第162話 宛城・撤退戦

僅かな沈黙の後、少女は曹仁そうじんの提案に頷いた。

「そうだね。ではお言葉に甘えさせていただくよ。私がこの危機を招いたというのに、逃げてばかりで申し訳ない……」


そして口を閉じたとたん視界が真っ白に弾け、反射的に両足に力を込めた。

軽い眩暈が去ると急激に背中の傷が熱くなり、鼓動にあわせて身体中に激痛が走る。


……戦線離脱すると決めたから神経が平常に戻りかけているのか。まだ麻痺を解くのは早いぞ。家に帰るまでが戦場だ……。


そう自分に言い聞かせ、曹仁の手を取り立たせると、気を紛らせるように質問した。

「ところで子孝しこう殿、作戦はあるのですか?なければ献策いたしますが」

「伏兵を考えております」

「そ、曹仁殿っ?」

于禁うきんがあわてて挙手した。


「この一帯は荒野です。二百名もの兵をどこに伏すのですか?」


「ふふっ、文則ぶんそく殿。隠し場所、いや隠し方はいろいろあるものですよ。

たとえば、葉を隠すなら森の中に、と云うでしょう」


まだ怪訝な目をする于禁に、曹仁は続ける。


「幸い、今は深夜で視界も悪い。そしてあなた達が作ってくれた塹壕のおかげで、敵兵の死体がたくさんあります。

ならばここで、兵を隠すならば――」

于禁も閃き、ハッとした。



大群の張繍ちょうしゅう軍が、凍る地面を踏み砕いて行進している。

斥候の報告によると曹操軍で最も凶暴な青州兵せいしゅうへいは逃げ去ったという。


曹操は、残っている。陣内を見回る姿が確認済みである。責任者として撤退戦を指揮するのだろう。


大将は、勝利の予感に震えた。


……青州兵がいなくなるとは、今日のワシはツイとる。

ふむ、楽しみだ。あの曹操を生け捕りにして、早々に妾にするのも良かろう……。


煌々とした月夜に墨の影を滲ませ、地面に散らばる幾多の死体が見えてきた。

先に進撃した仲間と曹操軍の屍である。どうやら、敵兵の方が圧倒的に多いようだ。


死体は、人間でも動物でも踏まないように心がけるべき存在である。

礼儀もあるが、吹き出す血や臓物で足場が悪くなり負傷に繋がる場合がある。

さらに時間が経った遺体に接触すると、破傷風等の感染症に罹る危険もある。


慎重に死体の森を越えている最中だった。絶叫が響き、皆は振り返った。

見ればすでに、軍隊の中心部が血煙で霞んでいる。


「あんな場所に奇襲などありえんっ。はっ!まさか、敵は妖術使いかッ?」

動揺する大将に副将が答えた。

「いやいや、死体に扮して潜んでいたのでしょうよ。つまらん小細工です。さあ、皆を落ち着かせないと……」


「報告いたしますっ!」

割り込んできた斥候に、大将は理不尽な怒りの目を向けた。

「大事な話をしておるのに、なんだっ」

「曹操が逃げ出しましたっ」

「なっなんだとっ!」身を乗り出し、落馬寸前の姿勢で大将は喚いた。

「そこに今すぐ案内しろっ。曹操を逃がすなっ全軍、全速前進だっ!」


だがこの命令が伝わることはなかった。

伝達兵は真っ先に討たれ、迅速な情報遮断が行われていたからである。

よって混乱は広がるばかりで、まだ初動だというのに逃亡兵が出始めていた。軍崩壊の兆しである。

しかしこの不穏を、現場から離れた大将は止めるどころか知る事もなかった。


「いたぞ曹操だ!生け捕りにせよっ」

なぜ、敵の最高指揮官が一人で逃げているのか?


