第159話 宛城・鄒氏の活躍
彼女の腕は馬の背中に飛びつき、少女が抱えた
「あ、ありがとうっ
思わぬ怪力に驚きながら礼を言う。
夜間でよく見えないが、彼女の腕の切断面はすでに塞がっており、さらに小さな足まで生えているようだ。だから器用に動き回ったり踏ん張れたのだろう。
……そういえば、俊足だとも言っていたな。
意外と
曹昂が落馬しないように、彼の帯を鞍の前輪に固く結びつけた。
そして馬腹に襲歩の合図を送ったが、全速力は長く続かない。
この軍馬が劣っているわけではないのだ。
速度を緩めようとした時、背後から迫る地響きに気づいて振り返った。
月光に照らされて、鎧と凶器を銀黒交互に染めながら十数騎が近づいてくる。
彼らの矢の射程内に入るのも時間の問題だろう。
道は広く、林や藪は小さく、それが目的地まで続いているわけでもない。
……逃げ込む場所はないのだ。このまま無防備に死ぬまで走り続けるしかないっ。
冷や汗を拭った時、肩にしがみついている白い腕が視界に入った。
……いや、まてよ。私も彼女と同じ体質なら、背中に十万本の矢が刺さろうとも死ぬことはできないのだ。
つまり大怪我を負っても、意識さえあれば逃げきれるのか?
では今もっとも恐れる事態は、落馬などをして敵に捕まる事なのかもしれない。
「鄒氏っ」
少女は思わず白い腕に叫んだ。
「馬が死んだり、私が捕縛されないように、君も矢を防いでほしいっ。
私がいなくなれば、君はまた同類のいない元の生活に戻るんだぞっ」
突然の無茶振りと将来の危機を聞いて、白腕はぶるっと身震いした。
だがすぐに少女の髪を纏めていた紐を解き、何をするのかと驚くうちに、片方は自分に結び、もう片方は少女の帯に縛り付けた。
「おおっ見事な覚悟だっ。ここは二人で頑張ろうっ」
鄒氏を振り返れば、すでに矢を数本束ねて棍棒のよう掴んでおり、それを振り回しては飛んでくる脅威を器用に払い落していた。
まるで害虫でも撃退しているようにも見え、そんな場合ではないのだが、つい在りし日の彼女の日常を想像する。
とはいえ、鄒氏も馬も体力が無尽蔵にあるわけではない。
馬は急激に速度を落とし始めた。負傷したのかもしれない。
そして少女自身、背中に矢が数本、刺さっているのを感じていた。
今は集中しているせいか、痛みは強烈だが気力は萎えない。
矢傷がそれ以上増えなかったのは、相手が射尽くしたからだろう。
……鄒氏はどうなったのだ……?
振り返っても、その姿は見えなかった。
左背後から戟を振るう。
右真横から長剣が突き出す。
少女は剣を抜くと戟の柄を跳ね上げるように一刀両断した。
だが右側が対応しきれない。
……ひっ。
強引にのけ反ると、長剣の軌道から逃れられたが背中に激痛が走り、思わず動きが止まった。
……まずいっ。隙だらけだっ。
再び刃が迫った瞬間、どこからか巨大な毛虫が飛び出すと、長剣の兵士の顔に体当たりをした。
兵士は悲鳴を上げ、馬から転がり落ちて暗い地面に消えた。
戟の兵士は、少女の剣の鋭さと怪物に肝を冷やしたのか、引きさがっていく。
「鄒氏、無事かっ?!」
急いで彼女と繋がる紐を手繰りよせると、さきほどの巨大な毛虫がぶらりと現れた。
毛虫のように見えるのは、白腕にびっしりと矢を受けているからである。
体力が切れたあと、自分の身を盾にして馬と少女を守っていたのだろう。
「なんと悲惨な姿に。すまない、君はよく頑張ってくれた」
鄒氏を丁寧に自分の傍に置いていると、そのざわつきで曹昂が目を覚ました。
「ハッ、父上っ、私は一体……」
少女を見上げようとしたが、まず、血塗れの女の指先が目に入った。
「わっお父様!あなたは、おわかりにならないのですかっ?!
あなたに、顏は女の指、胴体は毛虫という奇怪な鬼が、憑いておりますよっ!
きっと訳がわからず死んだ兵士の魂が、訳のわからない姿に変化したのです。
戦場には、敵だけでなく鬼も出る……なんと、おそろしい場所なんだ……」
そう慄きながら、また気を失った。
その間にも、背後の敵は集団で迫りつつあった。
走る馬はすでに疲れきっており、これ以上無理をさせると突然死する恐れもある。
……このままでは、囲まれる。
ではせめて、馬を軽くしてやるために自分が降りて時間稼ぎをすれば、曹昂たちを少しでも目的地へと近づけられるかと、そんな無謀を実行しようとした時であった。
新たな数騎が、目の前の林の陰から飛び出してきた。
不意打ちに驚きながらも、反射的に少女は剣を抜く。
衝突の寸前、正面の騎兵と目が合った。そのとたん、彼らは左右に分かれて走り抜け、少女の背後に迫っていた集団へ襲い掛かっていく。
「そ、
荒い呼吸となって緊張が解けだし、やがてそれは安堵の吐息と変わった。
手綱を緩めると、馬も限界を越えていたらしく倒れ込んだ。
投げ出された曹昂と鄒氏の無事を確認したあと、馬に自分の水筒の水を全て飲ませて労った。
そして自分の背中に刺さった矢を抜こうとしたが「いや、その前に」と、鄒氏の腕の矢を素早く取り除き血塗れの肉塊となった彼女を、上着の端を切り取りそれに包んで隠し持った。
「よくぞご無事でしたなっ」
曹仁だけが討伐から戻ってきた。鎧に浴びた大量の返り熱い血から湯気を漂わせつつ、少女に声をかける。
「間者と伝令が大慌てで、幾度もあなたの危機を報告に来ましたよ。
ひどく心配しましたが、無事に生還するとは、さすが悪運、いえ、武運がお強い」
「君たちが来てくれたから、私達は生還できたのだ」
少女は礼儀正しく拱手し、彼に笑顔で一礼した。
「心から感謝する。ありがとう、子孝殿」
……中身がおじさんだとわかっていても、つい可愛らしいと思ってしまうのは悔しいものだ。
そう思うのと同時に、暗がりの中で、少女の背中に刺さっている矢の多さに気づき、曹仁は急いで下馬して近づいた。
「あなた、酷い怪我ではありませんかっ。よく平然としていましたね。早く医者に診せなければっ」
少女は頷きかけたが、途中で彼を見上げて問うた。
「何本、刺さっている?背中全体がひどく痛くて自分ではよくわからないのじゃ」
「五本です……。軍服のままこんなに刺さると、普通は……」
怪訝な声色に変わっていく言葉を止めるように、少女は彼の腕を強く掴んだ。
「気力でなんとかなっているだけじゃ。
しかし、これは医者に診せたくない。これは、君が治療して縫ってほしい。
そして、これは、誰にも言わないでほしい。君と私の秘密にしておいてくれ」
曹仁は一瞬目を細めたがすぐに平常に戻り、さらにやや微笑みながら頷いた。
「わかりました。これは、誰にも言いません。安心なさってください」
そして自分の袖なし外套を少女に羽織らせると、その背中を隠してやった。
つづく
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