第172話 許都・郭嘉 ~欠点と司空喫茶~
そう云われないように努力しているのだが、気づくとそれは水泡に帰りがちで、結局、日頃の行いに関しては低評価が増えるのだった。
だから、今日こそはつまらない悪評を重ねまいと、人が少ない通りで立ち止まっては建物の影の角度を見つめ、時刻の確認を行っている。
……よし。曹司空との面接までには余裕がある。これなら遅刻はしないだろう。
まったく、誰でもできることが、私にはなぜか難しいのだから困ってしまうよ。
そうだ、忘れ物の確認も……あ、薬を飲むのを忘れていた。水、水、あれ、水筒が、ない?
「あ、お兄さんっ!お暇かしらっ?お茶でも一杯いかがですかっ?!」
突然、背後から大声で話しかけられ、青年は探っていた肩掛け鞄から小物をいくつか落としてしまった。
「あ、あなたねえ、女子が見知らぬ男子をお茶に誘うなんて危……」と、小言を言いながら小物を拾おうと屈んだ青年は、正面に回ってきた娘を見て
男装の娘は、色鮮やかな着物の裾を惜しげもなく地面に広げてしゃがみこむと、まるで大輪の花のようになり、落とし物を拾い始めた。
彼女が二振りの剣を佩いていることに気づくと、郭嘉はどきりとして手が止まった。
「ごめんなさいね。こんなに驚くとは思っていなくて……」
拾った手銅鏡や手拭いなどを渡す時、青年の視線に気づいて頬を赤くした。
「どうしたの?なんだか恥ずかしいわ」
「あ、あなた、まさか、
娘はキョトンとしたがフフと笑い「そうそう」と肯定してから「そんなわけないでしょ」と勢いよく否定した。しかしこの特殊な話術に相手はクスッともせず、ただポカンとしだけだったので、彼女はまるでなにも言わなかったように話を続けた。
「私は
彼女が指さした小さな店の看板を見て、郭嘉は
「し、司空喫茶っ、ですって?!」
「ええ。あの店では私をはじめ、軍服、寝間着、女学生など、様々な
「へえ、さすが帝都。興味深いお店があるのですね。ちょうど水筒を忘れて困っていたんです。一杯だけ、飲んでいこうかな」
そして、遅刻である。しかも半刻(一時間)は過ぎている。
絶望した青年は、今すぐ帰宅して寝込みたくなったが、しかし、このように難ある自分を見捨てることなく、
……今からでも曹操殿に謝ろう。会ってもらえないなら、人伝でも……。
そう決めると走り出し、司空府へと急いだ。
「おや、早かったですね。奉孝殿なら一刻は遅れると思っていましたよ」
案内された司空府の一室。そこには簡易の文机に読みかけの竹簡を置き、苦笑を浮かべる荀彧がいた。
まだ息が整わず、額に汗を滲ませた青年は、たとえ渋い表情であっても知人の姿を見て安堵したが、すぐに疑問を感じて戸惑った。
……あれ、なぜ荀彧殿がここにいるんだろう?今は
ハッと思いつき、血の気が引く。
……まさか、私の面接のために、わざわざ皇居から出張ってくれていたのか?
そして私が遅れたせいで曹司空はいなくなったが、その後も一人で待っていた……?
青年は思わず跪き、
「こ、この度のご無礼、心からお詫び申し上げますっ。
荀尚書令をはじめ、皆様のご厚意を無碍にした上、貴重なお時間まで無駄にした事、決して許されることではありません。
そして、秩序を乱す私には皆様と仕事をする資格はありません。
今回のお話は、じ、辞……」
相手の言葉を遮るように、荀彧は言葉を重ねた。
「まあまあ。私は、奉孝殿のそういうクセを知った上で、ここに誘ったのです。
司空にも、あなたは遅れるだろうと伝えておきましたから、あの人も仕事をしながら待っていたでしょう。
私も書類を読んでいましたから、時間を無駄にはしていませんよ。
ですから、反省したなら、もうあまり気に病まないでください」
薄く涙を浮かべた青年は、僅かに顔を上げて相手を見た。
荀彧は優しい微笑を湛えていたが、目が合ったとたん、その瞳に鋭利な光が差したので、青年は畏れるようにまた顔を伏せてしまった。
「私は、あなたに時間厳守を期待して、ここに誘ったのではないのですよ。
あなたの才能に期待して、誘ったのです。
あなたはまるで千里眼のように、あるいは未来を知る人間のように、情勢や戦況、人物を的確に見抜く能力を持っている、と私は思っています。
その才能に、私は期待しているのです」
「あ、ありがとうございます。しかし、私には身に余るお言葉です……」
青年は恐縮を通り越して委縮し、その声は弱弱しく揺れていた。
「時勢の分析は、荀尚書令や曹司空、側近の皆さまの方が、当然ですが、確かです。
若輩者の私の意見など、実戦で採用されたことのない、まさに机上の空論です……」
「たしかに、私たちは齢を重ね、経験を積み、今も研磨を続けています。
ただ不思議な事に、まだ二十代でほぼ未経験のあなたにも、すでに私たちと同等か、より優れた分析と予測の能力が備わっていると、私は思っています。
もしかしたら、天性の才の持ち主とはあなたのような人を云うのかもしれません。
……規則や常識も大切ですけども、あなたのような人には、あまりそれらに囚われ過ぎず、自分の良さを伸ばしてほしいものです。
もしもあなたがここで働くなら、少しでもあなたに合う環境や条件を作る手助けをしたいと思い、私はここに来たのです。
まあ、長々と話しましたが、私はあなたと協力し合いたいのです。
できれば、あなたも多くの人と協力し合えるように、ゆっくりでも色々と努力してくれたら、私は嬉しく思っています。
さあ、そろそろ顔を上げてください。
すでに司空は呼び出しましたから、もうすぐここに現れるでしょう。
身なりを整え、気持ちを切り替え、自信をもって受け答えをするのですよ」
青年は身を起こすと、今度は素直に感謝を伝え、鞄から手拭いを出して汗をふき、手銅鏡を見ながら衣服や髪の乱れを直して、名刺を用意しようとしたが、なかった。
「おやまあ、忘れたのですか?落とした?では、私が即席で書いてあげます」
荀彧は竹簡から竹札を一つ外すと、そこに郭嘉の氏名と
青年が泣きそうな顔で感謝していると、ついに戸がコツコツと鳴った。
二人は姿勢を正し、頭を深く下げ、曹司空が現れるのを待った。
つづく
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