05

『――っ』

『梓? ……梓!』

 何故、私と千香の関係がいびつなのか。

 発端は去年の十月、新人戦を終えてまずまずの結果だった私陸上部が、次の目標に向けて鍛錬をしていた時だった。

 突如、私の右足が悲鳴を上げた。

 元々、中学生の頃から故障によって涙をのんだ経験があったので、高校生になってからは慎重に研鑽を積んでいけば、今まで以上の結果を残せるはず――というのが、私の見立てだった。

 医学の心得も無い私の甘い見立てそのものが、警告に他ならなかったというのに――終ぞ、私は自分のせいで陸上を手放すことを余儀なくされたのだ。

 自分で言うのも気恥ずかしいが、私は期待の星エースのうちの一人だった。私によって奪われた出場権によって、他の部員が何人泣いていたのかなんて、当時は考える事もなかった。

 そんなことを考える暇があったら誰よりもはやく走りたかった。

 昨年度は殆どが自宅療養または保健室登校となり、足りない単位は担任と相談しつつ頑張って授業に参加し、ギリギリのところで工面した。

 そしてある朝、杖や他人の介助が要らなくなるまでなんとか復帰できた頃――校庭の向こうで見えたのが、同学年の陸上部員を引っ張る津辺木千香の姿だった。

 彼女は、私が居なくなったことで空いたエースの座に、見事滑り込んだのである。

 無論、彼女がそんな――私を蹴落とすことを狙うような――野心家でないことは知っているし、寧ろ毎日のように私に体の状況を聞いてくる程度には気配りが出来る人物だ。

 気の置けない彼女だからこそ、相談できたこともたくさんあった。

『梓。……本気?』

 その時、通算で三回目のキスをした。千香が部室の鍵当番だったのを良いことに、練習で半分疲れていたはずの彼女を引き留めて唇を重ねた。

 体育倉庫のような、人の汗が染みついた部室のニオイは、私を背徳的な気分にさせた。ただしキスそのものは、ボディソープのような甘い香りを帯びた最初のときと比べたら、あまりにも味気なかった。

『本気。千香とだったらエッチしてもいい』

 私は、津辺木千香を愛している。





「――それ、ホント?」

 それは、心の底から嬉しそうな声だった。

「本当。だけど――千香との恋も諦めてない」

 ハァ、と聞こえよがしな溜息。

「ウソツキ。それ、ウワキって言うんだよ」

「そうだね。でもあなただって、最初からそれが目的なんでしょ?」

 瀬堂悠は、虫だ。

 誰かの『好き』という感情に寄生して、関係すべてをメチャクチャにする。

 そして、それを誰も責められない。きっと彼女はそういう生き方しかしてこなかったのだ。だから――。

「そんな他人の感情に吸い付いて生きてたら、いつか身を滅ぼすよ」

 悠は、いつもの説教に飽き飽きしているような、そんな顔をしていた。

「そうなったら消えるよ。いつもそうしてるから」

 なるほどね。今回の転校はそういう理由だったんだ。

「アンタの奇行は、私がここで止める。そのためには、悠。あなたの持論が通用しないってことを示してあげる」

「無理だよ、梓には。男も女も、それこそ恋愛強者って喧伝されてたような奴らも、みんなアタシに溺れて沈んでいった。それを撥ね除けるなんて、冗談にも程があるよ」

「だったら、我慢比べでもしてみる? アンタはアンタなりの――これまでやってきたように――私に精一杯愛を注いでみればいい。私は千香への思いを捨てたりなんかしない。が根負けするその時まで、私は千香を愛し続けてみせる」

「じゃあ、もし梓がアタシの彼女ホンモノになりたいって言い出したら?」

「千香への恋は諦める。瀬堂悠にまた箔がつくってこと」

 ふーん、と悠は怪しい笑みを浮かべる。

「それってでも、ちょっと不公平かな~。だって心の奥底で考えてることなんて分からないし。それこそ、でもしなきゃダメってことでしょ?」

 私自身も正直なところ、口で言って信用して貰えるなんて最初から思っていない。

 だから、こうするの。

「え――」

 私は、瀬堂悠の整った顔を引き寄せて、唇を重ねた。

 人の血の通っていない、柔らかい素材で作られたマネキンのようなキスだった。

 その永遠にも似た瞬間を、私は今すぐにでも焼き切ってやりたい記憶として刻み込む。

「どう? 私は本気。悠はそれでも生半可にやるっての?」

 私は肩で息をしながら、彼女の顔を見る。

 信じられないほど白けた表情で、私のことを見下していた。

「……いいよ。アタシの全力、立てなくなっても知らないから」

 こうして。本当の彼女があずかり知らぬところで、全く新しい彼女との戦争が、始まったのだ。


(了)

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