第169話 益州 魔女 その2
一時的な豪雨、典型的な春の嵐で、自分たちは生き埋めになりかけている。
……都を離れてからは安全第一で生きてきたのに、比喩ではなく本当に自分で掘った墓穴で死ぬかもしれないなんて。
皮肉だな、と思ったが、不思議と後悔や不満は感じなかった。
……とにかく、今はこの娘、
あきらめ悪く思う。
……共に脱出するのは、もう不可能だ。
意識のない彼女を連れて、垂直に近い墓穴を登る体力はない。
何より土は泥に変わり滑るばかりで足がかりにもならない。
……足がかり、か。
ふと思いつき、すでに沈んでいる棺桶の上に乗った。わずかだが地上への距離が縮まる。これしか手段がないか、と思った途端、腰を屈めて反動をつけ、渾身の力を込めて地上へ向かって娘を放り上げた。
強烈な負荷がかかった棺は壊れ、体勢が崩れる。視線が上向いた瞬間、娘が暗い墓穴から消えていく様子が見えた。……こんな出鱈目が成功するとは、と自分でも驚くうちに、泥水の中へ倒れ落ちる。
早く起き上がらなければ、と思うのに身体は言う事を聞かない。
それどころか眠りに落ちる寸前のような、心地よい感覚が急激に侵食してくる。
ふと、脈略なく亡き妻の笑顔と長男の姿が心に浮かんだ。
……そうだ、またあの人に逢えるのなら、冥府も悪くない。この世に残る家族と離れるのは、寂しいけれど。
「旦那様」
その声は、朦朧とする意識を貫通し、脳髄に触れてくるように響いてきた。
「起きてくださいまし、旦那様。どうかお願いします。私をお助け下さい」
……幻聴か?それとも、あの娘の声なのか?はて、助けて下さいとは。
まさか、私が放り投げたせいで、怪我をして動けなくなったのか?
気になったとたん、夢から醒めたように目を開いた。
そして泥水に沈んでいる現実にやっと気づき、あわてて上半身を起こす。
むせ返っていると、また清らかな声が頭上から声が響いてきた。
「溺死なさらなくてよかったわ。さあ早くこちらに来て、私の手を掴んで下さい」
視線を上げると、滝のような土砂降りの中、娘は細い腕を伸ばしている。
「あなた、ゲホッ、お怪我は、ありませんかっ?」
小石や砂を噛み、咳き込みながら尋ねる。
「怪我はないわ。とにかく早くこちらへいらっしゃい。引き上げますから」
「引き上げる?あなたが、私を?」
ずぶ濡れの着物は想像以上に重く、よろめきながら立ち上がり答える。
「それは危険です。逆にあなたが引っ張られて、ここに落ちる可能性が高い」
「やってみなくちゃ、わかりません」
「お気持ちはありが……」
突然、大量の土砂がなだれ込み会話が途切れた。水かさが一気に増す。倒れたままだったら、生き埋めになっていただろう。恐怖に圧されて逃げた先には、娘の白い掌が揺れていた。
「お願いですから、私の言葉を信じて、この手を掴んで下さいな」
暗闇の中、娘の瞳は満月のようにぎらぎらと輝き、なぜか視線が外せない。
「あなたはさっき思いがけない力で私を助けてくれました。
今度は自分のために、その力を発揮すればいいのです」
……そういえば、緊急時、人は怪力を発揮する事があるとか。
そのような未知の力を、我知らず娘を放り上げた時に使ったのだろうか。
「それに私は山岳で長く暮らしていました。このような状況には慣れています。
滑落した男子も引き上げてきました。私はきっと、あなたもお救い出来ます」
……そうなのか。本当に、彼女の言う通りならば……。
引き寄せられるように手を伸ばす。その手を娘は、獲物を狙う猛禽類のように素早く力強く掴んだ。二人の掌が重なった音が、周囲に大きく弾けた。
――優しくて、穏やかな感触だった。
次に認識したのは、目覚めにも似た、意識が浮上してくる感覚だった。
……もしかして、すべて夢だったのかな。
ゆるゆると瞼を上げると、自分をのぞき込んでいる娘と目が合った。
「わっ!」夢じゃなかったのか?それとも結局二人して溺死し、冥府にきたのか?
「ここはどこ、ですか……?」
「墓場です。あなた、とてもお疲れで、少し眠っていらっしゃったのですよ」
話に区切りがついたと同時に、自分が相手のひざを枕にしていることに気づき、一瞬で飛び退くと無礼を詫びた。
「あら、私はもっとゆっくりしていってほしかったのですけど。おほほ」
「い、いやあ、私には亡くなりましたが、妻がおりますので……」
「あらまあ、妬けますわね。とても素敵な奥様だったのね」
小さく笑う娘を、さきほどまでの豪雨がうそだったように、小雨の薄雲の間から弦月の淡い光が照らし始めた。
「ところで……」
娘は急に神妙な面持ちになり、相手を見つめた。
「もしかしたら、ここに私の次男も埋まっているかもしれません。
お礼はなんでも致しますので、どうか、後日で構いませんから、あの子を掘り起こすのを手伝っていただけませんか?」
震える声で伝えると、娘は
「どうか、顔を上げてください……」
何と言おうか考えつつ、口を開いた。
「じつは、あなたを掘り起こす前に、息子さんの棺桶を先に見つけたのです。彼は……もう亡くなっていました」
娘は息を呑むと、堰を切ったように声を上げて激しく泣き出した。両手で涙をぬぐい、子供のようにしゃくり上げる姿は年相応に見える。
だが、彼女とともに処刑された次男は、青年、中年男性だった。さらに長男は
……彼女はもしかしたら、四十路の私より年上の可能性があるな。
とはいえ、見た目が若々しいというのはよくある話で、異常ではない。
それよりも根本的に問題なのは、処刑されたはずの彼女が棺桶の中で生き続け、今ここで泣いている事だろう。
その上、自分にも奇妙な事が起こっている。
さきほど、彼女に墓穴から救い出された記憶が一切無いのだ。
……彼女は巫術を得意にしていたらしいし、五斗米道は鬼道に通じていると聞く。もしや私も、怪しい術にかけられたのだろうか?
号泣している娘に、
「もしかして、あなたは
泣いていた彼女はぴたりと声を止め、ゆっくりと顔を上げると彼を見た。
つづく
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