第2話 一秒違いの世界

 竹林から出て田んぼの中に入った彩は、辺りを見渡した。宙に浮く真っ赤な首輪はどこにも見当たらない。

 「透明ポニーは何処へ行ったんじゃ?」

 吉弘も辺りを見渡している。

 景色はいつもと同じで、何ら変わりはない。だが、異様な静けさに、彩はぞわぞわした。

 「ポニー」

 ぽつりと呟いた彩が、思いついたように、今度は声を張り上げるようにしてポニーを呼んだ。いつもなら、ポニーの姿が確認できなくても、呼ぶとすぐに駆け寄ってくるからだ。だが、待てど、真っ赤な首輪は駆け寄ってくることはなかった。

 「これも、これも、これも……どれもこれも透過するで。なんで透過するんじゃ?」

 首を捻りながら吉弘が、腰を屈めて透過するレンゲソウの状態を見ている。自称生物学者だけあって、冷静に観察している。

 彩は突如、駆け出した。気付いた吉弘が、慌てて声をかける。

 「どこへ行くんじゃ?」

 「うちへ帰る。ポニーがうちに帰ってるかもしれん」

 彩の返答に、吉弘は思い当ったように後を追った。こんな状態になったときは、信頼できる大人に聞くのが一番だと思ったからだ。

 先頭を行く彩が、田んぼから道路に上がった。

 「なんじゃ?」

 驚愕の声を上げた彩が、直立不動になった。眼前を、運転席にヒトが乗っていないトラクターが、通り過ぎていったからだ。

 トラクターは、ヒトが運転しているかのように、建ち並ぶビニールハウスの後方を、丁寧に右折していった。見えなくなったトラクターにかわって、同じ場所から軽自動車がこちらに向かってきた。

