第171話 許都・荀攸との面談 ~道教とエトセトラ~

「不死者は想像以上に無力だな。殺せないが、簡単に行動不能にできるという事だ」

 黒い薄絹の上着を羽織る少女は、水墨画のように幽玄に見えた。

 その正面に座するのは、涼し気な草木染の着物を纏う荀攸じゅんゆうだった。

 

 ふたりは初対面だったが、董卓とうたく政権下での苦労話をするうちに旧友のように打ち解けあい、軍事、国政、法律等々の話ではすっかり意気投合し、そして、荀攸は軍師の職を拝命したのであった。


……軍師、か。やっかいな職業だな。将軍と同じく、目立てば敵はもちろん、味方からも警戒されて不幸を招きがちな、面倒な仕事だ。

生き延びるならば、有名にならず、誰にも目を付けられないことが重要になる。

曹操殿が編集した孫子の兵法にも、一般人までが褒めるような、有名な軍人や勝利は最善とはいえない、また、太公望の兵法書である六韜りくとうにも、目立つ将軍は名将とはいえない、とあったはず。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          自分と家族の身を守るためにも、地味な軍師を目指して頑張ろう……。



 そして話題は変わり、数週間前、彼がしょくで経験した氏の墓の奇談に移り、聞き終えた少女は上記の一言を述べたのであった。


「そうですね。盧氏は、不死者なのかもしれません。

彼女が面倒を起こすようなら哀れですが、処せなくとも墓に封じ込めれば……」


「問題は解決できるということだ。

盧氏はその気になれば、傾国の美女になりかねない危険な存在だと私は思う。

彼女は、巨大新興宗教、五斗米道ごどべいどう教祖の母親であり、巫術を得意とし、益州牧えきしゅうぼく(牧は知事のような地位)を操っていたとも聞く。

まあ、益州牧は彼らの教義のひとつ、房中術のとりこになっていたという噂もあるが。


荀軍師、よく盧氏を、この許都きょとに連れてきてくれたな。礼を言う。

彼女を放置すれば、また宗教を興したり、高官を操り混乱の種を作ったかもしれん。

盧氏は監視対象としよう」


 荀攸は拱手一礼してから、口を開いた。


「ご判断に感謝いたします。

もしも、誰も見張らないなら、私が行うつもりでしたので……」


 少女は視線を上げ、ぼうとした顔つきの相手を見つめた。


「君の鋭さは並ではないね。荀彧じゅんいく殿が、君を薦めてくれた理由がよくわかったよ。

私こそ、あなたと出会えて、組める事に感謝する。

注意深いあなたと一緒なら、この乱世でも不安はないだろう」


 不意の絶賛に荀攸は驚き、自分も良い主に出会えて良かったです、とあわてて伝えた。すると少女も僅かにどぎまぎして頬を赤くしたので、二人は笑った。



「ところで……」和やかな雰囲気の勢いを借り、荀攸は、幻想的でどうも尋ねにくかった疑問を口にした。

 盧氏の墓穴から自分でも気づかぬうちに脱出し、溺死を免れた件だった。


「あの時、私は盧氏に巫術で操られ、危機を脱したのでしょうか?

あの娘には、妖術や仙術のような不思議な力があると思われますか……?」


 怪訝な顔もせず、少女は即答した。


「あくまで推論だが、暗示の一種ではないかと思ったけどもね。

君は、彼女がいた五斗米道ごとべいどうや、黄巾賊こうきんぞくの発生元である太平道たいへいどうが、病人に施している治療方法を知っているかね?」


 荀攸は「あっ」と何か察したような声を上げてから、答えた。


「五斗米道は、自戒の手紙を書いて天・地・水の三官神へ供えさせているとか。

今は滅びてしまった太平道は、呪符と呼ばれるおふだを飲ませていたそうです。


……つまり、相手を信じ、暗示にかかれば偽薬でも病が治る、と?」


「治る、というより、効果が出る人もいた、と言うべきかもしれないけどね。

治療してもらえば、安堵して、元気が出て、回復が早まることもある。……それがたとえ偽薬でも、本人がその真実を知らなければ、気持ちだけで、その効果が出る場合もあったのだろう。

不思議なものでこのような、心の動きが身体に影響を与える事はあると、私は思う」


「病は気から、とも言いますよね。そういえば、道教では「気」が重要なのだとか」


「そうだね。だが、道教の「気」は、私たちが認識している「気持ち」という意味合いとは、また違うモノらしいのだがね。

ま、「気」の解釈違いなど、今はどうでもいい話なのだが」


……ヘンなことに詳しいな、この人。


「ま、どちらの気でも、乱れれば心が荒れて、身体に病が出る場合があるのだろう。

逆に、心が静まれば体調が良くなることもあるのだろう。


盧氏たちが治療に使う手紙や呪符、おふだは、ハッキリ言えば、紙きれ、小道具さ。

だがそれが心理、気持ちによく効き、患者の健康にまで影響が出ることがある。


盧氏は、これらを当然、すべて理解しているだろう。

もしかしたらこの構造、偽薬治療法を考案した一人かもしれない。

……まあ、あくまで推論だがね。

彼女らの治療法から、もしも術を使うとしたら、暗示の術ではないかというのが、今のところの私の考えだよ。


ただね、あの時、きみは手紙も書いていないし、お札も飲んでいないよね。

では、どうやって暗示にかけたのか。

……私は、盧氏の声、言葉だと思っている」


「たしかにあの時、私は盧氏の言葉を聞くうちに、思わず手を伸ばしました……」

 荀攸は思い出しながら、ゆるゆるとつぶやいた。


「もしかすると彼女は声だけで暗示にかける術も手に入れているのかもしれない。

彼女の声は、とても美しいそうじゃないか。

美声に魅了されるとどんな言葉でも、つい深く聞き入ってしまう時があるものだ」


「彼女は、山岳経験が豊富で、遭難者を多く助けてきた、と言いました。

それを聞いたとき、つい手を伸ばしてしまったのです。

どう考えても、小柄な彼女が、私を引き上げることなど、絶対にできないと思っていたのに……」


「君が彼女を信じた瞬間だったのかもしれないね」

「そうですね……。実行した事が、誰かに害を与える行為ではなくて良かったです」

 ふうっと、重く疲労に染まった吐息を一つ、荀攸が吐くと、少女は慰めるように、あまり減っていない彼の碗に茶を注いでやった。


「恐れ入ります。……しつこいようですが、疑問はまだあるのです。

彼女に救助された際の記憶がないのは、どうしてだと思われますか?」


「君はたしか、現場で二度も気絶したそうじゃないか。

それほど強烈な疲労と心労を短期間に受けたのだ。記憶が飛んだのではないかね。

あるいは、記憶を消去する暗示か技を、盧氏にかけられたか……」


「記憶を消す……そんな恐ろしい術や技があるというのですか?」

「術の方は知らんが、技なら、私にもできると思う」


「なんですってっ」

荀攸はつい身を乗り出した。

「もし、本当にできるのならば、今ここで、私の記憶を奪ってみてくださいなっ」

「ふむ。では、準備ができたら、本当にやっていいか問うから、教えてくれ」


 そう言うと少女は立ち上がり、腰の左右に佩いている剣を一本、柄のまま振りかぶるように構え、荀攸を見下ろして声をかけた。

「やっても、いいかな?」

「いいともー」と反射的に答えかけたがぐっと飲み込み、荀攸は問い返した。

「もしやこれは、殴って記憶を消してもいいかな、と問われていますか……??」

「そうじゃ。さすが、君は鋭いね」

……とんでもないご主人さまだ。

 

 荀攸は丁寧にお断りすると、少女は座ってまるで何もなかったように話しだした。


「案外、記憶を消す方法や原因は、いろいろあるものだ。

特殊な野草やキノコでも飛んでしまうらしいよ。

盧氏は長く山の中で暮らしていたのだから、そういう薬品にも詳しいだろう」


「ふむ、今回は、自分の原因か、彼女の術かわかりませんが、ただ、彼女の能力が未知数であることには変わりませんね。恐ろしささえ感じてしまいます。

やはり、盧氏に対しては警戒を怠るべきではないでしょう。可哀想ですが……」


「そうだね。私も盧氏を疑い続けるのは可哀そうだと思う。

あの娘が幸せに暮らせるように、私も考えてみよう。


さて、公達こうたつ殿、今日は長々と付き合ってくれてありがとう。


私は近々、君と同じように、荀令君じゅんれいくん、ああ、荀彧じゅんいく殿が薦めてくれた郭嘉かくか殿と面談するのだ。

郭嘉殿は若く、素行の悪い変人らしい。もしも彼と一緒に働くことになったら、どうか、できるだけ優しくしてあげてほしい。


では公達殿、いや、荀軍師。願わくは末永くそばにいて、私を助けていただきたい。

この国に一日でも早く平穏が訪れるように、共に死力を尽くして戦おう。

私たちは、董卓を倒すために心を燃やした頃と、何も変わっていない。

どうか、なにとぞお願い致します」


 丁寧に拱手し深々と頭を下げた少女の姿は、名門である荀一族が、この乱世でなければ自分に仕えるなどあり得ないことを自覚していると、暗に伝えるものだった。


 荀攸は畏れながら相手の身を起こし、ただただ優しく、古い傷痕と日々の鍛錬で固い皮膚をした少女の細い手を握った。


つづく

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