第6話 一秒違いの世界
二階に居た彩は、垂直落下するジェットコースターに乗ったみたいに、二階の床を透過し一階の床も透過し、地面に落下した。だが、なぜか尻餅は吐かず、スリッパを履く二本足でしっかりと着地している。ダメージも受けていない。
「一秒違いの世界に戻った」
悟った彩は慌てて、スカートの左ポケット口を開け、中を覗き込んだ。
「ある」
胸を撫で下ろして、ふとカエデの木の言葉を思い出した。
「身に付けてることになるんじゃろか?」
確かめようと、左ポケットに左手を突っ込んでボールペンを掴んでみた。
「握れた。透過しない」
ボールペンの感触を味わいながら、右ポケットにも右手を突っ込んだ。
「握れた」
萌美のボールペンも透過することなく、右ポケットに入っていた。
「話しはできるんじゃろか?」
萌美のボールペンを右ポケットから取り出した。じっと見つめ、話しかけてみる。だが、返事はなかった。
「やっぱ駄目じゃな」
首を横に振る彩だが、二本のボールペンを手にしていることに安堵していた。
萌美のボールペンを右ポケットに入れると、自分の位置を確認しようと見渡した。父が寝ているはずのソファが目に入った。
「ポニーじゃ」
宙に浮く真っ赤な首輪が動き回っている。思わず愉快そうに微笑んだ。リビングを無邪気に駆け回るポニーの姿を想像したからだ。
彩は思い当った。
「なんでヒトが身に付けているモノと違って、動物が身に付けているモノは、一秒違いの世界を行き来できるんじゃ?」
疑問を口にして、なんとなく分かった。
「ヒトと違って動物は、一秒違いの世界に来ることはないからじゃ。動物は、ヒトと違って、呪われることがないからじゃ」
子供ながらにヒトの
「ほんまじゃ。おもろいな。アスファルト沼よりも深い床沼じゃ」
泥沼ならぬアスファルト沼じゃと、はしゃいでいた吉弘を思い出した彩は、今になって吉弘のはしゃぐ気持ちが分かった。
彩は、新進の遊具施設で遊んでいるみたいに感じながら、床沼を進んで玄関に着くと、ドアが透過するかを確認することなく、スタートダッシュでドアに突進した。すっと透過して外に出ると、吉弘が待っている駐車場に駆けた。
「おしゃべりな彼女にもう会えないなんて……」
「ええ、寂しいですわ」
駐車場の拡張から逃れて残る花壇から、枯れかけた葉が擦れ合うような音が聞こえてきた。思わずちらりと見た彩だが、吉弘に向かって親指を立てた。
「ボールペン、取ってきたで。じゃけど、身に付けてることになって、しゃべらんのんじゃ」
「そうなんじゃ。じゃけど、重要な情報はもう聞かれたんじゃけん、大丈夫じゃ」
「じゃな。じゃったら、早く行こうで」
彩は物凄いスピードで駆け出した。吉弘は、またかといった表情で、後を追って駆けていく。
萌美のボールペンが教えてくれた重要な情報とは、萌美は休日の今頃はよくペットショップに行くということだった。
ペットショップの入口で、彩が急停止した。ちょっと遅れて到着した吉弘が、彩の異変に気付き、肩で息をする彩の正面に回り込んだ。
「一秒違いの世界では、萌美の姿を見ることはできん。じゃから、萌美がここに来るまで、通常の世界と一秒違いの世界を行ったり来たりして確認せんといけん。それでもし、通常の世界に居るとき、萌美が三十分ぎりぎりで来たりしたら……ぎりぎりでなくても、萌美との会話中に三十分が経過したりしたら……」
いろんな問題点が頭に浮かんできて、彩は途方に暮れている。
「そりゃあ、大変じゃ。どうしたらいいんじゃ?」
同調した吉弘が、荒い呼吸を整えながら考え込んだ。
静まり返る中、ゆさゆさと枝葉を揺さぶるような音が聞こえてきた。
「彼女が闇に生き埋めじゃ」
びっくりした彩と吉弘が、目を見開き、聞こえてきた方角を見遣った。そのとき、そよ風で葉と葉が擦れ合うような音が、耳の中で響いた。
「わたくし、その問題点の解決策を見つけましたよ」
「モミジちゃん?」
驚嘆の彩の視点は定まらない。不思議な感覚に戸惑っているのだ。
「はい。そうです」
答えたカエデの木の音が、耳の中で響く。
「モミジちゃんが、耳の中にいるようじゃ」
愉快そうに笑った吉弘が、雲がない水色の空を見上げた。
「どんな解決策じゃ?」
吉弘は水色の空に向かって聞いた。
「わたくしたちは動けませんが、一秒違いの世界と通常の世界を行き来できます。ですから、そこにいるクヌギおじいさまに、萌美さんがペットショップに来たら、教えてあげて下さいと、わたくしから依頼しました」
「もう依頼したんか?」
いつしたのかと驚いた吉弘だが、すぐに笑顔になると、先程ゆさゆさと枝葉を揺さぶるような音を鳴らしたクヌギの木に視線を向けた。それに気付いた彩が目を向けた。
「あの木が、クヌギおじいさま?」
彩が見遣る先には、ショッピングモールの駐車場の一部を陣取って、堂々と枝葉を広げて立つクヌギの木があった。
「クヌギはドングリの実をつけるんじゃ。あのクヌギは、ここ界隈では一番巨大で立派なクヌギじゃ」
吉弘は改めて惚れ惚れするように目を細めた。
「照れるではないか」
クヌギの木が、小刻みに枝葉を揺らすような音を立てた。
「クヌギおじいさま。もえちゃんが来たら、教えて下さい。お願いします」
彩は丁寧に言って、ぺこりと頭を下げた。それは、畏敬の念を抱くような木であることと、おじいさまという呼び方からそうなったのだ。
釣られた吉弘が頭を下げたとき、そよ風で葉と葉が擦れ合うような音が、耳の中で響いた。カエデの木だ。
「願いですが、一度願ったわたくしはもう願えませんので、クヌギおじいさまに願ってもらって下さい」
「そうなんじゃ」
吉弘と彩は見合って頷いた。
「クヌギおじいさま。願いもお願いします」
再び彩は丁寧に言って頭を下げた。吉弘も頭を下げる。
「まかせておけ」
クヌギの木は、枝葉を大きくバウンドさせたような音を立てた。胸を張ったように感じた彩と吉弘は、笑顔になり、ペットショップの入口横に並んで座ると、安心感に包まれて待機した。
「コンクリート沼じゃ」
にやりとした吉弘が、腰部分で透過するコンクリートを見つめ、コンクリート沼に埋まって見えない足を上げて覗かせてみたり引っ込めてみたりと、遊び始めた。
しばらくして、ゆさゆさと枝葉を揺さぶるような音が聞こえてきた。
「もえちゃんが今、ペットショップに入ったぞ」
「クヌギおじいさま。ありがとう」
声を張り上げた彩は、喜び勇んで立つと、クヌギの木に向かって手を振った。
「願って」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます