第164話 許都・自由を許す都にて・曹丕という少年

 結論から云うと、正妻の丁氏ていしは家を出て行った。

正妻は、曹昂そうこうを連れて実家に戻りたい、と熱望していた。


 曹昂は長男であり、本来ならば絶対に許されない提案である。

だが少女は驚いただけで、反対しなかった。本来ならばありえない反応である。

家族の多くは疑問符を浮かべただけだが、数名は電撃を受けたように鼓動が跳ねた。


――つまりお父様は、跡取りは長男であるべき、だとは考えていないという事か。

――実力や才能を重んじる父らしい。ならば、優秀な兄弟たちを殺


曹鑠そうしゃくが病死したばかりだというのに、もしも曹昂まで亡くなったら……」

誰かの不穏な思い付きを遮るように、正妻の丁氏ていしが話し始めた。

彼女の瞳は極寒の湖のように冷厳で、その視線に少女は凍えた。


「あの子は優しいから、いつか本当にあなたをかばって死ぬかもしれません。

理不尽に昂が死んだら、今世来世を問わず、私はあなたを許せないでしょう。

だからその前に、昂を引き取りたいのです」


 静かな部屋に、爆ぜる炭の音がやけに響いた。


「あの子は戦いには向いていないのだと思います。

まだ心の傷が癒えずに、一日のほとんどを寝所で過ごしているのです。

そのうえ、美女の腕の化け物に飛びつかれた、と幻覚を真顔で話す始末。


変、あ、不思議な話が好きなくんがいてくれて、本当によかったわ。

丕くん、あの子の良い話し相手になってくれてありがとう」


 丕少年は背筋を伸ばして答えた。

「いえ、丁お義母様。私こそありがたくお兄様の貴重なお話を伺っております。


何度か聞き取りをした結果、その女の腕の化け物は、さきの宛城えんじょうの戦いにおいて、お父様が浮気したのちお兄様が惨殺した鄒氏すうし、という女性が恨みによって化身したものではないかと、私は推察しております。


今も鄒氏はお二人に憑りつき、復讐の機会を窺っているのではないでしょうか?」


「ちょっと丕!無神経はダメだって言ってるでしょうっ。それは相手だけでなく、あなた自身も傷つける行為ですよ」

 曹丕の実母であるべん氏は、珍しく人前で彼に怒った。

「その悪い癖を直さないとそのうち、あなたの食べ残しは犬どころか、ネズミだって毛嫌いして食べなくなるかもしれないわ」


「え?!」

 自分の無自覚への指摘と、母の独特の罵りに驚いて、少年は目を丸くした。

「ごめんなさい。お父様と、ここにはいないけど、お兄様にもすみませんっ」

少年はあわてて謝ると、しゅんと顔を下げる。


……この子は賢いし繊細だし、多くの書物も読んでいる。道徳や多くの思想も理解しているはずのに、思いやりの感覚だけいまいち足りない。

荀子じゅんしの性悪説のように生来の悪だとは思えないのだが、それは親の贔屓ひいき目なのかな。


少年を見ていると鏡を見ているような気分になってきて、少女は心の中で自嘲した。

そして、励まそうと声をかける。


「誰でも失敗するものだよ。次があるなら、また気を付ければいい。

それに事実や、自分の考えを述べるのは、まあ、良いことだ。そのついでに、言う相手と言葉選びと場所も、考えた方がよいというだけさ。

あと、お母様の言うことは大げさじゃない。一言が原因で処刑される事もあるんだ。

面倒だが、お互い気を付けて生きていこう」


「はい、お父様。わかりました。ありがとうございますっ」

尊敬する父に気にかけてもらい、少年は元気よく頷いた。


 ちなみに彼も、宛城の激戦の中にいたのだ。

まだ幼さが残る曹丕だが、すでに馬術と騎射(馬上から矢を放つこと)を習得しており、敵の城内にあった本陣からみごとに逃げ切っている。


 彼と同じような立場であった、曹安民そうあんみんという曹操そうそうの兄弟の子供は、残念ながら戦死していた。あの夜は、曹操と曹昂さえも紙一重だったのだ。


 ……曹丕だけが無事だった、という状況もありえたかもしれない。


 ……その場合、今の兗州えんしゅうは外敵だけでなく、みかどの親族という内の脅威も大きく、幼い丕では対処できるはずはない。

早かれ遅かれ袁紹えんしょうの助けを受け、曹家は取り込まれてしまうだろう。

そして袁紹のために戦い、利用価値がなくなれば処分される。……ま、それは、今の私も、同じような立場だけど。

家族だってどんな扱いを受けるか、想像する前からゾッとする。


 ……この身が永遠だったとしても、この仕事は永遠に続けられないのだ。

早く、私の後継者を育てなければ……。


 紆余曲折うよきょくせつしつつ話し合いは続き、少女の仕事の合間を縫って数日にも及んだ。


 しかし正妻の心は変わらなかった。

ただ一度、彼女から妥協案が出た。それは「戦いをやめる」という案だった。


「あなたが戦いをやめて隠居の道を選んでくれれば、曹家の皆も昂も静かに暮らせるでしょう。そうなれば、私もここに残ります」


「それはできない」と、少女は即答した。

 そして、その答えをわかっていて彼女は提案したのだろう、と思った。

意地悪からではなく、それは心根の優しい丁氏らしい、そして平穏を望む人間として当然の願い事だと思った。


「なぜ、戦いをやめないのです?戦い続ければ、傷つく人が増え続けるのに」

その母の問いに、娘の清河せいかは神妙な顔でひそかに頷いた。


 ふと、憂鬱そうに少女は姿勢を崩すと、ため息交じりの声を発した。


「……近々、大勢が知るところとなるから言うのだが。

袁術えんじゅつ殿が、皇帝を自称したのだ」


 皆、息を呑んだ。


「帝位を僭称せんしょうしたからには、袁術は迅速に天下統一を目指すだろう。

彼の実の兄であり、最大の敵でもある袁紹と戦うために、遅かれ早かれ、ここ兗州にも攻めてくるはずだ。

ここは、袁紹のいる冀州きしゅうの盾であり、通り道だからね。


敵を追い払うために、誰かが戦わなければこの土地に住む人々や漢王室、君たちの平穏も保てない。だから私は戦うしか選択肢はないのさ」


 皆、黙り込んだ。


 少女も丁氏に提案した。

曹昂と曹丕の仲が良いなら、二人の交流は続けさせてほしい、と願ったのだ。


 優しい兄から丕が良い影響を受けてほしいという期待と、か細くとも、丁氏と関わりを持っておきたいという、自分の胸の内も交じっていた。


……お父さまは拒絶されていると、片想いしてる乙女のような、ひそやかなしつこさになるのね……。


そう察した勘のいい清河とは裏腹に、丁氏は単純に曹昂の話し相手が増えるのは良いと思い、その提案を承諾をした。


 そして数日後、曹昂を連れて、正妻の丁氏は家を出て行った。


「あらまあ!曹操さまでも、女性一人、自分の意のままにできないとは驚き」

と、白くふっくらした餅にも見える肉塊が、短い手で器用に筆を動かし、覚書の布に書いて見せてきたので、頬杖をついた少女はふうっと一つ、深いため息を零した。


つづく

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