ささやきに耳を傾けて

minato

Case.01 目を背けた先に

目を背けた先に -01-






 彼女の仕事をペテンだという人もいるが、私は彼女が本物であることを断言する。

 時折彼女は残酷な人だと思われがちだが、誰よりも優しい人物だと私は保証する。

 彼女はどんなささやきにも耳を傾け、分け隔てなく全てを救う人間だということを私は知っている。


 こういった話を書く時、私は必ずそう前置きをしている。

                        ――――瀬良姫子











 ***











 その訃報が届いたのは、本当に何気ない日常の一風景の中だった。


 夕暮の赤が藍色に染まっていくその時間帯に帰宅するのが、彼――山里明人少年の日常だった。

 バスケットボールの大会で目覚ましい活躍を遂げた彼のモチベーションは未だ高く、大会が終わった後も一息つくこともなく練習へと没頭していた。

それは生来の努力家としての気質の顕れで、そんな彼を見習った先輩や後輩も負けてはいられないと練習にも力が入っていたし、

何より同輩も彼の実力を認めると同時に誇らしく思っていた。


 心地良い疲労感と空腹の満ちた体で、彼は住宅街にある自宅へと辿り着く。

自身の課題をぼんやりと思い返しながら、それに対するイメージトレーニングも欠かさない――が、ふと勉学の方の課題も思い出す。

確か何かの科目で宿題があったような。いや、今日は疲れたから明日学校で確認するか。いやいや、ボリューム次第では今日やっておかないとまずい――。

疲れた思考で、ああでもないこうでもないと騒ぐ。

こういった生真面目な性格も、彼が周囲から好かれる理由の一つだった。



「――え、本当ですか?」



 そうして彼はいつものように玄関の扉を開けるのだが、飛び出しかけていた「ただいま」が、そんな言葉によって引っ込む。

見れば廊下に設置された電話の前で、受話器を持った彼の母親が立っていた。

しかしその表情は普段から見慣れた穏やかなものではなく、目を大きく見開いてぽかんと口を開けていたことには彼も驚いた。

その様子から何か大変なことが起きたのは明白で、彼は母親が電話を終えるまで待つことにした。


 いくつかの相槌の後、母親は「何かあったら相談してくださいね」と言葉を残して受話器を置いた。

そして少しの間、受話器を置いたまま、呆然とした様子でその場に立ち尽くしていた。



「……なんかあったの?」



 明人は母の様子を窺いながら、恐る恐る声を掛ける。

母親は油の切れた機械のようなぎこちない動作で彼の方を向くのだが、その表情は明らかに強張っていた。

その表情には彼もただごとではないと察せざるをえない。

この時、心が妙に騒めいていた。


 そして、母が口を開いた。



「菫ちゃん、さっき亡くなったって」











 ***











 住澤菫は近所に住む幼馴染の少女であった。

両親同士が仲が良かったからだったか、それとも幼稚園で一緒だった頃に仲良くなったのだったか。

今となってはそれは曖昧模糊とした記憶だが、思春期を迎えてなお共に行動することも少なくはなく、

近所と言うこともあって幼い頃から何かと一緒だった。

彼女は自分の方が数日早く生まれたと大々的に公言し、昔から何かと明人に対して姉のような態度をとっていた。


 ――彼女ががんだと診断されるまでは。


 彼女の葬儀は粛々と行われていた――と言うより、気が付けば終わっていたと言うのが明人の印象だった。

静かに眠る彼女は薄っすらと化粧が施されていたが、しかし次の瞬間には煌びやかな模様の骨覆がそこにあった。

記憶は穴だらけで、自分の目の前にある笑顔の遺影に現実感を抱くことができない。


 誰かに声をかけられたような気がする。

 誰かが泣いていたような気がする。

 誰かが、誰かが、誰かが――。


 気が付けば四十九日すら過ぎていたが、彼には自身が涙を流した記憶はなかった。


