第158話 宛城・失敗の代償
「馬といえば、
あわただしく敵の軍服に更衣する
「おお、ありがとうっ。絶影は
ここでもまた、会えるといいのだが……」
敵兵に扮した二人はそこへ向かうため、東の城門へと走った。
途中、地面に伏して動かない、無防備な姿の味方兵士たちと幾度もすれ違う。
その無念の表情は、烙印のように強く心に焼き付いた。
東門は自軍が殺到したらしく、脱出には十分なほど崩されていた。
まだ火矢が燻る中、瓦礫を乗り越えて進んでいく。
荷車に乗せた簡易な
そしてぎょっとする。
城門のわきに、敵兵たちが
見張りのようだが、しかし彼らはその役を忘れて、なにやら仲間内で騒いでいる。
どうやら、馬が云う事を聞かないらしい……。
顔を伏せ、足早に通り過ぎようとした時だった。
鼓膜だけでなく全身を揺らすような鋭い
「ぜ、絶影っ」
……まさか私達が東に向かうと思い、ここにいたのか?
それとも偶然か。わからないが、ともかくすでに馬は兵士たちを弾き飛ばし、まっしぐらにこちらへ駆けてきた。
もはや目立つとか誤魔化すとか、そんな場合ではない。
二人は絶影に飛びつくと、鬱蒼とした夜の森へと駆け込んだ。
矢と怒号に追われたが、駿馬は夜目を輝かせて器用に木々の間をすり抜けていく。
乱立する大樹の幹は盾となり障害物となり、やがて逃げ切った。
汗が滲む馬の首を、少女は感謝と再会の喜びを伝えながら袖で優しく拭いた。
絶影も横顔を見せ、何度も頷きを返してくれた。
突然、視界が開き、二人と一頭は目を細めた。
川面に映る月夜の乱反射が眩しかったのだ。
遮二無二に駆けた末、城の北に流れる河、
そしてここにも、陰惨な光景が広がっていた。
城内に入りきらなかった自軍の宿営地に、反乱の一報は届かなかったのである……。
夜の川音はひそひそと、大勢が囁く声に似ていると、ふと気づく。
人の言葉ではない
道中、迷い馬を見つけて曹昂が乗り、再び舞陰へと急いだ。
何度か敵部隊に声をかけられたが「急使だ」と誤魔化して凌いだ。
やがて、城から離れるにつれ敵兵の数は薄くなり、そのうち消えた。
そして気兼ねなく馬を飛ばして駆けていた。その最中に、それは起こった。
悲鳴もなく、絶影は倒れた。
同時に少女も落馬したが、同じく悲鳴は上げなかった。
柔軟な身体は転がるように受け身を取って、飛び起きる。
そして抜刀した瞬間、違和感に気づいた。
右腕、肘のそばに、矢が突き刺さっている。
しかし昂奮のせいか、ほとんど痛みは感じなかった。
……弓矢でよかった。弩弓だったら、この細腕の骨など砕けていただろう。
一斉射撃で、私に命中したのは右腕だけ。敵は少ない。伍(五人部隊)なのか。
そして右側のみ、五十歩ほどの距離……。
瞬時に推測すると、少女は第二射を避けるために大きく曲線を描いて走り出した。
予想通り、道脇の枯れた茂みが大きく弾き、鋭い風切り音が耳をかすめる。
敵は、まさか落馬した相手がこんなに早く行動するとは思っていなかったのだろう。
第二射を撃ったせいで、自らの居場所を明確に教える事になってしまった。
駆ければ五十歩など、あっと言う間である。
兵士たちはあわてて弓を捨て応戦し、さらに仲間を呼ぶ
……待ち伏せといい、いざという時の対処といい、良い部隊だ。
素直に感心しつつ、曹昂と共に兵士を打倒した。
……すぐに敵兵が集まってくるだろう……。
少女は踵を返すと、倒れた愛馬の元へ戻った。
絶影は起き上がろうともがいていたが、できなかった。
頬と足に、深々と矢が刺さっている。運悪く射手は剛力だったのだ。
そして致命的なのは、転倒した時に前脚を折っている事である。
少女は零れ落ちる泪を止められなかった。
時と場合が違ったら、治療して救えたかもしれない。
しかし今は曹昂と自分しかおらず、もうすぐ敵がやってくる……。
愛馬の瞳を塞ぐように、顔面を抱えて膝に乗せた。
「ありがとう、絶影。すまない……」
嗚咽の震えを止めて剣を抜くと、つい先ほどは愛しく撫でていた首筋に当てる。
そして夜よりも昏い染みが地面に広がり、絶影は完全に動かなくなった。
「ち、父上……」
蒼ざめる少女に、幽鬼のように真っ白な顔色をした息子が声をかけた。
自分が乗っていた馬を曳いている。
「父上に、この馬を譲ります。
二人乗りでは、とても敵からは逃げ切れないでしょう。
私はここに残りますから、どうか、お一人で逃げて下さい。
息子が父のために命を投げ出すのは当然です」
茫然としてから、一瞬、怒りで血が沸いた。
……息子が父の為に犠牲になるのは当然だと。また、儒教か……。
「二人で逃げ切れるかどうか、やってみないとわからない。
こうしているのも時間の無駄だ。早く乗りたまえ」
「いやです。そんな事をして、万が一私だけが生き残ったらどうなりますか。
私はあなたの代わりには……」
「君は誰かの代わりにならなくていいし、なれないさ」
相手を遮るように、少女は言葉を重ねた。
「それに、息子だとかそういう役割よりも、自分自身を大事にするべきだ」
「はい……」
頷きながらも、迷いある返事だった。
「そのお言葉はごもっともですし、ありがたく思います。
ですが、それでも私は怖いのです。
あなたがいなくなれば、確実に多く人々が路頭に迷い、死ぬでしょう。
そしてもっと正直に言えば、醜い保身ではありますが、万が一、私だけが生き残れば、私は一生、いいえ、歴史書に記されたなら、未来永劫、私は父を殺した親不孝者だと言われ続けるのです……」
まだ若く、希望に満ちるはずだった瞳からは絶望の涙が零れ、夜の闇に落ちていく。
「それならば、いっそここで——」
曹昂は剣を抜くと、切っ先を自分の首に向けた。
咄嗟に少女は飛びついたが、腕力では負けて剣は奪えず、勢いあまって倒れ込んだ。
曹昂は手を差し伸べかけたが、しかし思い出したように、再び自分に刃を向けた。
「だめ——」間に合わないっ。
手を伸ばした瞬間、襟元から何かが飛び出した。
それは、ぬめっとした白い女の腕だった。
まさしく腕一本で、前腕から指先だけしかない。
腕は爪を立ててカサカサと曹昂の軍服を昇り、最後は首に取り付いた。
「ひっ」と、悲鳴か喉を圧されて出た声か、とにかく一言残して曹昂は倒れた。
「う、うちの息子になにをするんじゃっ」
少女は曹昂の首に取り付いた白い腕を掴んで、放り投げた。
だが腕は負けじとすぐに戻ってくると、倒れた青年の服を引っぱり、馬のそばに寄せようとする。
「もしや、昂を助けようとしているのかっ」
つづく
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