第149話 定陶・優しいブービートラップ

凶鳥の啼き声と聞きまがう超高音が冬空に響き渡った。

程昱ていいくが放ったのは嚆矢こうしだった。

露骨な合図に、とある敵兵は天を見上げ、またある者は不吉な予感に身構えた。


突如、呂布りょふ軍の一部が崩れた。

精鋭騎馬隊にとって信じられない事だが、馬が転倒したのである。

投げ出された数名の騎手が混乱の中へ落下する。


瞬時に密集隊形が解けた。追突を避けて器用に二手に別れたのだ。

だがその先でも馬が転げ続け、さらに分裂を繰り返していく。


……普通の軍隊なら混乱する所だ。だが、彼らは見事に対応している。

呂布という指揮官の指示が無くても、兵士自ら判断し、動く事に慣れているのだ。

勝手な相手に付き従ううちに、言葉や合図さえいらない意思疎通を会得したのか。

素晴らしい連携だ。しかし献身的過ぎて、可哀想にも見えてしまう……。


大樹の高見から戦場を観察していた程昱ていいくは、ふたたび定陶ていとう城上空へ向けて嚆矢を放ち始めた。

……罠は発動しているというのに、まだなにかあるというのか?

だが鳴り止まぬ怪音にも恐れる事なく、呂布は疾走したまま弓矢をつがえた。

曹操そうそう軍陣営正面で、ぼうっと立ち尽くしているのがやけに目立つ大将らしき人物の顔面を的にした。


その瞬間、雪が弾けて目の前を塞いだ。さらに地面から、なにかが飛び出してくる。

しかし、呂布の愛馬、赤兎せきとはまったく動じなかった。

「雪の下に埋められていた柵が縄で引かれて現れただけだ」と認識すると、疾駆する両足に瞬時に力を込めて跳びあがる。


天にも届くような高い跳躍に、敵味方双方から賞賛の喚声が湧いた。

そしてたった一頭にも関わらず、大地を揺らして降り立つ。


また走り出そうと前脚を上げた瞬間、ぼしゅっと膝まで地面に沈んだ。

埋められた板が割れて、浅い落とし穴に落ちてしまったのである。


冷静な赤兎馬もさすがに不愉快になったのか首を大きく振って甲高く嘶いた。

曹操軍のおとり集団を眼光鋭く威嚇しながら、穴から上がってくる。


「せ、赤兎殿には、効きませんなあ……」

馬の怒りに圧されて敬語になりながら、おとり軍の大将である夏侯惇元譲かこうとんげんじょうはつぶやいた。

……皆で夜なべして、雪かきしつつ作った罠だったんだけどな。

それにしてもまさか本当に、待ち伏せに対して斥候の下調べも出さず、いきなり本隊が突っ込んでくるとは思わなかった。相変わらず私には呂布軍はよくわからないな。


「噂以上にすばらしい軍馬ですっ。彼らなら、ここに来るかもしれませんね……」

副将の韓浩かんこうも戦慄しているが、隠し切れず、瞳がどこか輝いている。


「私もそんな気がするよ。罠があるとわかったら普通は退くけど、彼らなら……」

そう言う間に、馬中の赤兎と人中の呂布が、危険な雪原を走り出した。


突然とびだす柵を越え、時には体当たりで潰し、落とし穴を跳ね上がり、一斉射撃の矢は呂布が槍で払い落し、愛馬を守った。彼の兵士たちも、果敢に主人の後に続く。

全力疾走はさせていないが、足止めにはなっていない。


「矢は、もう撃てませんよっ」

韓浩が言うと夏侯惇は周囲を見渡し頷いた。

……確かに。矢はあるのだが撃てなくなってしまった。

「戦闘準備」

小さく呟くと大音声で復唱され、兵士はそれぞれ剣を抜き、矛を構え、盾を持った。


白雪と黒土を巻き上げて、赤兎馬と呂布が迫る。

破壊と殺戮の衝動を槍先に輝かせ、逆茂木を一刀両断する。

殺意の軍神呂布に見据えられ、夏侯惇は場合ではないが、思わず見惚れた。


……まさに理想的な英雄の姿だ。

最高指揮官でありながら、死地を駆け抜け、突撃し、勝ってきた男。

