第153話 鉅野・学習した呂布・さらば呂布
迫る闇夜の前触れに、鬱蒼とした樹木から小鳥たちは甲高く啼きながら逃げ去り、赤い空は黒く濁る。
その不吉な光景に、兵士たちも軍馬も思わず顔を上げて目を奪われた。
不気味は続く。
風が止んでも、森の一部分がぶるぶると動いているのだ。
体躯の大きな鴉や猛禽類までもが騒いで飛び立つので、余計に蠢き目立つ。
しかもそれは前進していた。……明らかに、その下にナニかいるのだ。
「
呂布がそう呟いたのを聞き、
「ええ、その通りですっ」興奮気味に答える。
「伏兵が森を移動するのは至難の業なのです。
臆病な鳥たちは侵入者に敏感に気づいて騒ぎ出し、その位置を教えてくれるのです」
陳宮は、曹操がまとめた兵法書の暗記をそのままを語った。
「うむ、危うく囲まれる所だった。曹操は悪だくみが多い。
ヤツは力押しだけでは倒せないと、私も理解したのだ。
今回は、君の意見を聞き、慎重に動こうと思っている」
その言葉に、陳宮は感激のあまり瞳を潤ませて拱手した。
……あの呂布殿がついに学んだ上、私を頼ってくれるとは!
「今こそ、二人で力を合わせて曹操軍を駆逐しましょうっ。
さっそく伏兵から遠ざかる為に、陣営を下げるのですっ」
二人はうなずき、薄気味悪い伏兵の森から駐屯地を離した。
「ここは森から南に十余理(当時の一里は約435m)です。
これだけ空間を開ければ、伏兵の計は封じたも同然。
さあ、もう夜も遅くなりました。何かあれば、間者か物見が報告に来ます。
それまでは明日の戦いの為にしっかり休むとしましょう」
翌朝、春蝉の低い鳴き声で目覚めた陳宮は、軍幕を出て愕然とした。
朝露が輝く草原の西側遠方に、曹操軍が陣を構えていたからである。
正面に対陣するのではなく、なぜか西なのか?
昇る太陽の輝きで目が眩み、午前中はずっと不利となる方角だ。
その上、奇妙なものまである。
曹操軍の背後に、遠目からでもわかるほど大きな堤が作られていたのだ。
堤の高さは、成人男性の背丈より二から三倍はある。
……なんだこれは?そしてなぜ誰も、何も報告しなかった?
怒りで血が頭に昇ったのも束の間、とある考えが浮かび、その血がすうっと引いた。
……きっと夜間に、物見と間者は、曹操軍の同じ連中に殺されてしまったのだ。
我々は一万の兵を連れているとはいえ、呂布直属の兵士以外、曹操の徐州侵攻のさいに残された、三軍落ちの兵士たち。自分もだが、本格的な戦場は初体験の者も多い。
そのような新人の物見たちが、仕事経験豊富で精鋭の偵察兵に敵うわけがなかった。
戦争の基本は情報の遮断と情報操作だが、私は寝てる間に情報戦に負けて……。
「あの大きな堤は、騎馬隊封じだな」
呂布の声に、沈んでいた陳宮は顔を上げた。
「まるで馬を防ぐための防波堤だ」
西を見つめたまま、英雄は横顔で語る。
「奴は、我ら騎馬隊の突撃を恐れているだろう。
だから以前は、雪に仕掛けを埋め、我が騎兵隊の邪魔をした。
今回は雪と違い、土を掘って罠を埋めれば、すぐにばれてしまう。
だからあのように異常に土を盛り、危機になればその背後へ避難し、騎馬隊を避けるつもりなのだろう。
見ろ。奴らの陣から朝餉の煙が上がっている。だらしない事この上ない。
奇襲するには、絶好の機会だ。
あの黒い兵士たちを逆に丘に押し付け、潰してやろう」
さっそく雑兵に騎兵隊の集合を命じたので、陳宮は慌てた。
「あれは、こちらの油断を誘う罠かもしれません。
何事も慎重が肝心です。まずは物見で様子を見ましょう」
呂布は彼に従い、物見を出して報告を待つことにした。
やがて隠れ場所がない草原から旅人に扮した物見が、半刻もかかり戻ってきた。
「堤の後ろには、それを作るために掘られた大穴しかありませんでした。