 そうして日常が戻ってきた頃には、明人はまた同じように部活動の練習に明け暮れていた。

以前と変わらぬ大きな声を出し、場の空気を盛り上げながら自身の課題に向き合って試行錯誤を繰り返す。


 だが、周囲にはそれがあまりにも痛々しく見えていたらしい。

その数日後には明人は顧問とキャプテンに呼び出され、大丈夫かと心配な顔をされた。

彼女と友人だと言うことを知っている面々が、どうやらこの二人に相談したようだった。


 余計なお世話だと内心で溜息をつく。本当に落ち込んでいないと言うのに。

そのように自分は大丈夫だといつもと変わらぬ調子で説明をしたが、やはり彼らは難しい顔を崩さない。

結果として、明人はしばらく部活動を休むことになったのだった。











 ***











 その日も何をするでもなく、明人は自宅の私室で天井を見上げていた。

部活動を禁止された彼には、学校でやることなど何もなかった。

筋トレをしようかとも考えたが、どうにもそんな気分にはなれない。

漫画やゲームなどもそれは同じで、やはり彼は行動を移す気分にはなれずにいた。

ここ数日、彼はずっとこの調子だった。


 ――菫だったら、時間がもったないって言うんだろうな。


 ふと、彼女のことを思い出す。

自身とは対照的に黙っていることが苦手で、思い立ったらすぐ行動に移す人物だった。

そう言えば、暇さえあれば英語の勉強をしていたっけか。

将来は通訳や翻訳家になりたいと、いつの頃かに言っていた気がする。

努力家と言う部分が意外な共通点でもあったためか、幼馴染という長い付き合いだからという理由以外にも、

気が付けば互いの考えや夢を素直に語り合っていた。


 ――私は通訳とか翻訳家の仕事をしてみたい。

 ――俺はバスケのプロ選手。

 ――じゃあその時は通訳するよ。バスケなんか興味ないけど。

 ――通訳だってバスケの知識はいるだろ。


 幼稚で馬鹿げた話を何度もした覚えがある。

小学生の頃の夏休み、彼女の家で一緒に宿題をした時だとか。

中学生の頃の冬休み、たまたま学校に行って出会った時だとか。

高校生一年生の時の通学路で、肩を並べて帰った時だとか。

彼女といる時は不思議と素直な自分でいられた気がした。



「なんでだよ……」



 最後に会話したのはいつだっただろうか。

すでにその時には抗がん治療だとかで毛はすっかりと抜け落ちて、帽子を被って出迎えてくれたのだったか。

すっかり変わってしまった様相に戸惑った自分に対し、しかし彼女はいつもの調子で笑っていた。

わざわざお見舞いにこなくていい。バスケの選手になりたいんなら、こんなところで無駄に時間を使うなって――確かそんなことを言ってくれた。

だががんだと言うのだから、かなり精神的に参っているのではないか。あるいは喋ることもままならないくらい体が弱っているのではないだろうかと心配したが、

それは杞憂だったのだとその時の明人は思った。

それで安心してしまって、いつものように会話をしていつものように別れた。


 ――それが、山里明人が住澤菫と話した最後の記憶だ。


 もっと何かするべきことがあったんじゃないか。そんな思いが沸々と頭の中に浮かんでは沈んでいく。

だが、果たして自分は枯れ果てていく彼女を直視できたのだろうか。

瘦せ細り、血の気が失せていくその肢体を、表情を、心を。

彼女の弱った姿を想像できない。そしてそんな彼女に何と言葉を掛けたらいいのだろうかとも。


 ふと、その時だった。

こんこん、と、控えめなノックが彼に耳に届いた。

視線だけを部屋の入口のドアへと向ける。

明人はそれが両親のものかとも思ったのだが、しかしそこから先に続くはずのいつもの断りの言葉がない。



「なに?」



 気だるげに返した言葉にも、やはり言葉は返ってこなかった。

気のせいだったのかと心の内では首を傾げ、再びベッドに体を預ける――が、再びノックの音が響く。

怪訝な表情を浮かべて彼は再びドアを見た。

やはり返ってくる言葉はなく、そこにはやはりドアがただ静かにそこに在る。


