目を背けた先に -02-
それは猛暑もすっかりと失せた初秋のある日のことだった。
この日の事務所は静かなもので、電話もそうだが依頼を持ち込むような『迷い人』とでも言うべき人々はなかった。
部屋には断続的なキーボードを叩く音が小さく鳴り響いている――が、それが自分のものではないことに、瀬良姫子は心の中で溜息をつく。
小説家として本も名も売れてきた彼女だったが、どうにも最近は良いネタが閃かず、その創作活動が停滞していた。幸いなのは締め切りはまだ先の話ということくらいか。
友人の経営する事務所兼自宅に居候している彼女は応接室――半ば知り合い達が集う溜まり場だが――に、自身のノートPCを持ち込んで執筆作業をしているわけなのだが、どうやっても筆の進みが遅いことに内心頭を抱えていた。
腕を組んで小さなディスプレイと睨めっこして、時には思いついた一文を箇条書きに打ち込んでいく――が、やはりこれではないと修正や削除を繰り返す。
それをここ数日続けていた。
対して軽快にキーボードを叩くのは、事務机に座っている自身の双子の妹である瀬良美琴だ。
事務員として働く彼女はスケジュール管理、経理全般――と、この事務所の事務作業の全てを担っていた。
休むことなく仕事を進める彼女を姫子は横目で見る。
自分もあれくらい軽快に作業が進めることができればいいのにと考えるが、しかし業種が違うのだからそうなるのは当然だと瞬時に自答した。
そんな間の抜けた考えが思い浮かんできたことに再び心の中で溜息をつく。あるいは病んでいるのだろうかとも。
そうして、少し休憩して気分転換をするべきだろうかと考え始めたそんな時だった。
「お疲れ様でーす」
不意に事務所入り口の扉が開き、少女の明るい元気な挨拶が飛び込んでくる。
聞き慣れた明るい声色の人物は、僅かに開けたドアの隙間から顔を出していた。
そう言えばアルバイトの彼女らがやってくる時間だったか――あるいは、もうそんな時間になるのかと姫子は思う。
そう考えて、姫子は何度目になるか分からない溜息をついてソファーの背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。
「凜ちゃん、いらっしゃい。瑠香ちゃんはエーデルワイスでバイトなんだっけ」
「はい、今日はそっちです。ところで美琴さん、姫姐さんどうしたんですか?」
「ネタ切れでイライラしてるだけだから気にしないで」
「……イライラしてないって」
ノートPCの傍らに置いていたマグカップを取って口に運ぶ――が、持ち上げて中身が空っぽなことに気が付いた。
顔をしかめ、だがそれを決して言葉にも溜息にもすることなく、静かにマグカップを置いて再びディスプレイに向かう。
「珈琲淹れます?」
「……珈琲もいいけど、何か面白い話ない?」
「面白い話はないですけど、ちょっと相談がありまして」
それを聞くが早いか、姫子は弾かれたようにアルバイトの高校生――弥生凛へと顔を向ける。
普段は暇だからと言って怪談や都市伝説の話を彼女にねだられるのだが、今回はその立場が逆になるようだった。
それを察してか、好奇の視線を向けられた少女の肩がびくりと跳ね上がる。
傍から見れば、獲物を目の前にした貪欲な肉食獣と、それに怯える小動物の対比になっているかもしれない。
いや、作家とはそういうものだ。
面白い話があれば食いつく。話をせがむ。吸収する。
姫子は凜に手招きをして入室を促した。
彼女はそこで頷くのだが、入室の前に一度部屋から顔を引っ込める。
すると「多分大丈夫」と、小さな声が聞こえた。どうやら他にも誰かがいるらしい。
事務所の扉が開かれると、凜に続いて一人の少年が現れた。
身長はおよそ180cmあるかという長身で、着ている制服から察するに凛と同じ高校に通う学生らしい。
「彼氏?」
「違いますってば。その、"つかれてる"みたいで」
"つかれてる"。
