目を背けた先に -04-
その夜、明人は夢を見た。
それは小学校の頃の記憶だったか、あるいはそれ以前の記憶だったか。
いずれにしても自身の姿は今よりも小さく、そして無邪気な幼子なのだという自覚が漠然とあった。
そして、そんな自身の手を引く少女がいた。
菫だ。幼少の頃の姿で、楽し気な笑みを浮かべて自分を連れ回している――そんな懐かしい夢だった。
彼女の家の庭、近所の河川敷、あるいは公園――と、確か当時はこれを冒険ごっこと称していたのだったか。
服を濡らして泥だらけになりながら帰り、そうして互いの両親に怒られるのは日常茶飯事だった。
しかしそんなことなど気にせず、とにかく彼女と遊ぶのは楽しかった。
この日もどこへ行くのかと彼女に問いかける。
「公園に行こう」と彼女は言った。まだあの公園を制覇していないだとか、そんな男勝りだが年相応のことを口にして。
――二人はゆっくりと歩いて行く。
――陽気な春の青空の下を、眩い夏の日差しの下を。
――肌寒い秋空の下を、粉雪の舞う冬空の下を。
『手を放しちゃだめだからね』
『私の方がお姉さんなんだから』
『明人は怖がりですぐに泣いちゃうんだもん』
事あるごとに、彼女はそう言って明人に微笑みかけた。
たった数日程度のことだろうがと彼は非難をするが、しかし彼女は胸を張って言うのをやめない。
だがその主張には不満もあったが、同時に当時の明人にはその姿が頼もしく見えたのも事実であった。
だがこれが夢であることと、自身のこの手を引く少女が、遠い未来に死んでしまうという事実が脳裏を過った。
途端、目の前の風景が霞んだ。景色が滲み、彼女の顔すら見えなくなる。足取りも、重く、なる。
終いには立ち止まってしまうのだが、それに気が付いた彼女は明人へと振り返った。
『どうしたの?』
なんでもないと答えるので精一杯だった。
夢だからなのか、自分が泣いているのかそうでないのかは分からない。
だが、目の前の少女は心配そうにこちらを見ているようだった。
『遊びたくない?』
――そんなことはない。
明人はぶんぶんと大げさに首を振る。
首を振って、早く行こうと口を動かした。
すると彼女は嬉しそうに大きく頷いた。
周囲の景色は歪んで見えなかったが、きっとその表情は笑顔だったと思う。
『今日もいっぱい遊ぼうね』
――うん、今日もいっぱい遊ぼう。
***
随分と懐かしい夢を見た明人ではあったが、その日の目覚めは最悪だった。
目が覚めると涙を流していたし、なかなか起きてこなくて心配した母親が部屋にやって来たために、その姿を見られてしまった。
何があったのかと父親にもひどく心配され、本当に何でもないと言うことを説明するのにどれだけ時間がかかったことか――。
両親から逃げるように身支度を済ませ、明人はいつもの通学路へと飛び出した。
いくらか走って自宅が見えなくなる位置で、ようやくその歩幅は緩やかなものになる。
溜息を吐き出し、気を取り直して彼は歩き出した。
「明人君?」
そこで自身を呼び止める声があった。
何かと思ってそちらへと振り向けば、そこには住澤菫の母親がいた。
郵便受けの新聞を取りに外に出てきたらしい。
気が付けば明人は住澤家の自宅の前にやってきていた。
その事実に先刻まで見ていたあの夢の内容を思い出して、気落ちするかのような何とも言えない気分に陥るのだが、彼は無理矢理笑顔を作って会釈をした。
「おばさん、おはようございます」
「おはよう。今日はいつもより早いのね」
「ええ、まあ……」
登校する際、彼女とはこうして短い挨拶をするのが慣例となっていた。
そうしている内に菫が出てきて一緒に学校へと向かうのだが、思えば高校に入学してからはバスケ部の自主練習だとかで、
早めの時間に一人で登校することが多くなっていったのだったか。
――もうその彼女と登校することは叶わないが。
「最近、調子はどう?」
「ええ、健康なもので。おばさんたちは?」
「こっちも健康そのものよ。主人ったら少し体を動かさないかって、休みの日はいろんなところに連れ回してくれたりで大変なの」
「はは、おじさんらしいですね」
しかし彼女はいつもの明るい調子のままだった。
意気消沈している様子もなければ、それこそ無理をして笑っている様子も見受けられない。
菫の葬式の時の記憶は――いや、曖昧で自身が思い出せる内容はほとんどなかった。
だが少なくとも彼女は自身の娘の死を悲しんでいたはずだが、
この様子から察するに、四十九日も過ぎてその死を受け入れたのかもしれない。
そこで明人は、この様子なら菫のことを聞いてもいいのではないかと思い至る。
昨日、霊媒師から言い渡された仕事を実行する良い機会なのではないかと。
もっとも、その最初の仕事が彼女の最も近い肉親であり、入門と言うには難易度は高くはあるのだが。
「その、何か変なこととか起きてませんか?」
「変なこと?」
「あ、いや……ないなら別にいいんです」
笑顔で取り繕いながらも、内心は口下手な自分に辟易していた。
しかしどうやら、彼女はそれが自身を心配するものだと誤解したようだった。
少しだけ目を丸くした後、柔らかな笑みを明人へと向けた。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫よ。
こうなることは覚悟してたし、あの子からは明人君のことも頼まれてるからへこたれるわけにはいかないのよ」
「俺の?」
「怖がりだから、何かあったら手助けしてあげてほしいって」
――息が詰まった。
夢で彼女が言った言葉が登場したということもある。
そしてそう口にした時の笑みが、幼い頃の彼女の表情とそっくりだったのである――母親だからそれは当たり前なのだが。
だが、それがひどく眩しくて、明人は目を逸らした。
心が妙に騒めいて、体が震えそうになり、何か後ろめたさのような暗い感情が背中に圧し掛かっている――そう、感じていた。
「明人君のことも、自分の子供のように……
って言うのは少し身勝手な考えかもしれないけど、それでもあなたも菫と同じくらい大切に思ってるの。
だから、困ったことがあったら遠慮しないでね」
ありがとうございますと言うので精一杯だった。
逃げるように適当な言い訳をして、彼はその場を後にした。
***
昼休みと放課後を使い、明人は出来る限り住澤菫がどういう人物だったのかと聞いて回った。
先輩後輩問わず、しっかり教師陣にまで聞いて回った。何人かの生徒には訝し気な表情を向けられたが、
幼馴染だったということと、彼女の母親に頼まれたという適当な嘘をつくとすんなり教えてくれた。
自身の境遇に同情してくれたようで快く話してくれたわけなのだが、
誰もが彼女を「気立てが良く、優しい人」。あるいは「よく相談を受けている人」というのが大半だった。
後者に関しては悩みこそ解決することは少なかったものの、しかし「大丈夫だから」と勇気づけてくれた姿に安堵を覚えたとのこと。
幼い頃から自身も勇気づけられていたこともあり、明人はその評価を妥当だと思ったし、同時に少しだけ彼女の幼馴染だということを誇らしく思えた。
余談ではあるが、男子の中には、付き合えるなら学校の人気者である真白瑠香が競合相手になる――どれだけ上から目線なんだと呆れた――と言う生徒もいた。
自分が想像していた以上に、彼女は周囲の人間に好かれているようだった。
「山里君、菫と仲良かったの?」
「ああ、幼馴染だった」
そして放課後、彼女らと出会った。
片方の女子生徒は隣のクラスの生徒で、染谷という苗字だったということしか覚えていない。
だが、確か生前の菫とよく話していた覚えがある。
明人がそろそろ下校を考えて教室に戻ると、彼女は学校の有名人である真白瑠香と会話をしていた。
普段はここに弥生凜が含まれているはずなのだが、どういう理由かこの日は彼女はいないようだった。
ふと、瑠香と視線が合う。
凜から聞く限りでは、どうやら彼女もあの相談所かざみどりに通っているらしい。
こちらの事情も凜から聞いているらしく、穏やかな笑みだけをこちらへと返してくれた。
そんな彼女は、明人が染谷と話している間、会話を聞いて相槌を打つだけで、特に自分からは積極的に話そうとはしなかった。
「そっか、大変だったでしょ」
「大変って言うか、おばさんが気にしてるみたいだったから」
「めっちゃ優しいじゃん。菫のお見舞いに行った時も、あの子そんなこと言って――」
そこで、不意に少女の言葉が途切れた。
どうしたのかと染谷の顔を見れば、やや眉をしかめたような渋い顔をしていた。
「山里君、お見舞いに行ったと思うけど……」
「ああ、一度様子を見にいった」
「一度だけ?」
「あ、由真……」
問い返してきた染谷の言葉を遮るように、聞き手に徹していた瑠香が会話へと割って入った――が、お構いなしに染谷は言葉を続ける。
この時、明人はそれが何を意味するのかは分からなかった。
染谷の表情はどこか険しく、そして不機嫌そうに歪んでいた。
「菫はバスケで忙しいから仕方ないと笑ってたけど……。
もう少し、会いにいってほしかった」
「それは……」
「髪も抜け落ちてガリガリに痩せてたけど、それでも笑ってたんだよ。
つらいはずなのに大丈夫ってしか言わなくて……」
彼女の声は震えていた。
それが怒りか悲しみからくるものかは明人には分からない。
ただ、菫のことを思って言葉を口にしているのだと思う。
彼女が良い友人を持っていたことに安堵し――しかし、自身に向けられた要領の得ない言葉と感情だけは、やはり分からなかった。
「それにっ」
「由真」
瑠香がそこで改めて言葉を制した。
明人と彼女の間に割って入り、染谷に何かを小さく言い聞かせる。
彼にはその一連の会話は聞こえなかったが、少しして瑠香はこちらへと向き直った。
「大体の事情は聞いてるよ。
ただ……いや、難しい話だよね。
もし私が同じ立場だったら、すごく勇気がいることだと思うから」
視線が交わる。
真っすぐにこちらを見るその眼は、まるで光の届かない海のように深い暗闇のように見えた。
それを見ていると背後から誰かに見られているような不安感を覚え、心を見透かされているようだとも感じられる。
その不安感に既視感を覚え――それが、あのかざみどりとか言う事務所で相対した霊媒師と似ていることに気が付いた。
「頑張ってね」
そう言葉にした彼女の表情には、優し気な笑みが浮かんでいた。
しかしそこには何か形容しがたい複雑な感情が入り交じっている――ようなものも感じた。
だが明人には、それが結局何なのかは分からなかった。
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