん……ま、確かに理由なんかどうでもいいのかな。起こってしまったことなんだから、いまさらじたばたしたって……」
「ん? 何が起こったって?」
「あ、いや、その、つまり今のは独り言よ。考え事をしていると、つい……。で、でも、そんな事が本当に起こったら――つまり猫が虎みたいに大きくなってしまったとしたら、世の中にどんな波紋が起きるかしら?」
「うーん……大地震どころの騒ぎじゃないな。世界がひっくりかえる。その仕組みを利用して豚や牛を巨大化させれば、食料危機なんかぶっとんじまう。食料メジャーとか何とかが秘密を探りあって……おっと、これじゃあ冒険小説だ。もっとも人間まで大きくなったら、食い物がいくらあっても足りないか」
他人事だと思って好き放題言ってくれますこと。
「あなたならどうやって研究する?」
「解剖。ばらばらに刻んで、電子顕微鏡で分析しなくてはならん。巨大化のメカニズムを究明して、当然、家畜に応用……。おお! 念願のジャガーが買えるじゃないか!」
肩に乗ったパッションが受話器を引っかく。
確かに無駄ですね。
「分かったわ。何とか理屈をこじつけたら、プロの知識で検証してくださいましね」
「作家先生の相談には慣れてるから。今度はステーキ、いや、しゃぶしゃぶがいいな」
「先生と呼ぶのを止めれば。そう言われると、売れない自分が情けなくなるのよ」
「はいはい、三文文士様」
「的確な表現だわ。それでも取材費ぐらいは持ってますから、楽しみに。ありがとう」
電話を切ると、どっと疲れが出た。床に座り込んでパッションを膝に乗せた。
パッションが私を見上げてつぶやく。
「解剖だなんて、いやな先生」
溜め息がもれた。
「でもね、現実はそんなものよ。常識を破ったら社会から弾き出されるわ」
勤め人だった頃、小説を書きたいから残業できないと言ったら、代わりに辞表を書かされた。しかも『女だてらに』という常套句を百回も繰り返されて。その程度の個性さえ許容できないのが日本人だ。主人にさえ断りなしに巨大化した猫が生きられる場所なんて、この日本にあろうはずもない。まして言葉を話すだの、金のウンコをたれるなんて口走ろうものなら、私の方が狂人扱いされる。
パッションはとっくにあきらめている。
「しょせん人間ですものね」
与太郎は隠すしかないわね。北海道の田舎町だから、しばらくは守ってやれるでしょう。
周囲は都会をリタイヤした老人が集まる住宅地だが、庭は広いし原生林にもつながっている。元は、流行SF作家が建てた別荘だった。時流に乗れないイラストレーターの亭主を哀れんで、格安で譲ってくれたのだという。私は家つきのフタコブ・バツイチ男と一緒になったわけで――。
二十五歳の新進女流作家が、なぜ中年太りのオヤジと田舎暮しをしているのかって? だって、優しかったんだもの。雑誌の仕事で組むことになって一度会ったとたんに、つい……。B型の私がわがままを通すには、息苦しい都会暮らしを捨てて余裕のある土地で暮らす必要があったしね。子供たちも猫もすぐなついてくれて、可愛かったんだ。マンション暮しでは飼えなかったけど、ずっと猫と暮らすのが夢だったし。
私には、そこそこ居心地のいい場所なんです。
でも、猫たちがずっとこのままなら、本格的に人目を避けて暮らす方法を考えるしかないでしょうね。場合によっては、もっと田舎へ引っ込むことになるかも……。
幸い与太郎は昼寝ばかりしている猫だから、散歩は夜中にさせればいい。他の二匹は〝見た目〟は普通だから、よく言い聞かせれば心配はないでしょう。
パッションがうなずいた。
「私、知らない人に話しかけたりしないから」
「知ってる相手でも挨拶なんかしちゃだめ! それに、卯月の面倒もみるのよ」
「あいつ、嫌いなんだけどな……」
「だからって、解剖されてもいいの? あのウンコが金だと決まったわけじゃないけど、本当にそうなら一番危ないのは卯月なんですから。金を見ると人間は残酷になるのよ」
「はいはい。お姉さんが、ちゃんとウンコは始末します」
「埋めただけじゃ駄目。ちゃんと家に持って帰ってくるのよ」
「やだ。あいつのウンコをくわえるの? 外でしないように仕付けてよね」
「あなたから話して。私は言葉が通じないんだから」
「仕方ないわね。でも、いずみちゃんとつばさちゃんは母さんが黙らせてね」
言える。さて、どうすればしゃべりたがり屋の口を塞げるか……。
今日は幼稚園を休んで、亭主が自分の実家に行ったから問題はない。しかし朝は『与太郎を先生に見せる!』とはしゃいでいたし。遊び仲間が来たら隠しきれないかな……。
ま、ややこしいことはあとでゆっくり考えましょう。今はちょっと眠りたい。