太公望の兵法書、六韜りくとうでは、白刃を振るう将軍は無謀で良将ではない、と記すが、それでも、彼の姿は力と自信に溢れ、敵である私から見ても煌いている。

ましてや味方ならば、彼に深く心酔するのは、わかる気がする……。


武神は今、攻撃の最中である最高に美しい瞬間で、動きを止めていた。


呂布は槍を振りかぶり、夏侯惇は弩を構え、見合っている。

どちらかが仕掛けた瞬間、お互いの命が消える。

膠着状態である。


この空白の瞬間、ただ前しか見てこなかった呂布の目と耳に、やっと周囲の状況が濁流の如く押し寄せてきた。


定陶ていとう三城に潜んでいた曹操軍の兵士が、どろどろと低い地鳴りを鳴らして集まり続け、四方を囲みつつあった。

おとりの軍が矢を撃たなくなったのは、万が一の同士討ちを避けるためだったのだ。


安全圏である外側に「曹兗州牧そうえんしゅうぼく」の軍旗が揺れている。

死地である内側では「呂兗州牧りょえんしゅうぼく」の軍旗も揺れている。

同じ風の中で二つの旗がなびいていた。

奪い奪われた二人の兗州牧が、ついに会したのである。


呂布は今一度、真正面にいる隻眼の敵将に視線を戻した。

すると予想外にも、相手は稚い少年のように、ぽっと頬を憧憬で染めた。

わけがわからない、というように呂布は怪訝な目になりつつも、フッと鼻で笑った。

殺意が抜けたように、槍を降ろす。


さっと馬首を返すと名残惜しいように流し目だけを残し、大胆にも背中を見せた。

そして、走り抜けてきた道を引き返して行く。

途中、傷ついた仲間を両脇に抱えてまで救い出し、包囲網を散らした。

呂布軍の兵士たちも、主人と同じく仲間たちを助け上げ、あとに続く。


曹操軍は、呂布とその兵士たちを通した。

小競り合いさえ起きないように包囲を開き、当然、追撃もしない。

手負いを追うのは、敵に決死の最大限の力を発揮させる原因になり、危険なのだ。

戦いは、相手の油断を誘い、最小限の力しか出させない事が基本である。

さらにこの状況で追えば、南城の兵士に挟み撃ちにされる可能性もある。

調子に乗ると、すべてを失う事態にもなりかねない。


それに最も重要なのは、定陶三城から取り戻した食料と武器を無事に持ち帰る事である。これが、今回の目的だったといってもいい。

……これで多少は、自分たちの味方をしてくれた人々に恩を返せるだろう。


最後に曹操軍は、残された呂布軍の兵士や馬を助けた。

青州兵の時と同じ対応である。これが罠を控え目にした理由でもあった。


彼らの世話をしてやり、もしも残ってくれるなら、優秀な騎馬隊として彼らは貴重な戦力となるだろう。去っていくというのなら、ただ送り出すだけである。



呂布軍は来て早々に、去ってしまった。

信じ難い光景に、定陶ていとう南城楼閣から戦場を覗いていた呉資ごしは頭を抱えた。


……そうだ、もともと呂布が必死に迫ったのは、おとりの軍だったのだ。

私は最初から、それを見抜いていたのに……。

もしも、呂布が私の合図に従っていてくれたら。

そしてこの城の中で休み、私の話を聞いてくれたなら、こんな事にはならなかっただろう。

彼の軍師である陳宮ちんきゅう殿の、苦労が痛いほどわかった……。


心沈む間に、曹操軍は迅速に撤退していった。

それを見計らっていたように、定陶三城からドッと被害のなかった南城へ向かって、救いを求める難民たちが押し寄せてくる。


最悪な想像が、現実となった。呉資はとたんに十ほど歳を取ったように老け込んだ。


つづく

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