赤いたぬき前奏曲

@harukannnonn

第1話

「最悪だわ……」

 朝から何度つぶやいたか分からない。

 かわいい一人息子の和樹が少年野球チームGreen Raccoonに加入したのは、緑町小学校に入学したばかりの春だった。緑町保育園のころから友達の太一君が野球を始めたのは聞いていたが、和樹は興味がなさそうだったのに。

「やっぱり男は野球だよな」

 と、無責任に焚きつけた夫は秋の辞令で地方へ転勤が決まり、今は単身赴任している。

 野球とは縁のない人生だった。正確に言えば、野球はおろか運動全般が苦手で言葉の響きすらも大嫌いだ。両親も運動が得意な方ではないが、雪国出身なのでスキーやスケートはうまい。私に至っては、それさえもできなかった。年子の妹はできたので、遺伝ではなく素質とやる気の問題なのだろう。通知票を受け取るたび憂鬱になることにも飽きて、別に運動ができないからって死ぬわけでもないと開き直ってからは、自他ともに認める筋金入りの運動オンチである。

 野球=ボールを投げてバットで打つくらいの認識しかなかったので、9人で対戦することも知らなかった。当然ながらルールも分からないので、見ていて面白くない。それなのに遠征時の送迎にはじまり、お茶出しにグランドの確保、お弁当の手配など保護者がやることはたくさんあって、夫が単身赴任してからは毎週末のように駆り出されている。

 保護者同士のおつきあいにもウンザリしていた。

「礼音君ママは監督のお気に入りだから」

 それで礼音君が良いポジションをもらったに違いない、と怒っている人がいた。

「颯真君の家はいつも当番をサボっている」

 親の介護とか、兄弟や姉妹の習い事の送迎や受験とか、それぞれ家庭の事情があるだろう。土日がお仕事の人もいる。うちだって父親不在で奮闘している。

「翔君パパと陽介君ママは不倫しているらしい」

 これにはなんて反応していいか分からなくて、あいまいに笑ってやり過ごした。

 本当は夫の単身赴任が決まった時に、コッソリやめさせてしまおうと思っていた。 

 だけど、ボールにバットやグローブなど道具一式そろえるのも結構な出費だったことを思うと、簡単にやめさせるのも惜しい気がした。それに何より和樹が楽しそうにみんなで野球している姿を見ると、やめようとは言い出せなかった。

 鮮やかに紅葉していた木々も、もうすっかり葉を落として冬支度を始めた十二月の中旬。

「フライだ!」

 練習中に父兄の誰かが叫んだのを聞いて、今夜のおかずはエビフライにしよう! 今の季節カキフライも美味しいのよねぇ~、とのんびり考えていたのは先週のこと。

 練習後に隣接する赤井町の少年野球チームRed Foxとの対戦が監督から発表され、チーム全体が盛り上がった。

 太一君ママによると、相手のチーム名は有名なメジャーリーグのボストン・レッドソックスにも負けない強いチームを目指そう! という高尚な精神に基づいているらしい。うちのチームは二年後に結成、相手が赤いキツネならば、うちは緑のタヌキでいこうという安直なネーミングだと知り、なんとなく負けた気持ちになった。

 

