第152話 兗州・曹操の美しき相談相手
薄闇にまぎれて少女は駆けている。
先の戦いで
「お待ちしておりました」
闇の中でもその声は清々しい。
歩み寄ると、男女共に敵わぬほどの美しい青年、
少女も礼を返し、二人は影の奥へ姿を隠す。
「早く来たつもりだったが、いつも君の方が待っているんだね。
今日は時間を作ってくれてありがとう。君にまた会えて嬉しいよ」
「私もあなたがお元気そうで安心しました。ところで、今日はどうしたのです?」
少女は一際声を潜める。
「
「ああ……。徐州牧であり、あなたの御父上の仇でもあった、
陶謙は、あなたが徐州で行った厳格な処罰に恐怖し、床に伏せ、そのまま還らぬ人となったとか。これで、あなたは復讐を遂げたも同然ではないでしょうか。
すべては、天子を自称した
「ふむ。私もこれで復讐という問題は消えたと思っている」
「ええ」……おや、復讐が成ったか否かを気にしているわけではなかったのか。
では一体、なんの話だろう。
「じつは、徐州に対して、一つ案を思いついたのだ」
体温と香りが音もなく近づき、囁いた。
「呂布は一旦放置し、先に徐州を攻めて平らげるのはどうかな?」
青年は、まるで熱い鉄に触れてしまったような瞬間的衝撃に息を呑んだ。
……こんな時に、そんな大博打を思いつくとは。私にはとてもできない発想だ。
しかしたしかに今なら、曹操軍は呂布に手一杯で侵攻する余裕はない、と油断しているだろう。
しかも、徐州はこの鉅野からすぐ斜め下にある。急襲するには二度とない好機だ。
補足するように少女は話を続けた。
「徐州はいま、劉備という謎の人物が牧を継ぎ、当然ながら混乱している。
軍部は彼の命令を聞くのかさえ怪しい、と間者から聞いた。
絶好の攻め時ではないかな。ぜひ、君の意見を聞かせてほしい」
もはや少女は獣の瞳を隠すことなく青年に問うた。
……呂布は自由な獣だが、この人もまた、獲物に敏感な猛獣なのだ。
だが二人が決定的に違うのは、いま、この瞬間なのだろう。
気が付けば夜は明け、眩い朝焼けを受けながら、青年は片膝をつき語り出した。
「その昔、漢王室の祖である
彼らは帰る場所があったから、たとえ敗北や困難にあっても立て直す事ができ、やがて天下を制圧できたのです。
この兗州という土地は、今は荒れていますが、黄河と
そして将軍はここで命を懸けて山賊や青州黄巾賊を討伐し、民衆を助け、彼らもあなたに懐いております。
やはり兗州は、将軍にとっての漢中、河内なのでしょう。
あなたはまっさきにこの土地を平定しなければなりません」
白い指先に乗る小さな爪は夜の名残の星の光を瞬かせ、少女は青年のしなやかな手に触れると、立ち上がらせた。
「ふむ、わかった。侵攻はやめよう。まずは、帰る場所を作れという事だな」
青年の助言に少女は快く頷き、暁に小鳥が歌う声で愛らしく答えた。
「ええ、その通りですとも」
青年は陽が昇る空に負けぬ麗しい声で、素直な相手を包み込んだ。
「今は兗州で、実った麦を収穫し貯蔵し節約し、呂布との戦いに備えるのです。
それに徐州は……たとえ徐州軍が機能せずとも、攻略は困難でしょう。
将軍は以前、陶謙だけでなく、徐州の民たちも厳しく罰しました。
ですから彼らは処された身内の恥辱を雪ぐべく、誰一人降伏する気はなく、徹底的に抗うはずです」
「たしかに。そしてたとえ強引に制圧しても、その後の治安を維持し続けるのは、侵攻以上に熾烈になるだろうな……」
二人はしばし黙った。だが、青年は突如、形良い唇を微かに「あ」の形に開くと、吐息だけを溢した。
「いま、私もひとつ案を思い付きました」
それは凡てを奪い去る力を持つ甘い囁きだった。
「一度の戦いで呂布を追い出し、そして同時に、徐州をいずれ乱す案を……」
「なんだってっ」
少女は驚きでのけぞったが、青年も前かがみになり、その細腰を抱えて支えた。
背徳的なほど剥き出しになった首元を通り抜け、小さな耳朶に唇が近づく。
「簡単な話です。
まずは東にいる陳宮を軽く攻めるのです。
そうすれば彼は呂布に助けを求め、二人はきっと一緒に攻めてくるでしょう。
そして呂布たちは討ち取らず、追いやってやるのです。
逃がす先はこの鉅野から、すぐ斜め下の……」
少女は察すると腹筋で上半身を起こし、逆に相手を力強く抱えた。
「呂布を、徐州へ送るという事かっ」……まさに一石二鳥。
二人は晴れやかな笑顔を浮かべると立ち上がり、手と手を取り合い向かい合った。
「ああ、単純明快、それが最高。それは無駄のない、研ぎ澄まされた証拠。
まさに非の打ち所がない完璧な君と、その作戦だ。
呂布にさよなら、それは、劉備殿への素敵な贈り物。
ああ文若、あなたとお話して相談できる幸せが、これからも続きますように」
ぽん、ぽん、ぽんと、目覚めた蓮が咲く音も相槌のように心地いい。
「大胆不敵な、あなたの考えを聞いたからこそ、思いついたのです。
これが私の才能、王佐の才、王を助ける力、なのでしょうね。
きっと私たちなら、この乱世を乗り越え、民衆と漢王室を護る事ができるでしょう」
その数日後。
農民姿の兵士たちと、こそこそ呂布陣営の麦を刈り奪っていた少女は急報を受けた。
「
「何っ」「おやまあ」と、農作業着の少女と荀彧は、右手に鎌と左手に麦の束を持ったまま叫んだ。
「予想より早かったですね」
「とにかく撤収だ。しかし、ここからでは呂布軍を迎え撃つには間に合わない。
しかも麦泥棒、いや麦を奪い返すために、兵士を総動員し、分散して作業していたからな。
今、我らの城には千人ほど残っていない。
それがバレれば速攻で攻め落とされ、皆、無駄死にしてしまう」
「困りましたね」
そう話す間に、少女は隠し布で四方を囲まれ、次の瞬間には、衣装係の女官たちによって農作業服から軍服へ着替えが終わっていた。
「私も、早く着替えないと……」
青年がそう呟くと、少女はハッとする。
「そうじゃっ。着替えで呂布たちを牽制できるかもしれないっ」
さっそく伝言を早馬に託し、鉅野へ走らせた。
その内容を聞いた城内では、皆、目を丸くした。
「へんてこな考え」「恐ろしい作戦ね」「でもお城を攻められたら、もっと恐ろしい事になるよ」と女子たちはおしゃべりをしながら、とある衣装に着替えだす。
やがてひそかに、呂布軍の斥候が城の近くに到着した。
そして曹操軍の城のひめがきに大勢の兵士が見回り警備している様子を目撃する。
「防御は堅固です」と、呂布軍の軍師である陳宮に報告を入れた。
かくして慎重な陳宮の判断により、城からやや離れた場所に陣取った。
さらに様子見の小隊を繰り出したが、意味が有るようで無いような小競り合いが起きる程度で、時間は過ぎていった。
城壁のひめがきに並び、鉄壁の防御に見せたのは鎧を着た婦人と子供たちだった。
本来の兵士たちは、万が一に備え、決死の覚悟で要所に待機していたのだ。
本隊が戻ってくるまで、彼らはまさに全兵力をあげて敵を防いだのである。
つづく
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