 明人は仕方なくベッドから体を起こして、ドアの前へと歩みを進めた。

いつもなら一声かける両親なのだが、どういう訳かだんまりを決めているようだった。

明人自身も一人っ子であるし、今日は親戚の子がやって来ているという話も聞いていない。

そうなると何かの理由で、やはり両親が黙ってドアの向こう側で待っていると言うことになるのだが――と、そこまで考えて、それに該当する人物が思い浮かんだ。


 ――そう言えば、菫のやつもこうだったっけ。


 思い浮かぶが、小さく頭を振ってそれを否定する。

彼女は死んだ。もうこの世にはいない。

であるならば、これは何とも悪趣味な行為だ。

そう思うと沸々と怒りが溢れてきた。

明人は苛立たし気に溜息をつくと、乱暴にドアノブを掴んだ。



「いつまで待たせてんのよ」



 ――ドアノブを掴んだ手が、止まる。


 聞き覚えのある声が聞こえ、体が、息が、思考が停まる。

それは間違いなく、幼い頃から日常を共有してきた少女の声だった。

勝ち気で、自身に満ち溢れていて、少しだけ嬉しそうな声色は、確かに、間違いなく、明人の知っているそれで。


 しかし彼は言葉を返すことができなかった。

言葉も返せず、ただ目を見開いて立ち尽くすことしかできない。

だが、混乱する彼を尻目にそれは言葉を続ける。



「明人、開けてよ」



 そこで話せよ、とは頭の中で思ったものの、それを答えることはできなかった。

しかし次の瞬間にはドアノブが動くような感触が掌に伝わる。

その瞬間、全身が総毛立つような悪寒が右手から全身へと奔った。

彼は咄嗟にドアノブを強く握り、外にいる者の侵入を全力で拒んだ。

必死にドアへと体重を預け、決して開かないように――それが入ってこないように。


 だがその瞬間、ドアノブが凄まじい力で回る。

少なくとも自分が知っている幼馴染の握力で成し遂げられるものではなかった。

だからこそ、明人は理解してしまう。


 ――幽霊になって会いにきたんだ。


 そう思うと同時に明人のドアノブは手から滑り、いとも簡単にドアは開かれてしまう。

身体が前のめりになるが、そこで彼は転倒することはなかった。

だが、その所為でドアが開いた先を強制的に直視してしまうことになった。



「明人」



 生前と変わらぬ姿で、それはそこにいた。

高校の制服。小柄だが、決して低すぎない細見の身長。肩口で切り揃えた黒髪。

生前と変わらない容姿ではあったが、唯一違うのは病的に白い肌だった。

やはり、それは『そういう存在』となったからなのだろうか。


 この時、明人は自分の頭がおかしくなったのではないかと思った。

しかしあまりにも生々しい存在感を放つそれは、決して夢や幻ではないと直感が告げている。

不思議なことに、手足を複数の何者かに掴まれているかのように動かない。


 やばい。やばい。やばい――。


 脳内で反復する言葉は、もはや語彙力を失った漠然とした感情だけだった。

そうしていると、彼女は一歩ずつゆっくりと彼の元へと歩み寄ってくる。

その瞬間を全身に嫌な汗が滲み出るような不快感を感じながら、明人は目を見開いて見ていることしか出来ない。


 手が伸びてくる。病的に白く、痩せ細った枯れ枝のような手だった。

それは生前、病室で見た枯れ果てていく彼女の腕。

明人は今すぐこの場から逃げ出したかった。しかし、体は思うように動かない。


 ――そうして、彼女の手が眼前へと近づいてくる。



「明人?」



 その時、ふっと体の違和感が消えた。

拘束していた何かは気が付けばなくなっていて、自身がただその場に立ち尽くしていることだけなのだと気が付く。

視線を前へと向ければ、そこには不思議そうにこちらを見る母親がいた。



「ドアの前で何してるの?」

「……いや、なんでもない」



 先ほどのことなど言えるはずもなく、彼は短くそう告げてドアを閉めた。

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