本陣や軍営は離れており、援軍を呼んだとしても時間がかかるでしょう」
それを聞くと、とっくに準備万端の呂布は騎兵隊を引き連れ、陳宮には歩兵を任せ、一万人の軍団は朝日を背にし、堂々と進軍した。
近づけば、堤がさらに際立つ。即席の荒々しい人工泥丘が延々と続いている。
一夜にして作り上げたのだから、土木工事の手際がいいのだろう。
……戦闘以外の技術を持っている軍隊など、いかにも小賢しい。
その凡てを破壊してやろうと、まずは矢をたらふく撃ち込み、そして斬り込む。
とたん、水が弾けたように曹操軍は崩壊した。
わあっと叫んで持ち場を離れ、子供に追われる山猫のように逃げ回る。
唖然としたが相手が混乱したなら、あとは簡単だ。
横に広がり兵士を斬りながら囲み奥の丘へと押していく。包囲殲滅である。
予想通り、丘陵にはその背後へ逃げようと兵士たちが群がり昇っている。
その姿は、人の手から必死に逃れようと壁を這いずり回る小虫のようで哀れである。
殺戮に酔い痴れていた。
弱い者を叩き、奪う。古代から変わらぬ、進化する事のない人間の性質。
皮膚が破れ五臓六腑が飛び散るように、戦場では淫らなほどそれが露わになる。
……私はいま、本質に触れている。だから私は、戦いが、戦争が——
光線のような強烈な視線を感じ、血塗れの呂布は振り返った。
いつの間にか、堤の上に黒馬に乗った黒衣の騎士たちが騒然と並び、全員が自分を見下ろしている。
それはまるで、死の国からやってきた、丘の上の死神たちのようだった。
痩せた頬の女の子が、黒鉄の剣を抜いて天を指し、禍々しく大きく口を開く。
喧噪の中、その言葉は聞こえぬはずなのに、呂布は聴いた。
「ば、け、も、の、め」
……いや、そんな号令があるわけがない。それに化物は、お互い様だろうっ。
怒涛の曹操軍の騎兵が泥丘を駆け下りてくる。
両軍が正面衝突した瞬間、衝撃で空気まで大きく揺れた。
一体、どこにこれほどの騎兵が隠れていたのか?物見は何もなかったと……。
いや違う、この大堤の裏側に、大穴があると言った。
しかも今は表に陽に当たり、裏は真っ黒な影ができ、見え辛かったはず。
馬にまで炭を塗り黒一色にして、座らせ、我らが近づくまで隠れていた、のか?
さっきまで逃げていた兵士たちも、今は皆と共に立ち向かってくる。
とくに
彼らは目の前で仲間が死のうが動揺はなく、その死体さえ道具のように使ってくる。
人間をモノ扱いする狂気に、呂布軍の初心者歩兵隊は戦慄した。
それが青州兵だとわかり、とたんに錯乱する兵もいる。
初めての戦場で、立ちすくみ、混乱し、逃げ出し、逆に味方の邪魔となり、満足に戦う事もなく、彼らは虚しく消えていった。
酔いは、完全に醒めてしまった。
呂布は勝手に戦線離脱し、本陣へ向かった。
曹操と決着がつくと思い、嫁と娘を連れてきてしまったのだ。
彼女たちはいま、何をしているのだろうか。
救い出さなければ、辱めを受けるかもしれない。
自軍の将である
「本陣へ行くのは、そこに曹操軍を案内するのも同じだ」と怒るのかと思ったら「昨日の森からも隠れていた兵士が湧き出し、こちらに向かっている」と、報告してくれた。
彼は小言も多いが、基本的に従順で、よく助けられている。
彼のような真面目で理性のある男が、なぜ子供のような自分に寄り添い続けてくれるのか、よくわからない。
嫁と娘を連れ出し、自分の騎馬隊と合流して赤兎馬で走り出す。
これからの事は、わからない。
北の森と西の泥丘から迫る曹操軍に押し出され、自然と南東へ流されていく。
「
険しい顔で陳宮が呟いたが、どうでもよかった。
女と酒と
つづく
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