 「これまた、ヒトが乗っとらん」

 呆然とする彩の前を、運転席にヒトが乗っていない軽自動車が通り過ぎていった。

 目を見開いて軽自動車の運転席を見ていた吉弘が、突然、駆け出した。びくりとした彩が、慌てて追いかける。

 吉弘は、トラクターと同じように右折し、ビニールハウスに近寄った。確認するように、ビニールハウスに触った。

 「これも透過じゃ」

 ぼそっと言った吉弘は、振り返ると、道路の向こう側にある畑を見遣った。

 「いつもいるおばあちゃんとおじいちゃんがおらん」

 吉弘の目が、異様な何かを捉えた。

 「キャベツが宙に浮いとる。おじいちゃんがキャベツを収穫しとるかのようじゃ」

 観察する吉弘が、神妙に言った。

 「わしの勘じゃが、わしら、ヒトや動物がいない空間にいるみたいじゃ」

 「そんな……」

 彩が絶句した。混乱している。

 しばらく立ち尽くしていた彩が、肩を落として歩き出した。ポニーも両親もいない家に帰るのは止め、公園に向かう。

 「道路のアスファルトも透過しとった」

 彩の後を追う吉弘は、今になって気が付いたと、アスファルトに埋もれる自分の足を見つめている。

 「泥沼ならぬアスファルト沼じゃ」

 長靴を履いた幼子が泥沼ではしゃぐように、吉弘は歩いた。しばらくして、再び今になって気が付いたと、不可解な表情になった。

 「地面は透過せんみたいじゃな」

 「地面まで透過したら歩けんわ」

 突っ込みを入れた彩だが、その口調は元気がなかった。

 公園に入ると、やはり誰もいなかった。がらんとひっそりしている。

 「あれは首輪じゃ。それにリードも……」

 吉弘が指さす空中に、青色の首輪とリードが浮かんでいる。それが、宙に浮いたままで通り過ぎていった。

 「ヒトが犬を散歩させとるんじゃな」

 想像する吉弘が、再び指さした。

 「あれはなんじゃ?」

 「あれは小型犬の服じゃ」

 答えた彩の横を、小型犬の服だけが、宙に浮いて通り過ぎていった。視線よりも上にあるのは、散歩しているヒトが小型犬を抱っこしているからだと、想像できた。

 「ブランコだけが物凄い勢いで振れとる。あれはたぶん、けいくんが漕いどるんじゃ」

 愉快そうに笑った吉弘は、ベンチに腰掛けようとして、そのまま尻餅をついた。

 「いてえ」

 うめきながら吉弘は、恨めしそうにベンチを睨んで呟く。

 「透過するの、忘れとった」

 「なにやっとんじゃ」

 ちらりと吉弘を見下ろした彩は、カエデの木の横に腰を下ろした。そのときだった。そよ風で葉と葉が擦れ合うような音が聞こえてきた。

 「よしくん。以前はお世話になりました」

 「ななななんじゃ?」

 尻餅をついたままの吉弘が、目を丸くしてカエデの木を見上げた。同じように驚いた彩も仰いだ。

 「今、おまえがしゃべったか?」

 「はい」

 吉弘の問い掛けに、そよ風で葉と葉が擦れ合うような音で、カエデの木は答えた。

 見張った目をしばたたいた吉弘は、そっとカエデの木を触った。やはり、手は幹を透過した。

 「さっき、わしにお世話になったと言っとたな。どういうことじゃ?」

 吉弘はカエデの木を見上げた。

 「三年前、切り倒されて根っこも抜かれてしまう、死の運命だったわたくしを、助けてくれました」

 「わしが助けた?」

 甲高い声を上げた吉弘は、記憶をまさぐっていく。

 「カエデの木……カエデ……カエデ……」

 「カエデ?」

 彩が小首を傾げた。

 「通称モミジじゃ。秋には掌のような葉が紅色に染まって綺麗なんじゃ」

 「それなら知っとる」

 頷いた彩の横で、思い出した吉弘が甲高い奇声を発した。

 「わしのうちの裏にあった空き地のカエデじゃ。家が建てられることになって邪魔だからと切り倒されると聞いて、かわいそうになって、慌ててこの公園に、そのカエデの枝を挿し木したんじゃ」

 カエデの木が掌のような葉をひらひらと揺らした。

 「よしくん。あの時は、本当にありがとうございました。おかげさまで、この通り、立派な木に生長しました」

 彩がはっとした。

 「よしくん?」

 「なんでわしの名を知っとるんじゃ?」

 「それは、あそこにあるブランコに乗っているけいくんが呼んでいるのを聞いたからです」

 そよ風で葉と葉が擦れ合うような音で、カエデの木は答えた。

 頷く吉弘と同じように頷いた彩が、またはっとした。

 「モミジちゃんは、なんでしゃべれるんじゃ?」

 カエデの木は、モミジちゃんと呼ばれたことが嬉しかったのか、全身の枝をしなやかに大きく振った。全身の葉が、蝶蝶のように舞い踊る。

 「しゃべるという単語が当てはまるかというと、少々違います。説明はしがたいですが、一言で言うと、ここは一秒違いの世界だからです」

 「一秒違い? どういうことじゃ?」

 吉弘が目を白黒させた。

 「空間は似たようなものですが、時間が一秒ずれているのが、一秒違いの世界です。一秒違いの世界と通常の世界を行き来できるのは、植物と大事にされているモノだけです。ヒトや動物は通常の世界のみで、行き来できません」

 「大事に……」

 小首を傾げるような彩の声を聞き逃さなかったカエデの木が、その疑問を解消する。

 「大事にされているモノには、植物と同じように心が宿ってくるからです。だから、一秒違いの世界を行き来できるのです」

 「……心……」

 再び小首を傾げるように呟いた彩の声をかき消して、思い当った吉弘がうろたえた。

 「一秒違いの世界を行き来できないわしらが、なぜ一秒違いの世界に来てるんじゃ?」

 その質問に、突如、そよ風で葉と葉が擦れ合うような音が一変した。

 「呪いだからです」

 カエデの木は、暴れる風で葉と葉が擦れ合うような、荒々しい音を立てた。その音と呪いという単語で、彩と吉弘は凍りついたように体を硬直させた。

 ふと吉弘が思い当った。

 「わしらだけ、なぜ透過せんのじゃ?」

 「行き来できないヒトが一秒違いの世界にいるときは、そのヒトは通常の世界にいないからです。ですから、一秒違いの世界にいるヒトが身に付けている衣服などのモノも透過しません」

