△▼△▼初心△▼△▼

異端者

『初心』本文

「ただいま」

 夜中、その声は誰も居ない自宅によく響いた。

 そうだ。妻の成美はもう居ない。5日前に出て行ったきり、連絡もよこさず、そのままだ。

 ――お前のために頑張って働いてきたんだぞ。

 あの日、私はそう言った。

 私の今の仕事は、決して楽な仕事ではない。それなのに今まで続けてきたのは、成美を養ってやっているという自負があったからだ。それなのに、それを忘れてちょっとしたケンカで出ていくとは恩知らずな……。

 おもむろに、手にしていたビニール袋をテーブルに置くと中身を取り出す。赤いきつね……昔からの定番のカップ麺だ。少々寂しいが、今日の夕食はこれで済ますとしよう。

 ――そういえば、学生の頃はよく食べてたっけな。

 私は、水を入れたやかんをコンロに置きながら思い出していた。


 思えば大学のための一人暮らしの頃から、自分で料理などろくにしたことがなかった。友人の中では一人暮らしする中で料理を身につけていった者も居たが、自分はてんで駄目だった。

 そのため、スーパーかコンビニで買った弁当や総菜、それと今みたいなカップ麺で食事を済ますことが大半だった。

 成美とはその頃からの付き合いだ。彼女は私の食生活が乱れていると言って、たまに手料理を御馳走してくれることがあった。もっとも、それが必ずともおいしいという訳ではなかったが……せっかく作ってくれたからと、張り切って全部食べた。


 湯が沸いた。赤いきつねのふたを開けて粉末スープを入れると湯を注ぐ。

 これであとは、蓋をして5分待つだけだ。


 そういえば、あの時に成美に作ってくれと頼んだことがあっただろうか?

 思い返してみたが、そんな記憶はなかった。ただ、それがさも当たり前のように考えていて、ろくに感謝していなかった気もする。いや、礼ぐらいは言ったのだろうが、それも今となっては曖昧だった。


 5分が経った。ふたを開けると唐辛子を入れる。

 私は麺をすすりながら、思った。


 あの時、彼女も私も見返りなんて求めていなかった。ただ、相手が幸せになってくれればそれで良いと思っていた。それがいつしか「お前のために働いている」と言って感謝を求める風になってしまった。

 私は純粋に相手を思う気持ちを忘れていた。

 赤いきつねの油揚げにかぶりついた――甘口の、昔と同じ味。


 あの頃に帰ろう。何の見返りも求めず、相手を思いやれたあの頃に。


 涙がしたたり落ちた赤いきつねは、少ししょっぱい気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

△▼△▼初心△▼△▼ 異端者 @itansya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