それにしてもこいつら、どうしてこんな妙な能力を身につけてしまったんだろうな……。いつまでもこのままなのかしら……。
パッションがさみしそうに言った。
「やっぱり、しゃべっちゃいけない?」
「うん……猫だからね」
「でも、こんなふうになったのは、きっと神様に何か考えがあるからなのよ。偶然や病気なんかじゃないはずよ」
「神様? 奇跡が売り物のキリスト様だって、猫をしゃべらせたりはしなかったわよ」
「猫の神様のことよ」
「猫にも神様がいるの?」
「当たり前よ。猫の神様は猫の国にいるわ。私、何だか神様に呼ばれているような気がするの。兄さんや卯月だって、何か理由があってあんな力を授かったに違いないわ」
「呼ばれてる? 猫の国に?」
「たぶん……。神様は私たちに何かをやらせようとしているのかもしれない」
「猫の国に行く時は、一言断ってね。いきなりいなくなったんじゃ、悲しすぎるもの」
「母さん?」
「なに?」
「好きよ」
私はパッションのなめらかな毛をゆっくりとなでた。
しばらくすると、うとうとしはじめたパッションがあくび混じりに言った。
「父さん、まだ帰らないの?」
「出たばかりよ。実家の知り合いに、砂金堀りが趣味の変わり者がいるんですって。卯月のウンコを見せに行ったの。あの辺りの川は、昔から砂金が出るんで有名だったから」
「じゃあ私、今のうちに寝ておく」
「卯月はどうするのよ」
「面倒を見るのは目が覚めてから。猫はたくさん寝なくちゃ。それに、お肌が……」
もう寝息を立てている……。頼りにならない姉さんですこと。
*
亭主はテーブルに一万円札をずらりと並べた。
「ひとかけらで、こんなに。砂金堀りの爺さん、健吉っていうんだけど、街の貴金属店にルートを持ってたんだ。半分あげたら、喜んで売ってくれたよ。でも『どこで掘り出したのか』って、しつこくてな……」
与太郎は二階で寝ている。娘たちも与太郎をベッドにして昼寝だ。
卯月はご褒美の超高級猫缶を平らげて、トイレで尻尾を震わせている。
「お父さんたちに気づかれなかった?」
「もちろん。子供たちも〝秘密ごっこ〟だって言ったら、真剣になってさ。でも、いつまでも続けられないよな……」
〝常識人〟の見解と私の結論を聞かせた。
「隠し通すしかないと思う」
亭主は不満そうだ。
「お金は?」
「は?」
「猫缶。与太郎、今朝だけで一ヶ月分食べたぞ。餌を魚に変えたって相当かかる」
大きければたくさん食う。迂闊だったわね……。あ、それに出す分も多くなるのか。風呂桶をトイレにするしかないかしら……。当分、シャワーしか使えないわけね……。
思わず弱音がもれてしまった。
「私だけの稼ぎじゃね……」
甲斐性のない亭主を持つと、ホント、苦労が絶えないわね。
「ベストセラーが出ればな……」
万年初版作家としては返す言葉はありません。でも、あんたに言われたくはない。
「うんこを売るしかないわね」
「誰かが嗅ぎつける。金貨で産んでくれるなら簡単なんだけどな……」
「私が何か方法を考えます。それまで、頑張ってね」
「家事とやり繰りは僕の仕事だからね」
言いながら、札束をしまい込んだ。
確かに亭主は几帳面で、料理がうまい。気が小さくて野心には欠けるが、お金の計算が苦手で掃除もろくにしない私にとっては理想的なパートナーなんです。
私は言った。
「問題は、子供たちをどうやって黙らせておくか、よね……」
「本当のことを話すさ。与太郎がでっかくなったことを他人に知られたら殺されてしまう、って。それぐらいの分別はあるぞ」
なるほど、単純にして効果的。
「じゃ、任せますね」
*
夜――。与太郎は獣に返った。
他人に見つからないように、私が監視につく。といっても、背中にまたがって首と腹に巻いたロープにしがみつくだけですけど。
ちなみに、猫の皮膚は肉に密着していない。触れば分かるが、毛皮はずるずると動き回る。鞍もつけずに乗りこなすには相当の体力と精神力が必要だった。十四、五の頃に護身術として空手をかじったけど、気の強さ以外に身についたものはない。それでも与太郎は私を乗せ、しなやかに森を駆けた。野性の力は、月の光を浴び、次第に高まる。倒木を跳び、クマザサの岡を這い、白樺の巨木に駆け登る。そして、キツネやタヌキを狩った。
夜は与太郎の世界だった。
私は何度も落ち、傷だらけになった。そのたびに与太郎は傷に冷たい鼻を押しつけ、私が背に乗るのを待つ。そして、走った。
躍動する、しましまのたくましい背中。毛皮と森と夜の匂いが私を包み込む……。私も原始の動物に返った。まるで、女ターザンね。
でも、これは絶対、癖になる……。
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