第167話 荊州・蜀郡太守 荀攸・蜀郡への旅

手紙を差し出された時、荀攸じゅんゆうあざなは公達こうたつは温かい猪肉入りの汁を啜っていた。

春遅い白息の朝市、食と暖を求める人々で賑わう食事処にて、相席となった女性との別れ際での出来事だった。

 

じゅん蜀郡しょくぐん太守、でいらっしゃいますね」

柔らかな笑顔と声色で、名前と官位まで言い当てられた。

「そう、ですね」

正直に答えたのは危険だと思わなかったからだ。命を狙われる理由はないし、暗殺者は気さくに話しかけたり手紙を渡してきたり、たぶん、しないはずである。


「それは、荀彧じゅんいく殿からですか」と、苦笑して手を伸ばした。

訳ありとはいえ地方にこもり続ける自分を構ってくれるのは、今ではこの年下の叔父くらいしかいない。……しかしなぜ、いつもの使いの男ではないのだろう?


「これは、曹操そうそう殿からです」

驚いて顔を上げると、すでに相手は混雑に紛れて去っていくところだった。

受け取った二通の手紙を、荀攸は見たこともない本人と対峙したように畏れつつ見つめた。


荀攸と曹操は、面識も接点もない。

ただ、かつて董卓とうたくが暴虐を極めた頃、荀攸は文官として宮中の仲間と彼の暗殺を計画し、曹操は武官として正面から挑み、二人とも負けている。


荀攸らの計画は事前に漏れ、死刑を言い渡されて投獄された。

曹操は董卓配下の徐栄じょえいに敗北し、手持ちの軍をほぼ壊滅させた。

その後、運よく呂布りょふの裏切りにより暴政は潰え、前者は釈放され、後者には少数の手勢が残った。

 

そして今は、それぞれ遠い場所で違う生き方をしている。


曹操は乱れる世を安定させようと戦い続けている、と云う。

荀攸は戦乱を避け奥深い地方で暮らし続けている。……これが、賢い生き方だと思うのだが。

 

ふと、眉をひそめた。

……「だが」ってなんだ。この安全な蜀郡太守の地位に、今更なにが不満なんだ。

心をざわつかせる手紙を、拗ねた指先で荒く開封した。

 

それは、とても短い文面だった。一瞬で読み終えた荀攸は「しまった」と後悔したが、遅かった。


正気と狂気が裏返ったように、いままで最良だと信じてきた選択が、ただの小狡い計算だったのではないかと、ついうっかり明確に意識してしまったからである。

こうなると、気づかない振りをしていた本音が溢れ出し、理性を侵食していく。


……自分だけが安穏に暮らす事の何が不満かって、そりゃあ全てだった。

かつては全ての人が穏やかに暮らせる世界に戻したいという夢を抱いていたのに、その目標を諦めた結果が、今の暮らしだったのだから……。


――だけどもう一度、あの時の夢を志してもいいのなら。


ふと胸が熱くなり、涙で視界が滲んだ。

自分を誘い出してくれた曹操に感謝しつつ、手紙の続きである追伸も読んだ。

そして、困惑する。


『追伸 張魯ちょうろの母親が生きている可能性がある。彼女だけでも助けてやってほしい』


涙を袖でぬぐい、眉をひそめた。

……たしか、彼女は殺されたはずだ。

生きている可能性とは、どういう事だろう?死んだのは別人で、本物はどこかで生き延びているのか?


手がかりを探すようにもう一通、曹操とは違う筆跡の手紙を広げた。

すると、張魯の母である氏の墓への案内が記されていた。


……やはり墓だ。まさか、棺桶の中でよみがえり、土の下に閉じ込められている、とか?


ぞっとした。


……そういえば、盧氏は鬼道の達人らしい。もしや、呪術でそんな奇妙な状況になったのだろうか。だとしたら、さぞや暗くて狭くて怖いだろう。

 

少しずつだが、荀攸も彼女の様子が気になってきた。

死んでいるなら、安らかに眠っていてほしい。もし生きているなら、助けてやらないと可哀想だと思った。



さっそく翌日、次男に留守を頼み、目的地である益州蜀郡えきしゅうしょくぐん成都せいとへと出発した。

地上で眠った龍の痕跡のように雄大な長江を、笹の葉に似た小舟でさかのぼっていく。

荊州のとなり、益州に入ると段違いに移動が困難になった。

独立をたくらんだ以前の益州牧えきしゅうぼく(牧は現在の知事のような地位)が、主要路等を断ってしまったからである。


実際、数年前の荀攸は蜀郡太守の任地に辿り着けず、引き返して荊州けいしゅうで暮らし続けていた。

もし曹操の手紙に付随した間道等の道案内がなければ、今回も立ち往生しただろう。


やがて巴郡はぐんに建つ白帝城を横目に、長江の流れに鋭く研がれた巨大な峡谷群、三峡さんきょうの絶景に圧倒されつつ、道を急いだ。

満開の桜の下、支流を渡り、若葉しげる山を越え、やっと目的地である成都せいと辿り着いた。


空には薄雲が漂い日差しは優しく、程よい湿度が心地よい。

行き交う人々の表情は明るく、痩せ細っている者はいない。

それもそのはずで、市場には山積みの穀類、生けすに入った川魚、珍しい薬味が所狭しと並んでおり、まるで食糧庫かと見まがう豊かさに荀攸は驚いた。


組木の細工が美しい木造の家が並ぶ小径を歩きながら、本来ならば自分が管轄していたはずのこの土地に、荀攸は早くも憧れと親しみを感じた。


……もしも私が蜀郡太守として益州牧に仕えていたら、この成都を護るために侵略者たちと戦う未来もあったのかもしれない。もしかしたら曹操とも。


たった一通の手紙で運命が変わっていく不思議に思いを馳せつつ、フナの甘辛煮で腹ごしらえしたあと、くわを買って街はずれの墓場へと向かった。


つづく

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