 そして朝からため息がとまらない理由は、その試合で和樹のレギュラー入りが決まってしまったせいだ。

「え? ふつうは喜ぶところ?」

「いや、おめでたいことじゃん。赤飯でも炊いてやりなよ」

 電話の相手は夫だ。慌てて報告したのに何をのんきなことを言っているのだろう。

「ちゃんと聞いてた? 和樹がレギュラーになったのよ」

「うん、聞いてたよ。左打ちの子が骨折して代わりに和樹が出ることになったんだろ」

「そうよ。左打ちの子が他にいないなんて理由で、一年生のあの子が試合に出るのよ」

「ケガした子はかわいそうだけど、レギュラー入りなんてすごいよ。今は練習中?」

「えぇ、庭でひたすら素振り練習してるわ。手が血マメだらけで痛そう」

「試合は一月の最後の土曜日だっけ? その週は金曜日に有給取って応援に行くよ」

「約束よ。和樹と話すなら呼んでくるけど、どうする?」

「そうだなぁ。話したいけど練習の邪魔になりたくないし、またかけるよ」

「そういえば和樹はライトを守るみたい。打席は8番だって聞いたわ。ライパチね」

「お、ライパチを知ってるなんて意外だな。8って、末広がりな感じで良いじゃん」

 知っているはずがない。昨晩、必死になってインターネットで調べたのだ。

「あなたって本当にポジティブな人ね。夜ごはんは和樹の好きなカツカレーにするつもり」

「試合に勝つカレー! なんちゃって。あ~、俺も我が家のカレーが恋しいなぁ」

「それ絶対に言うと思った。カレーが食べたいならクール便で送りましょうか?」

「ううん、食べたいけど送ってもらうのは何か違うんだよ。俺、ホームシックかも」

「せっかくマイホーム建てたばかりなのに残念ね。お仕事、順調じゃないの?」

「俺はデキる男だから仕事は問題ない。ただ、お前や和樹に会いたいだけ」

「お前って呼ばれるの好きじゃないわ。ちゃんと名前で呼んで」

「愛してるよ、愛美ちゃん。ねぇ、俺にも言ってよ」

「……バカ淳平。さみしいから、早く帰っておいで」

 なに? よく聞こえないよ~と言っているのを無視して電話を切った。恥ずかしいから小さな声で言ったのだ。聞こえていないなら、それでいい。夕日のオレンジがまぶしくなった庭では和樹が素振りに励んでいる。和樹は今、乳歯が抜けて上の前歯が両方とも無い。クリームパンみたいな小さくて丸っこいやわらかだった手のひらは、すっかりゴツゴツになってしまった。

 翌週の練習でストレッチが始まった時。

 いつもは太一君とペアを組んでいる和樹が、今日は礼音君と一緒だった。レギュラー入りしたからペアも変わったのかな、と気にも留めていなかったが練習中に太一君ママから声をかけられた。

「ごめんね。太一、ぼくの方が先に野球をはじめたのにって拗ねちゃってるみたいで」

「あ、それで今日はペアじゃなかったんだ。でも、和樹だってたまたまレギュラーになっただけだし、いやな気持ちにさせちゃってごめんね」

「全然そんなつもりで言ったんじゃないの。ただ、太一も泣いてるだけで何も言わなかったから、和樹君ママも知らないかもと思って。旦那が寝る前に聞き出したみたい」

 太一君ママの横に座る太一君パパが軽く会釈をした。私も太一君ママ越しに会釈を返す。

「和樹、夜ごはん食べながら寝ちゃうくらい素振りばっかりしてるから何か変だなとは思ったんだけど、知らなかったよ。教えてくれてありがとう」

「ま、勝負の世界は色々あるよね。たぶん、これからもレギュラーとったとられたの話って付いてまわるから気をつけて」

 また頭痛のタネが増えた。子どものことというのは、とかく悩みが尽きないものだ。


 お盆休みに淳平の実家へ帰省した。和樹と淳平が虫捕りしている間、お義母さんと二人きりになった。

「愛美さん、和ちゃん一人っ子だとかわいそうじゃない?」

 これは暗に弟や妹は作らないつもりか、と言いたいのだろう。

「そうですよね。でも、なかなか授からなくて」

「あまり遅くなると体力的にも経済的にも大変じゃない?」

「大変ですよね。もう、このままでもいいかも」

「なに言ってるんです! せめて、もう一人くらいは

 お義母さんの剣幕に驚いて身を引くと、いつの間にか淳平が私の横に座っていた。和樹は虫かごの中にいるキリギリスに夢中になっている。

「俺は今のままで十分幸せだよ」

 淳平の手が優しく私の肩を抱いた。次の瞬間、グッと力強く腕の中に引き寄せられた。

「和樹も、同じ気持ちだと思う」

 キリギリスが一声、ぎぃ~ちょんと鳴いた。


 あっという間に決戦の日。私は朝から動揺して、炊飯器のスイッチは入れ忘れて、目玉焼きは丸焦げに仕上げ、みそ汁を火にかけすぎて噴きこぼした。

「今日は特別! カップメンでも食おうよ」

 淳平は非常食用に備蓄している赤いきつねうどんと緑のたぬきそばを、両腕いっぱいに抱えてきた。和樹は珍しい朝食にワクワクしている。

「おいしい手料理、食べさせてあげたかったのに」

 お盆の一件があったので年末年始は互いの実家に帰省せずに、淳平の単身赴任先に旅行してきた。だからこそ久々のマイホームでの休日を楽しんでもらいたいと思っていたので、私はかなり落ち込んだ。

「こういうのもいいじゃない。忘れられない思い出になるよ、きっと」

 淳平は嬉しそうに笑っている。なんだかんだ言っても私は淳平の明るさに救われている。

「打倒、赤いキツネ! ってことで、俺は赤いきつねうどんにします」

 前言撤回。淳平が聞き捨てならないことを言っている。

「頑張れ、緑のタヌキ! でしょ? 私は必勝祈願で緑のたぬきそば」

 和樹は真剣な顔をして悩んでいる。さんざん迷って期間限定の赤いたぬきうどんを選んだ。こういうところが優しい子なのだ。


 その日の試合で、和樹はライトオーバーのヒットを打ってチームに貢献した。二年連続の負け越しからの僅差での勝利だった。この話をすると私の両親はトンビが鷹を産んだ、と言って大笑いする。悔しいが本当のことだし、まぁ悪い気はしない。

 この時の嬉しさが忘れられなくて、和樹はプロ野球選手になりたいと言っている。勝負飯はいつも、赤いキツネうどんの上に天ぷらをのせた(緑のタヌキそばにお揚げを沈めたものは私が食べています)カップメンだ。

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