おずおずと最後に付け足されたその言葉で、姫子は全てを察してしまった。
改めて少年へと視線を向ければ、困惑したその表情は、見ず知らずの場所に連れてこられた不安から生じたものだけではないようだった。
くたびれた表情、辛気臭い、生気がない――と、表現はできる言葉はいくらでもある。
この事務所にやってくる悩みを抱えた人間は、いつもこのような表情をしていた。
大抵はさままざな場所や人物に首を傾げられ、自身の異常性に悩んで病んでしまう。そして紆余曲折を経てこの場所に辿り着く。
だが、最短でここへとやってきた彼は運が良いようだった。
柔らかな笑顔を浮かべ、美琴が事務机から立ち上がった。
「相談、ってことでいいのかな」
「はい……その、俺もここがどういうところかよく分かってないんですけど、弥生さんがついて来てって言って……」
「お師匠、いますか?」
「いますよ」
ふと、凜の問いかけに答えるように一つの声が返ってきた。
事務所の奥の扉が開かれると同時にその声の主は現れる。
彼女は相変わらず、気だるげにも無表情にも見えるような表情を浮かべていた。
ふらふらとおぼつかない足取りに、艶やかな黒髪が揺れていた――のは、彼女が寝起きだからだろうか。
仕事が入っていない日、彼女はこうしてこの時間帯にはよく眠ていた。それは普段からしている業務内容の弊害か。
だが、そのぼんやりしたような童顔で和人形のような無表情が、瞳が、じっと少年へと向けられる。
少年は向けられたその視線に気圧されたらしく、逃げるように目を逸らした。
友人のその悪癖に対し、姫子は溜息をついて頭を抱えた。
「霧子、それやめなって」
「失礼。彼、"つかれてる"ものですから」
口にして、無表情の親友――西南霧子は姫子の隣のソファへと腰を下ろした。
そうして凜が連れてきた少年を、彼女は対面のソファに座るように静かに促す。
少年はそれに従い、ややぎこちない動きでソファに座った。
「『相談所かざみどり』の所長代理、西南霧子です。今日はどうかされましたか?」
「えっと、弥生さんに連れられてきたんですけど……」
今度は視線が凜へと向けられる。
視線を向けられた当人は、少し居心地が悪そうに苦笑を浮かべていた。
「クラスメイトの男子なんですけど……ほら、どう見ても"つかれてる"じゃないですか」
「お節介で連れてきたと?」
「話を聞いたらやっぱりそうみたいで。それに放っておけなくて……」
「勝手に連れてくるのは感心しませんよ。本人の同意なしに連れてくるなんて」
「あのっ」
少年が霧子の言葉を遮る。
その場にいる全員の視線が向けられて、気圧されたかのように彼はびくりと肩を震わせた。
しかしそれをぐっとこらえた様で、息を一つ吸うと、改めて霧子へと真っすぐに視線を向ける。
「ここは、どういうところなんですか?」
息や緊張と共に吐き出されたその言葉に、部屋の中はしん、と静まり返った。
言ってはいけないことを聞いてしまったと思ったのか、少年がはっとしたような表情を浮かべて固まっているようだった。
だが、しばしの沈黙が流れた後、口を開いたのは霧子だった。
再び彼を真っすぐと見据える。同時に姫子は嫌な予感がした。
こういう時の彼女は、相手の心理状況に関わらず、突拍子もない発言をぶつけると言うもう一つの悪癖があったからだ。
それは人とは違うものが視える故に麻痺してしまった常識の為か、あるいは状況をはっきりと伝えた方が良いと言う厳しい優しさの為か。
どちらにせよ、その度に姫子を含む周囲の人々は肝を冷やされるので、毎度彼女の言動には気が気ではなかった。
何度も指摘してはいるため、今回こそはオブラートに包んでほしいと姫子は願う。
「あなた、霊を見ましたよね」
――が、やはり今回も、彼女は自身の主義を曲げることはなかった。
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