第156話 宛城・張繍、怒りの反乱

「こんな時間になんの用、うぐっ」

少女は言い終わる前に口を抑え、扉近くの川の前に伏せた。

よく見ると薄暗い部屋の奥ですう氏も突っ伏し、苦悶するように喘いでいる。

異様な二人に戸惑い、使者は震えを抑えながら話し始めた。


「わ、わが主人、張繍ちょうしゅうが、曹操様への完全降伏の証として、この城から兵士を大道へ移動させたいと申しております。


ですが荷車が少なく、兵士は鎧をつけたまま、曹操様の陣中を通る事になるのです。

それでもよろしければ許可をいただきたいのですが、いかがでしょうか?」


「そ、そんな事かね。わかった、許可する。それと、ううっ」

小さな背中を揺らしながら、鄒氏を連れ出す許しがほしい、と伝言を託した。


……許しと言うが、降伏した張繡様が拒否できるわけがない。これは、彼女をかどわかすという断言も同じ……。

滲み出る強引に慄き、使者は怪しい部屋から逃げるように主人の元へ駆けた。



「なんという下劣じゃっ!」

報告と伝言を聞いた張繍は、ついに怒りを爆発させた。


「私は、ご傷心の鄒様にやっと挨拶して、心の距離から縮めていたのだぞっ。

それなのに、奴は一晩で彼女の全てを奪うと言うのかっ」


「まったくやらしい二人でございました。獣のように四つん這いになり、あの者たちには淫靡らしい、二日酔いの朝にも似た謎の行為をしておりました。

激しく嗚咽する姿、目に焼き付いて離れませぬ……」


「ゆっ、許せんっ。私は、覚悟を決めたっ」

そして、部屋の隅で亡霊のように佇む人物を正面から見据えた。

賈詡かく殿っ。私は曹操を討伐しますっ」


「ご英断です」

賈詡と呼ばれた人物は、貼り付けたような独特の笑顔で応えた。


「支度はできております。

あなたは軍才はあるが、曹操に正面から挑んでは敵いません。

ですが今ならば、きっと勝てます。


そして誇りも女も、奪い返せばいいのです。

さらに曹操が保護した帝もお助けし、地図も塗り替えればいいのです。


自信を持って戦うべきです。

あなたは、董卓とうたく様の敵討ちに参加し、呂布りょふを長安から追い出した、漢王朝の真の忠臣のお一人なのです。

本来、帝を保護し奉るのは、あなたのような人こそ相応しいと私は思いますぞ」


その激励に張繍は頷き、そして、短い平穏は終わった。



脳天を貫くような打撃音が部屋中に響き、少女と鄒氏は同時に目を見開いた。

蛍の微光は狂ったように点滅し、逃げ場を探して激しく飛び交っている。

少女は寝具から降り、露わになった太ももを見て眉をひそめた。


……まずい、軍服じゃなかった。

素早く着崩れを直してから、剣を佩びる。

……以前、募兵の際に襲撃された時も、軍服を着ずに眠っていた。

どうも私は軍服姿で寝ないと、災いを呼ぶらしいな……。


「な、なにが起こってるの?!お前、約束通り、私を守るんでしょうね?」

鄒氏は少女の背中に飛びつき、必死の形相で問うた。


「うむ。共に逃げよう。だがわしゃ、吐き過ぎて体調が悪いのだ。

力及ばずだった時は、一人でうちまで来なさい」


「もうっ、男の人っていざとなると頼りなくなるんだからっ。

約束を守ってくれなかったらあなたの事、嘘つきちゃん、って呼ぶけどいいっ?」

……その、阿瞞あまん(うそつきちゃん)は、私の幼名で、聞き慣れてるんだよなあ。

というか自分もおっさんのくせに、男の悪口を適当に言うのおかしくないか……。


何度目かの轟音の後、ひと際大きな粉砕音と土煙が上がり、鉄扉は踏み倒された。

寝具の影に潜んでいた二人だったが、なだれ込んできた兵士たちを見て、少女は飛び上がるように喜んだ。

「おおっ、典韋てんい殿とこうっ。私はここじゃっ」

そして鄒氏の手を取り、走り寄る。


「良かったっ味方なのねっ。あら素敵な殿方たちですことっ。ポッ」

「そうじゃろ。片方は私の息子で、若い頃の私にそっくりなのじゃ」


「父上っ」

すでに白刃を手にした曹昂そうこうは少女の姿を見て安堵し、そしてすぐに隣の鄒氏に視線を向けると「失礼」と素っ気なく言う。


次の瞬間、がくんと、少女の身体はわずかに傾いた。

軽くなったような、重くなったような、予期せぬ感覚が襲ったのだ。

瞬時が、ゆっくりと流れて、目に映る出来事と認識がじわりと揃う。


曹昂が、少女が握る鄒氏の手を斬り終え、典韋が一尺もある大斧を振り下ろさんとしている。

「——」

鄒氏は声も無く倒れ、少し遅れて、その一部も床に転がった。


「なんてことをっ!」

まだ手を握ったまま、ぶらりと下がった腕を揺らして、少女は息子に詰め寄った。


「あれは、用心深い父上を油断させた、成敗されるべき妖婦でした」

曹昂は、日常で見せる怒った癖そのままに目を細め、冷たい声で話し始めた。


「あなたはあの女と戯れている最中に、我らの陣営内を、武装した張繍軍が通過する許可を与えたそうですね。


そのせいで、寝静まった無防備な我が軍のど真ん中で、張繍軍が攻撃を始めたのです。私も含めて皆、逃げるのが精一杯でした。


そして今は青州せいしゅう兵が、敵味方関係なく弱い兵を襲い、略奪し、混乱に拍車をかけている状態です。


これらすべての原因は、この妖婦ですっ」


「違う」

少女は息子を見上げながら即答した。

「原因は私だ。張繍を信用し油断し、彼から効果のある人質を取らなかったせいだ。

これからは気を付ける。

——私はもう二度と、同じ失敗はしない」


最後の断言に圧されて、曹昂は怒りと返す言葉を失ってしまった。

……この人の失敗とは、大勢の味方が死ぬ事なのだ。だから本当に言った通り、二度と失敗しないつもりなのだろう。

私はいつか、その重圧も含めて、この人の後を継げるのだろうか……?


「さあもう、逃げましょう」

典韋が、無言で見合う親子に声をかけた。

「張繍軍が来ますぞっ」

そう促したとたん、無防備な入口から新しい血の臭いと争乱の跫音きょうおんが漂ってくる。


「来いっ」

突然、少女は鋭く通る声で呼びかけたので、曹昂と典韋はハッとして顔を上げた。

そして、反応したのは彼らだけではなかった。


少女が握り続けていた鄒氏の手に、温もりと力が甦った、気がした。

……気のせいなのか?それとも、お前は本当に、来たのか?

その問いに応えるように、腕はするりと白蛇のごとく少女の手首を昇り、袖の中へと収まった。


つづく

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