第7話 通常の世界
吉弘の腕を掴んで持ち上げた彩は、腕時計を見て、通常の世界に居ることを確認すると、大きく深呼吸をした。
「行ってくるで」
ちらりと吉弘を見た彩は、ペットショップに入った。吉弘は前もって話し合っていた通り、そのままペットショップの入口横で待機した。
彩はまっすぐ小動物コーナーに向かった。萌美のボールペンが見つかったコーナーだからだ。
「もえちゃん」
萌美の背に向かって、彩は声を掛けた。驚いたように萌美が振り向いた。
「あたしも、ウサギを見に、よくここへ来るんじゃ」
彩はちょっとぎこちなく微笑んだ。
「そうなんじゃ」
萌美はあっさりと返して、再びウサギを見つめた。そんな横顔を見ながら彩は、緊張した表情で言った。
「あたし、ウサギを飼ってたんじゃけど、一昨年、お月さんに旅立ったんじゃ。ぼっけえ辛くて、関係ないのに、弟をいじめてしまったんじゃ。弟にあたるなんて、悪い姉じゃよね」
はっとした顔付きで萌美が振り向いた。彩はウサギを指さし畳み掛ける。
「この子、飼ってたウサギに似てるんじゃ。そんで、このウサギのボールペンも、飼ってたウサギにそっくりなんじゃ」
彩は左ポケットから自分のボールペンを左手で取り出し、右ポケットから萌美のボールペンを右手で取り出した。それぞれを、萌美に見せる。
「同じボールペンじゃ」
萌美は大きな目をより一層大きくして、二つの同じボールペンを交互に見つめた。
「こっちのボールペンは……」
右手のボールペンを萌美に差し出した彩は、萌美の視線を誘って、背後にある小動物のペットフードなどが置かれている棚の下に目を向けた。
「ここに落ちてたんじゃけど、もしかして、これって、もえちゃんの?」
「そうじゃと思う」
曖昧に返事をした萌美が、思い出したとばかり声を上げた。
「そうじゃった。転校するから、しまっといたボールペンを机の中から出して、ポケットに入れたんじゃ」
「転校するの?」
びっくり声を上げた彩は、萌美の両親が離婚することは知っていたが、転校するとは思ってもいなかった。
萌美は下唇を噛んだ後、意を決したように喋り出した。
「あたしの両親、離婚するんじゃ。そんで、あたしは母と一緒に、母の実家に引っ越すんじゃ」
戸惑う彩は、返す言葉が見つからなかった。その間、萌美は差し出されているボールペンを手に取った。
「ありがとう」
抱き締めるようにボールペンを握った萌美は、手提げ鞄から透明なクリアファイルを取り出した。それには、一枚の絵が入っていた。
「この絵、お父ちゃんがこのボールペンで描いてくれたんじゃ。この絵とこのボールペンは、お父ちゃんからの誕生日プレゼントなんじゃ」
「そうなんじゃ。きれいな花じゃ」
目を細めて絵を見つめる彩を、萌美は微笑みながら見た。
「これらは、あたしの大事な宝ものなんじゃ。じゃけど……」
急に言葉を止めた萌美は、気まずそうに言葉を続けた。
「このボールペンって、子供っぽいじゃろ?」
小首を傾げた彩だが、萌美に視線を向けた途端に理解した。
「うん。大人っぽいもえちゃんには似合わん」
この返答に、萌美はにこりとした。
「そうじゃろ。じゃから、学校の机の中にしまっとったんじゃ。じゃけど、ボールペンがなくなってて……ポケットに入れたことをすっかり忘れとったから……それで、あやちゃんがボールペンを持ってるのを見て……」
語調が尻すぼまりになった萌美が、申し訳なさそうな表情で彩を見つめた。
「冷静に考えたら、あやちゃんがそんなことするはずないのに……ごめん……あたしってアホじゃな」
「うん。アホじゃ。じゃけど、同じ立場じゃったら、あたしも同じ事を思ったよ。たぶん……」
微笑んだ彩に、萌美の心は晴れ渡った。
「もえちゃん。父ちゃんのこと、大好きなんじゃな」
「うん。大好きじゃ」
頷いた萌美の声は、離ればなれになる父への思いがこもっていた。
「お母ちゃんのことも大好きじゃで」
付け足した萌美の声調には、両親共々に大好きだという気持ちがひしひしと伝わってきた。
不意に彩は、両親の喧嘩を思い出した。鬱憤を打ちまける。
「母ちゃんも父ちゃんも、あたしらの気持ちなんか全然考えとらんのんじゃ。あたしらの心がどんだけ切り裂かれるように痛むか、そんなことなんか全く考えずに喧嘩したり、離婚したりするんじゃ」
「うん。大人って勝手じゃ」
同調した萌美が声を荒げた。苦々しい気持ちを発散させるようだった。
「そうじゃ。じゃけど、それを言ったら、あんたも大人になったら分かるんじゃって、言い返してくるんじゃ」
訳が分からんと首をすくめて彩は言った。
「あたしも、同じ台詞、返されたで」
「ほんま? そりゃあ、おもろいな」
彩は愉快になり笑った。
「うん。おもろい」
萌美も笑ったが、つと思い出したと、神妙な面持ちになった。
「よしくんの事じゃけど……かなちゃんがあたしの異変に気付いて訊いてきたとき、子供っぽいボールペンの事が知られるのが嫌じゃったから、咄嗟に嘘をついてしまったんじゃ。よしくんって優しいじゃろ。じゃから……」
「そうなんじゃ」
納得する彩に、萌美は手を合わせた。
「あやちゃんからよしくんに、伝えといてくれる? ごめんって」
「わかった」
快く返した彩は、この会話で大事なことを思い出し、急いで壁掛け時計を見遣った。あと五分ほどで三十分が経過する。
「あやちゃん、用事があるん?」
気付いた萌美に、彩は早口で返した。
「うん。明日学校でおしゃべりしよう。引っ越し先も教えてな」
「うん、わかった。じゃ、明日」
「また明日」
片手を上げて振った彩は、くるりと背を向けると、駆け足で外に出た。入口横で待っている吉弘に、目遣いで誘うと、先頭に立ってペットショップから離れ、太い柱の陰に隠れた。萌美がペットショップから出たときに、吉弘と鉢合わせするのを避けたかったからだ。
「誤解は解けたで。成功じゃ」
振り返りながら笑顔で報告した彩だが、吉弘が持ち上げた腕時計を見て愕然となった。
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