第163話 許都・曹操の娘
――恐ろしい話を聞いてしまった。
一人、娘は雪の降る庭を駆けている。
裾が泥で汚れるのも気にせず、進路を塞ぐ男たちも押しのけて「入ってはいけない」と云いつけられた書館にたどり着くと、躊躇なく門扉を激しく叩いた。
「
荒い呼吸を綿花のように咲かせて、必死に叫び続ける。
しかし扉は開かず、いくら叩いても体当たりをしてもびくともしない。
身体が氷のように冷えて震えた。両手は痛み、喉は乾燥し言葉よりも咳が出る。
我慢していた涙がこぼれかけた時、ガタンと覗き穴が開いた。
「お父様っ!?」
ではなく、目の前にいたのは、大きな虎だった。
驚いた娘は悲鳴を上げてよろけたが、虎の腕が伸びて優しく抱き留める。
「
「まさか、本当に
よく助けてくれたね、ありがとう。顔や頭に怪我をしなくてよかった」
虎痴と呼ばれた男は笑顔で「はい」と返答し、まだ呆然としている娘を軽々と抱えると、書館の客間へ運んだ。
「虎痴さんの本当のお名前は、
熱めの白湯を飲み、娘は落ち着きを取り戻していた。
客間は簡素だった。机と火鉢、冬用の
「とても驚いてしまって、許褚さんには失礼しました」
「ふふ、気になるなら一緒に謝ってあげるよ。……これからは彼が、私の護衛長さ」
以前は
「……ところで、今日はどうしたのかな。こんな所に来るとは、とても驚いたよ」
おもむろに尋ねられ、娘は悪夢を思い出したように顔をしかめた。
「それなのですが……」
さらりと長い髪が流れ、目元に暗い影を作る。
「お母様が、家を出るとおっしゃったのです」
そして娘はこらえきれずに泣き出した。
「一緒に出ないかと誘われたけど、私、どうしたらいいのか、わからなくて。
お父様、私、お母様がいなくなるのは嫌です。どうかお母様を止めてくださいっ」
「なんだって!」と、少女は叫んだ。
「どど、どのお母様かね?まさか、全員じゃないだろうねっ?!」
ひどく狼狽する父をにらみ、娘は鼻声で答えた。
「私の、お義母様だけですっ」
――清河が云う、お母様(お義母様)とは、正妻の
残された三人の幼子、
「他のお母様たちなら……そりゃさみしいけど、こんなに大騒ぎはしないわっ」
「そ、そうなのか。そりゃあ、すまなかったね」
むっとしている娘にとにかく謝ったあと、少女の表情は動揺から苦悶に変わった。
「せ、正妻が出ていこうとしているとはっ。
思えばここ数年、戦争や管轄地の経営に気を取られ、家族を気遣えていなかった。
たしかにこんな無神経は、フラれても仕方がないかもしれん……」
「フラれても仕方ないって……。じゃあ、お母様を引きとめてくれないの?!
お父様ならいくらでも方法があ……」
娘の言葉の途中で、少女はわざと割り込んだ。
「清河、お母様は人形ではないよ。私はあの人の意思と自由を奪うつもりはない」
「……っ、ご、ごめんなさい」
短慮な自分への失望と、これで願いは叶わないと絶望し、娘はより一層泣いた。
「まあまあ、
私は、フラれたかもしれん、と弱音を吐いただけだ。
お母様をあきらめた、と言ったわけではないよ」
娘は泣きながらも敏感に、少女から漂うきな臭さを察知し、注意深く聞いた。
「完全にフラれたなら潔く……?身を引くが、まだそこはまだわからん、たぶん。
え?そうじゃろ?家を出ていくといっただけで、私が嫌いかどうかわからんよね?
とにかく、私は別れたくないのじゃ……」
まるで、恋がこじれて頭がアレになった女友達の泣き言を聞いているような錯覚に陥り、つい「うん、うん」と慰めの相槌を打ちそうになったが、じっさいは四十路男性であると思い出し、娘はすんと冷えた鼻をすすり、無言で放置した。
……まあ、いろいろ置いといて。お父様は戦場では蛇のように執念深く、しつこくて気持ち悪い時があると聞くわ。この気質が発揮されれば、さすがのお母様も根負けしてしまうかもしれない。
お母様には申し訳ないけど、やっぱ、お父様に相談してよかったわ。
娘が何も言わないので、少女は独り言のように不安対策をつぶやき始めた。
「まずはお母様から話を聞いて、家を出たいという理由を教えてもらわねば。
情けない話だけど、それがわからなければ、謝ることもできないからね。
……ただ、むこうが話をしてくれるかどうか、わからないけど」
「ありがとう、お父様っ」
やっと明確な希望を見出した娘は、ひかえめにだが、輝く笑顔を見せた。
「お母様とよくお話して、そしてまた仲良くなってくださいね。
私、ずっとお父様とお母様と一緒に暮らしたいの……!」
その素朴な願いは少女の心に深く突き刺さり、胸を詰まらせ、瞳を伏せさせた。
「夫婦喧嘩は、本当に良くない。きみたちを悩ませるのが、何よりも悲しい」
すると娘も苦しみを吐き出すように、そしてほんの少し、なじるように
「お父様、なぜ夫婦なのに喧嘩したり、別れたりするのでしょうか?
結婚とは、仲良く助け合って生きていくという約束のはずしょう。
約束を守り続ければ、家族はずっと幸せに暮らせるのに……」
「その答えは、いずれ君自身が見つけるかもしれないね」
誤魔化すつもりでもなく、意地悪をするわけもなく、本心でそう答えた。
「これは何千年も大昔から、偉人や英雄でさえ、私たちと同様に悩んできた問題さ。
もしかすると何千年も未来の人も、おなじように悩んでいるかもしれないね。
規模は違うけど、なぜ戦争はなくならないのかという、私たちの人間の本質を考える問題と同じかもしれないと思う時さえある。
ただね。開き直りかもしれないけど、けんか程度で済むならまだカワイイものだと、私は思っているんだ。
世の中には、夫婦で殺し合いが発生する場合もあるんだからね」
「えっ、そんな怖い話、本当にあるのかしら?」
――この物語ではどうなるかわからないが、歴史上の清河長公主(
彼女は旦那の兄弟と共謀し、旦那を処刑寸前まで追い込むが、横やりが入って殺し損ねている。
「歴史を調べずとも、たくさんあるよ。まあ、その話はまただ。
さっそくだけど、お母様に会いに行こう」
善は急げと二人は立ち上がり、少女は戸を開けようとした。
すると、ホフホフと奇妙な足音がしたので、娘は思わず父の細い腕にすがった。
「きゃっ、ヘンな足音っ。一体、何かしら?幼児?いえ、もっと小さかったわ」
「ねずみ捕りの猫だよ」
「まさか。猫なら四つ足の音だし、聞き慣れています。
さっきのは二足歩行で、餅つきしてるみたいな、ふっくらしっとりした音でしたっ」
「ふふっ」と少女はつい笑ったが、困ったように眉を八の字にした。
……誤魔化しきれんのだが。
「わかったよ。では、この書館には、猫でもない人間でもない、謎の生物が住み着いているのかもしれないね。でもこれは、秘密にしておくれ」
「は、はいっ、わかりましたっ。この世には、不思議な生き物や事象がまだまだあるはずですからね。
それにしても、物の怪が好きな
その様子を想像して、少女は思わず吹き出した。
そして戸を開けたが、もちろん、もう何も居なかった。
つづく
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