第146話 定陶・対岸の火事ではなく
「
焦燥の声と寝室の戸を叩く音が同時に響く。
暖かい愛妾から離れ、夜の冷気に身を震わせながら戸を開き、注進を聞く。
「
夜陰に紛れ、盗賊のようにひそかに城内に侵入。
城門を制圧した後、食料庫、武器庫を中心に略奪、破壊しているとの事。
「まさか
ついでに正月深夜から戦争を始めるという発想もいかれとるっ」
相手の濃い酒の匂いに戸惑いつつ、仕事なので報告を続ける。
「さ、幸い、我らの南城に被害は皆無です。
敵兵が離れた位置で陣取っているだけです。
奴ら、寒さに耐えられず大きな焚火を作り、目立つのも構わず作業しています。
その間に我らは常駐兵の戦闘準備を完了、他の兵士も住民区から緊急招集中です。
夜明けには出撃できますっ」
「それはオトリだ。近づけば伏兵か仕掛けが出てくるぞ。絶対に放置だ」
酔人と思いきや、きっちりと対処を答えたので驚いた。
「さ、さすが呉太守っ。策略にお詳しいっ。頼りになりますっ」
「当たり前だ。私が曹操から済陰郡の主を任されたのは伊達ではない。
だが私は、
「えっ?」
「えっ?じゃないっ。さっさと早馬と狼煙で援軍を呼ぶのだっ」
「はいっ」
そして濃紺の夜空にひびが入ったように、ひとすじ橙色の炎が細長く上がった。
夜間なので黒煙は見えず、この火炎のみの通信となる。
松明を持った
他にも多種の獣の毛皮を纏う兵士たちが、立ち並ぶ食料庫と武器庫の扉に斧を突き立てていく。
破壊された扉の背後から、兵士が灯りを掲げて中を照らした。
とたんに皆、絶世の美女を見上げたように吐息を漏らす。
「さすがは城塞都市の倉庫、麦袋の山だっ。皆、持てるだけ持って帰るのだっ」
斧を革に収め背中に背負うと、少女も袋を抱えて荷台に乗せ始める。
「おおっ種もみを見つけたっ。これも忘れるなよっ」
「と、盗賊様っ!お待ちください。どうか種もみだけは、勘弁してください!」
怯えていた食糧庫の門番が、ついに勇気を出して飛び出してきた。
「それを奪われては、春が来ても農作業ができず、我らが飢えてしまいますっ!
どうか、私たちを助けると思ってやめてくださいっ」
門番の男は泣きつつ抱きつこうとしたが、少女は楽進を引っ張り身代わりにした。
ふんわり柔らかい兎毛が、男を包み込む。
「おい門番っ聞き捨てならんな。誰が盗賊じゃっ!
