第165話 許都・肉人

 寒い春が続いていた。飾り格子の窓の外には、まだ粉雪が散っている。

 警備厳重の書館、その奥にある仕事部屋で少女がため息を零すと、その吐息にくすぐられた肉塊はクスクスと嗤うように身体を揺らした。


 この肉塊には頭部がない。いや、胴体が頭部を兼ねている。一頭身だった。


 身体はつきたての餅に似ており、そこに短い手足が生えている。

 中心部には三つのしわ(※1)があり、これが表情のように変化した。

 

 この肉塊は、人型への再生がなぜか途中で止まった鄒氏すうしだった。


 宛城えんじょうの敗戦から許都きょとの自宅へ戻ったとたん、この餅の精霊のような姿の手がかりはないかと、少女は療養を兼ねた休日を使って書物を調べた。

やがて頁をめくる手は、妖異鬼神が記録された奇図録「山海経せんがいきょう」を経て「白沢図はくたくず」に至り、「」という怪異の解説で止まる。


白沢図はくたくず」によれば、肉人である「」は「その身は食せば多力を得る仙薬となる」と記されていた。(※2)


 ……なんと。この内容を知る者に見つかれば、鄒氏はに間違われて食われるかもしれん。調べておいてよかった。


 そもそも、大きな餅が歩いているようにしか見えないのだから、見つかっただけでも大騒ぎになる。そのうえ上記の理由もあり、鄒氏の生活の場は、家族でさえ安易に出入りできない書館の仕事部屋となったのだった。

 

 ちなみに情報漏洩の危険性だが、ここには機密文書はなく、内容も暗号で記されているのであまり心配はないと少女は考えていた。

 それに万が一洩れたとしても、地方の情勢に詳しくなれる程度である。

 当の鄒氏も、竹簡を眺めてもすぐに首というか胴体をかしげて寝てしまったり鼠捕りの猫と遊びだすので、解読する気はないのだろう。


 鄒氏にとっては、狭いながらも穏やかな暮らしに思えるのだが、近頃では退屈な箱庭となってきたらしい。気付けば、脱走していることも多くなっている。

 心配ではあるが、完全に閉じ込めるのも可哀そうだと少女は思う。

 それに、いちいちチクチクと注意するのは嫌われる元である。こんなつまらない小言の積み重ねで、もしも出て行かれたらと思うと、寂しいというより恐ろしささえ、いまは感じる。


 ……。ふと、家を出た正妻と息子をまた思い出し、何度目かのため息が零れ落ちた。とめどない哀しみがぶり返してくる。

 ……二十年近くも一緒にいたから、離れることなどないと勝手に思い込んでいた。当たり前だった日々がどれほど貴重な時間か、いまさらわかってももう遅いのだ。ああ、またいつか家族に戻れるのだろうか……。


 だが、傷心に浸り続けるわけにもいかなかった。目の端に、山積みになった報告書がちらつき、否が応でも現実に引き戻されてしまうのだ。

 少女は重い視線を上げて、山崩れがおきないように一巻を手に取ると広げた。


つづく


(※1)三つのしわによる表情のイメージ→(´へ`)


(※2)肉人、に似た存在の目撃談は日本にもある。

 駿河城に出没した際は、徳川家康の命令によって山へ捨てられてしまった。

 その後、薬学に詳しい者がその話を聞き「それはといい、白沢図によれば、その肉は食べれば多力を得られる仙薬となる、とあります。惜しい事をしました」と残念がったという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る