3
「水野のバイト先ってガストだよな? 駅前の」
冬休み前最後の登校日。
トイレを出て、ハンカチで手を拭きながら廊下を歩いていた私に、彼は再び尋ねてきた。彼はマフラーを巻いていて顔が半分しか見えていなかった。
私は急に話しかけられたことと質問内容の驚きから、廊下のど真ん中で立ち止まって「う、うん」とだけ答えた。
「シフトって何時まで?」
「え?」
「25日のシフト。何時までなんだよ」
真っ直ぐな黒い瞳が私を貫いた。唇がかすかに震えた。
「は、ちじ」
「え?」
「8時」
「8時? 分かった。サンキュ」
彼は少し照れ臭そうに笑ってそのまま立ち去ってしまった。
まさか。
そんな期待と焦りが混ざった考えが走り、私はいつまでもハンカチで手を拭いたまま茫然としていた。
♢
「もう2019年も終わりかぁ。てか、もう30になるのか。老けたなあ、俺」
「そんなことないよ」
「いやいや、マジで老けたよ。太ったし、最近脂っこいもの食えなくなってきてさ」
ふふふ。思わず笑った。
確かに彼はすっかり世界の色に染まり、周囲に溶け込んでしまっているようだった。
歩くだけで視線がそこに集中するほど目立っていた彼。彼を見るために教室に女子が集まっていたこともあった。
でも、颯爽と改札を行き交う人々の中に、彼を見て足を止める人はいない。彼を見るために改札口へ引き返す人なんて一人もいない。
それでも黒い瞳は、寒さで赤くなる鼻は、何も変わっていない。
♢
25日のクリスマス、私がバイトを終えて店を出ると彼はいた。従業員出口の前で、ガードレールに寄りかかるようにして、待っていた。
それを見た瞬間、扇がれるように喜びが胸へと押し寄せた。
ああ、やっぱり。錯覚なんかじゃない。
確信した時、彼は私に気付いて「お疲れ。バイト終わりに悪いけど、ちょっと来て」と私の手を引いた。
それは氷のように冷たかった。真っ赤にかじかんでいる手を見ると、泣きそうになるくらい満ち足りた気持ちになった。
私はそのまま、彼のバイクに乗せられた。
彼の背中に手を回すと、匂いをはっきりと感じることができた。人工的な、香水の香り。でも彼らしい、清涼で、どこか穏やかなものだった。
寒空の下、彼と走る細長い夜道。寒さが肌を刺す中、頭で響いていたのはエンジン音でも風の音でもなく、激しく脈打つ鼓動だった。
ある場所でバイクは停車した。
ずっと目を瞑っていたせいでどこにいるのか把握できなかったけれど、坂を上っていく感覚から丘の上だということは分かった。
でも夜に、どうしてこんな場所に?
意味が分からないままヘルメットを脱ぐと、すぐにそれに気が付いた。
「わぁ……」
丘から見下ろせたのは小さな宝石が散りばめられたような、幻想的な景色。真っ暗な空を照らすほど眩しいイルミネーションが一体に輝いていた。
「そこの遊園地、イルミネーションが有名だろ? でもクリスマスは人が多すぎてまともに見られないらしくてさ。ここだと無料で一望できるんだよ」
彼は優しく微笑んだ。その微笑みに応えようと私の表情も緩む。
幸せで心が震えたその時、突然彼は横を向いて、「おい! 着いたぞ! 早くしろ!」と暗闇の中へ叫んだ。
意味が分からず私も彼と同じように首を動かすと、見覚えのある顔が必死になってこちらへ向かって走っていた。
それを見ただけですべてに納得できてしまった。
ああ、微かな期待と錯覚が夜空の中へ溶けてしまう。あの胸の高鳴りが終わってしまう。
すべてが砂嵐となって掻き消されていくようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます