破局

 ほんのり白いため息を吐きながら、僕は腕時計の針を見つめた。今日の彼女は、ずいぶんと遅くまで働いている。残業が長引いているのだろうか。


 先日、会社帰りに会おうと、彼女の退勤時刻を尋ねたら、「冷たい彼氏は、いちいち彼女と予定を合わせたりしない」と言われてしまったばかりだった。

 それで僕は彼女との距離を縮めるため、一計を案じた。古典的だが効果絶大の、待ち伏せ作戦。彼女へのサプライズだ。


 これは彼女と付き合う前にもよく使った手であり、こうして交際を始めてからも行動が変わっていないことを考えると、むなしさに襲われる。

 それもこれも、彼女の理想とする「冷たい彼氏」像のせいであり、また同時に、僕が冷たい彼氏になりきれていないからでもあった。


 午後九時を回ったころ、やっと彼女と落ち合うことができた。

 僕が待っていたとは予想していなかったのか、会社の正面玄関から出てきた彼女は、形の良い眉を少し下げて困ったような顔をした。


「僕もちょうど帰るとこでさ。ほら、偶然会ったんだ。いいだろ?」


「……そういうことにしておく」


 実際には、彼女が会社から出てくるまで四時間も、まだ寒さの残る空の下で待った。

 でもそれは、今退社してきたばかりの彼女は知り得ないことだ。そして、これからなにが起こるのかも。


 遅くなってしまった家路を少しでも急ぐように、彼女は僕を置いて歩き始めた。僕もその後を追いかける。


 夜のビジネス街は、道行く人々でざわめいている。連れ立って歩く残業帰りのサラリーマンや、酒を引っかけて気を良くした連中とすれ違った。

 僕たちはそんな賑々しさの中を脇目も振らず早足で歩き続け、彼女の会社の最寄り駅に到着すると、いつもの電車に乗り込んだ。


 彼女がひとり暮らしするアパートへと向かう、馴れ親しんだ路線。彼女と付き合い始めるよりもずっと以前から、僕はこの電車に朝晩と乗っていた。

 ビジネス街から郊外へと進むごとに、車内の乗客はまばらになっていく。


「南くんの家はこっちじゃないでしょ。どこに住んでるのか知らないけど、自分の家へ帰って」


「もう夜遅いから、女ひとりじゃ危ないよ。亜季の家まで送って行ってあげる」


「大丈夫だから。そういうのやめてって、ずっと言ってるでしょう?」


「本当に亜季は怖いもの知らずだなあ。この物騒なご時世、どこに危険が待ち受けてるかもわからないのに。自立心が強いのはいいことだけど、その生き方は思わぬ災難を呼ぶかもよ」


 ホームに滑り込んだ車両の扉が開くと同時に、電車を降りた彼女は改札をさっと抜けて、夜道へと逃げるように飛び出した。

 わずかに遅れて彼女の後ろに続く僕には目もくれず、有無を言わせぬ口調の言葉を言い捨てた。


「お願いだからもう帰って。これ以上ついてこないで」


 お互いに早足を通り越して、小走りになっていた。

 彼女のとげのある言葉が、前を向いて突き進む僕の顔面に突き刺さる。


「僕がどこに向かおうと、それは僕の勝手だろ? 君が君の理想を生きているように、僕だって僕の理想を生きる権利がある」


「あなたの理想? それが、わたしを付け回すことなの? はっきり言わせてもらうけど迷惑です。形だけ恋人にして、うまく『冷たい彼氏』になってくれれば、警察に頼らなくても解決できると思ったけど……やっぱり無理。もう限界」


 こちらを振り向いた彼女の眼は、戦闘状態に置かれた小動物の獰猛さを感じさせた。

 愛くるしいペットみたいな存在だった彼女の、突然の変貌に虚をつかれる。


 しかしうろたえつつも、僕はひとまわり大きい肉食獣の体を借りたような錯覚に陥っていた。


「ねえ、なんでわたしの休日のスケジュールを知っているの? なんでショッピングモールで回る店を知っているの?」


 僕が彼女を質問攻めにすることは日常茶飯事だったが、いつのまにか立場が逆転している。


「なんで……わたしの名前を知っていたの?」


 夜の暗闇に突き落とされた閑静な住宅街の真ん中で、少し高い音程の彼女の声が繊細なビブラートのかかった状態になって、あたり一帯に響き渡った。


 なんでなんでって、そんなの、彼女の一挙一動を常時監視し続けて、彼女のスマホやパソコンをハッキングしたからに決まっているじゃないか。


「ストーカーとして警察に届けさせてもらいます。目に見える被害が起きてないからって前は動いてくれなかったけど、今回は証拠も録り貯めたんだから」


 彼女の手には、銀色に鋭く光るICレコーダーが握られていた。

 こんなちっぽけな機械なのに、彼女に武器として十分な信頼を寄せられているのが妬ましい。


 なんだよ、人には頼らず自分の力でなんでも解決する女だと思っていたのに、僕とふたりだけの世界のことを、警察なんかに話しちゃうんだ。


「……だけど南くん、最後にお願いします。どうか、冷たい他人になって。わたしに執着するのはもうやめにして、自分の人生を生きてほしい。そうしたら警察に通報なんてしないから」


 そこで一度言葉を切った彼女は、今までの攻撃性が嘘だったかのように、語気を弱めて続けた。


「あなたも知っているとおりわたしは冷たい性格だから、ここでやめてもう関わらないでいてくれるのなら、あなたのことはさっぱり忘れることにする。これ以上、あなたのことをとがめたりしない」


 その言葉を引き金にして、頭の中が真っ白にけついていくのを僕は感じた。彼女が僕のことを「忘れる」なんて、そんなこと、僕には耐えがたかった。

 どんなに冷たく邪険にされようとも、彼女の世界に片足だけでも突っ込んでいられれば、それでよかったのに。


 その瞬間、なにかこの世に存在すべきでない、とんでもない化け物を目撃したかのように、彼女は通勤かばんを地面に落とし、こちらに背を向けて逃げ出そうとした。


 僕の頭蓋骨の中身はもはや空っぽで、手足だけが本能に忠誠を誓い、冷静に動くのがわかった。

 僕の身体は流れるような動作で、最愛の彼女の背中に、コートの下に隠し持っていたナイフを突き立てた。


 彼女があまりに分からず屋だったら、ちらつかせようと、それだけの意味しか込めていなかった刃に赤みが差した。


「彼氏にしても他人にしても――、僕には冷たい人になるのは無理だったよ。ごめんね、亜季」


 こうして、ずっと向けられ続けてきた背中に僕はようやく、僕の印の旗を立てることができたんだ。

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