 確認しようと吉弘は、腕時計を見た。

 「一秒違いの世界じゃからか」

 目を丸くして吉弘は、秒針がぐるぐる回る腕時計を触ってみた。透過しなかった。

 「透過するモミジちゃんたちは、通常の世界にもいるってことなんじゃ」

 呟いた彩が、はたと気付いて身震いした。

 「あたしら、通常の世界では行方不明者じゃ」

 「そういうことになりますね」

 単調に葉と葉が擦れ合ったような音を鳴らしたカエデの木を、彩は呆然と仰いだ。その顔は今にも泣き出しそうだ。それを見た吉弘は、宥めるように言った。

 「行方不明者になる前に、親が心配するまでに、通常の世界に戻ろうで」

 はっとしたように視線を下ろした彩は、吉弘に目を合わせて力強く頷いた。口元を緩めた吉弘が、カエデの木を見上げた。

 「モミジちゃん。どうやったら通常の世界に戻れるんじゃ?」

 「呪いを解けば、通常の世界に戻れます」

 「呪いか……」

 吉弘は腕を組んで考える。彩も考え込んだ。

 静まり返った中、さらさらと葉が鳴り合うような音が聞こえてきた。

 「彼女の噂、聞いたか?」

 「噂って何なん?」

 カエデの木の背後に立つ、コナラの木とイチョウの木が会話をしている。思わず目を向けた彩が、閃いて大声を上げた。

 「もえちゃんの呪いじゃ」

 「そういうたら、そうじゃ」

 すぐさま吉弘が同調した。だが、渋い顔になる。

 「一秒違いの世界から出られんと、もえちゃんの誤解は解けんで」

 気付いた彩が肩を落とした。その肩に触れた葉が撫でて揺れるような音が聞こえてきた。優しく諭すようだ。

 「三十分間だけですが、一秒違いの世界から出られる方法がありますよ」

 「もみじちゃん。本当?」

 彩は嬉しそうな顔で、カエデの木を仰いだ。吉弘はガッツポーズを決めている。

 「植物か大事にされているモノが、君たちを一秒違いの世界から出してあげたいと、願えば出られます」

 「そんなんで出られるんか?」

 目をしばたたいた吉弘は、あまりにも簡単な方法に驚いていた。彩は間髪を容れず声を上げた。

 「じゃったら、モミジちゃんが願って」

 「わかりました。願います」

 「ちょっと待って」

 慌てて制止した彩は、カエデの木に聞いた。

 「もし呪いが解けたら、三十分経っても、そのまま通常の世界にいられるん?」

 「はい。もう一秒違いの世界に来ることはありません」

 聞きながら彩は考えていた。今はまだ早い午前中だから、萌美が家にいる確率は高い。

 「作戦タイム」

 そう言って彩は、吉弘に目配せした。

 「三十分間で呪いを解かんといけんから、萌美の家の前まで行って、願ってもらおうと思うんじゃけど」

 「おお、良い考えじゃ」

 快く頷いた吉弘だが、待てよと問題点を挙げた。

 「モミジちゃんは動けんで」

 そうだったと気付いた彩の頭上に、そよ風で葉と葉が擦れ合うような音が降ってきた。

 「わたくしは動くことはできませんが、ロックオンした君たちの音(周波数)は、遠くにいても捉えることができます。ですから、願ってと叫んで下さい」

 「わかった」

 吉弘が親指を突っ立てた。

 カエデの木を仰いで微笑んだ彩は、それならばと、公園を出て急くように歩き出した。

 彩が一度遊びに行ったことのある萌美の家は、賃貸アパートの一階の左側だ。思い出しながら足を運んでいく。

 アパートの駐車場を抜け、生垣として植えられているシラカシの木の前を通り抜けていたとき、彩の手がシラカシの葉を透過した。直後、彩は驚いたように足を止めた。後ろをついて歩いていた吉弘が、びくりとして足を止めた。

 「どうしたんじゃ?」

 怪訝そうな顔で覗き込んできた吉弘を無視して、彩は再び歩き出した。さっきよりも早歩きで進んでいく。黙りこくる彩の背を、不思議そうに見つめる吉弘も足早になった。

 彩は、シラカシの葉を透過した手から、一秒足らずのうちに、同じようにシラカシの葉に触れた萌美の悲しみと辛い感情を味わったのだ。それは、萌美の両親が離婚するというものだった。だから、吉弘に尋ねられたとき、もし自分がその立場だったらと考え、話すのを止めたのだ。

 萌美の家の前に立った彩は、雲がない水色の空を仰ぎ、大声を張り上げた。

 「願って」

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