わしらは奪われたものを、奪い返しとるだけだっ」
「言っている意味がわかりませんが」
「種もみも元は我らのものだった、という事じゃ。
これも意味がわからんかな?わからんなら、少しは考えろっ。
そうだ、お前たちは考えないから城壁の外がどれほど悲惨な状況になっていても
「まあまあ、落ち着いて下さいよ。一役人の彼を責めても可哀想です。
それに、熱くなるのは判断が鈍る原因になります」
楽進に窘められ、少女は身を引いた。
「確かにそうだ。すまない。心に余裕がないのだ。
ふむ、種もみ、ね。……では門番殿よ。
種もみが無いのなら、ある所に引っ越しすればいいのではないかね?」
あまりに唐突な勧誘に門番は戸惑い、さっき庇ってくれた楽進に視線で助けを求めた。だが彼も怪しげな満面の笑みを浮かべており、口を開く。
「うちでは今、住人を大募集中なのです。もちろん、ご家族、親戚、友人、皆さま大歓迎ですよ。さらに私たちの所では……」
「ま、待ってください。確かに、種もみを奪われるのは恐ろしく迷惑な事ですっ」
得体の知れない不安に駆られて、門番は相手の話を遮った。
「とはいえ、この定陶を出るほどの大ごとではありませんよ。
なぜならこの北城が崩れても、南、西、東の三城から配給や助けがあるからです。
せっかくお誘いいただきましたが、この城塞都市から盗賊の村になんて、私は引っ越しませんっ」
楽進と少女は、いかにも申し訳なさそうな表情となった。
「悲しい知らせですが、南城一つのみ残して、他の二城の食糧と武器も我らの仲間が奪っている最中です。
城門も破壊いたしますので、私たち以外の盗賊も出入り自由になるでしょう。
こうなっては南城以外、攻めずともいずれ自壊する運命です。
お気持ちは複雑でしょうが、一時的にでも我らの村で暮らした方が安全かもしれません」
門番は絶句した。そして、怒りが堰を切り怒鳴った。
「お前らっ定陶になんちゅう事をしてくれたんだっ!この悪質な悪党ども!悪鬼め!このちんちくりん軍団っ!」
「おい門番っ、今なんて言ったっ?!ちんちくりん軍団に私も含まれているんじゃないだろうなっ?」
「まあまあ、楽進君、すぐに怒るのは良くない。判断が鈍る原因になるぞ」
「も、申し訳ありません。つい……」
「で、先ほど話ですが、続きを聞いていただきたい。
たしかに我らは悪質ですし、住んでる土地もここより不便です。
ですので代わりに、良い面を作りました。
皆さま、去年の大飢饉から物価が上がってお困りでしょう。
私たちが管轄する村では、一時的ですが税を下げているのです」
「えっ、なんですって?」
一瞬で怒気が消え、希望でも見たように目が輝いた。
「うちはこれくらい、頑張らせていただきますよっ」
楽進が携帯用の筆と墨を出すと、覚え書きの布にさらりと数字を書く。
「なんと、定陶の半分以下の税率だ。だが、お前たちはそれでやっていけるのかね?
む。さては、
少女と楽進は顔を見合わせて少し笑った。
「違いますよ。うちは上納金などありません。それに今は、お頭を含めて自給自足、着物も穴が空いたら縫って直し、皆と同じような慎ましい暮らしをしています。
ですから皆さまには、行政を動かすのに必要な税を納めていただくだけでよいのです。
作物の収穫が増え、生活が豊かになるまで、この方針は続ける予定です」
「嘘じゃないだろうな?」
「ええ。これが証拠です」
楽進が持つ布に、少女は自分の名前と腰に下げた印を墨で押した。
「げっ、曹操さまでしたかっ。ど、どうか数々のご無礼をお許し下さいっ」
「もちろん、許しますとも。
だからといって、君たちは私たちを無理に許さなくてもいい。
来るか来ないわからない呂布を誘うため、多くの人が暮らす定陶を破壊したのは罪深い事だ。謝るのは偽善的だが、申し訳ないと思う。
まあ、気が向いたら、私どもの所へ来てください。
あるいは、住民区に手は出しませんので、そこに留まり耐える選択もあります。
定陶の責任者である呉資に、南城の物資の解放や、盗賊が入らないように見張りの兵士を要望し、城門を修理させ、最大限に生き延びる努力をしてください。
南城は……今回は、無傷で残しますから」
「わかりました。私は、定陶からの脱出を選びますっ」
門番は、さっきとまるで正反対の判断を自分でも驚くほどあっさりと決断した。
……相手は「今回は」と言った。つまり、また、ここを襲いに来るという事だ。
ようやく自分たちは、兗州全体は、呂布と曹操の争いの渦中にいるのだと実感し、生存への意識が鮮明になった気がした。
「今から住居地区に戻って、家族や近所の者も誘いますっ」
ちょうど話の区切りに、伝令兵が猫のようにするりと入ってきた。
少女に耳打ちし、兵が去ると同時に楽進に言う。
「
つづく
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