そんな疑問が浮かぶ余裕もなく、目の前の獲物を大将と騎馬隊は必死に追っている。

幕舎が残されたままの陣営内では小回りが利かないと下馬し、まるで少年時代に戻ったように夢中で小鬼に手を伸ばした。


「おーいっ!こっちの幕舎に食料が残っているぞ!」

「こっちには良い武器があるぞ!早い者勝ちだっ」


どこからともなく、まるで市場の呼び込みのような威勢のいい声が響いてきた。

兵士たちは誘われるままに次々と夜の鬼ごっこから離脱して幕の中へ消えていき、そして二度と、仲間の元へ戻らなかった。


「おい。お前、大将か?」

突然、小鬼は走りながら横顔で尋ねた。

その冷たく鋭い視線に、大将の心臓はきゅんと高鳴った。

……これは絶世の美少女。妾ではなく妻にしてやってもよい……。


「ゼエゼエそうだ。だから大人しくワシに捕まればハアハア、可愛がってやってもいいぞフウフウ」


小鬼は足を止めると、袖無し外套をひるがえして振り返った。

その周囲を、疲労で喘ぐ兵士たちが幾重にも取り囲む。


敵の籠に囚われた小柄な最高指揮官は外套の影の下、両手を後ろに組んでいる。

いじらしく胸を張り、こちらを熱く見つめてくる姿は、凛々しくも可愛らしい。

……グウ、もう我慢できん。

獣のように大将は小鬼に近づくと、その上着を一気にずり落とした。


月光に輝く白肌に、ふっくら隆々とした乳板が露わになる。

腹は六つに割れて険しく仕上がり、これぞ見事な筋肉山脈である、と大将は達観した賢者の如き吐息を「ふう」と漏らした。


……って、オイ、なんか違うぞ。この美少女もしかして、ワシと同じモノがツイ――

美少年は、後ろ手に持っていた双剣を一閃した。

そして落ちてきた首をさっと拾うと、腰に括りつけて笑った。

「エヘヘッこれで曹操様から褒めてもらえるかなっ?」

そして呆然と立ち尽くす敵兵を屠って囲みを抜けると、少年は舞陰ぶいんへ向かって駆け出した。



「なんと、曹操の影武者が大将を倒したのかっ。あの青州兵、途中で勝手に帰ると思っていたが見直したぞっ」


味方だけでなく敵にも聞かせようと大音声で響いた報告に、張繍軍の中心で戦い続けた曹仁も叫んで答えた。そのそばで、雑兵たちをげきでなぎ倒しつつ副将が苦笑した。


「今回の敵大将は自分の軍隊や物資より、曹操殿が最も魅力的だったようですな」


「ふっ、見知らぬ将の性質が察せられるのは戦場の醍醐味のひとつだ。

では我らも、もう帰ろう」


曹仁が携帯用の鉦を打ち鳴らすと、周囲で戦っていた彼の兵士たちは退いた。その背中を「卑怯者めっ」と熱心に追う者もいれば、何かを敏感に察して、今更ながら逃げる兵もいる。


やがてしつこい兵士たちが見たものは、地面から起き上がる死体の群れだった。

さらにその奥には、長柄武器を持つ敵兵がずらりと整列して待ち構えている。


あわてて後ろを振り向けば、低空に流れる銀河のように白刃が揺らめいていた。

囲まれた、と呆然としていると、敵陣跡に潜んでいた曹操軍に追いやられた仲間たちがうの体で逃げ込んできて、思いがけず合流していく。


集まった張繍の兵は心を強くし「最期ならば」と、決死の覚悟で得物を握った。

すると頃合いよく「こちらがまだ空いてるぞ!生き延びられる!」と大声が響いた。

そのとたん、重い決死の覚悟など投げ捨てて、兵士たちは生きるために逃げだした。


「あっこれは……。包囲殲滅ができたかもしれないのに勿体なくありませんか?」


曹操軍陣営跡より前線を上げた処にて、戦況を眺める于禁うきん軍の副将はつぶやいた。

「おや、意外に欲張りだね。いや、これでいいのだよ」

馬上の于禁が彼に答える。


「もし四方を囲めば、張繍の兵は覚悟を決めて、死に物狂いで対抗してきただろう。

私たちは今、武器も兵士も少ないのにそんな狂戦士と戦うのはあまりに危険だ。

それに張繍軍の援軍がいつ来るかわからない。私たちには時間もないのだよ。


無駄に戦火を広げたり、長引かせる者は、下手くそさ。

戦いの被害が皆無、あるいは軽微であるのが、指揮官、兵法家として最上なのだ。


曹仁殿は、殺戮の際は徹底的で非情だが、状況によってはこのように、最低限の力で効率よく戦える人なのだね。しかも、自ら危険な役割を担う、勇気ある人だ。


曹操殿が、戦場で彼に重要地を任せる理由がよくわかったよ。

私も、良い仕事ができるようになりたいものだ」


「な、なるほどです……」と副将も感服し、退いていく敵を見ながら頷いた。


そして、曹仁、于禁の両軍は、無事に舞陰へと戻ったのであるが、その安堵の時を狙い、張繍本人が精鋭騎馬隊を連れて襲ってきた。

すると曹仁は味方を激励して奮戦し、この精鋭騎馬隊も見事に撃ち破った。

この一晩、曹操は彼らに感心しきりで過ごしたのであった。


こうして敗戦の夜は明け、敗残兵たちはやっと、本拠地であり、それぞれの家族が待つ許都きょとへと帰還した。


……しばらくは、戦いから離れたい……。


その少女の願いも虚しく、許都でも熾烈な争いが待っている事をまだ知らない。

それは家庭内での話し合い、家族会議という名の戦いであった。


つづく

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