第145話 定陶・死の道を征く
満天の星が銀の粒子を地上に降らせ、積もった雪を淡く輝かせている。
おかげで真夜中にもかかわらず、見通しが良い。
雪は、深くはないが凍結を繰り返してやや固い。
軍馬と兵士たちの足を冷たく捕らえて地面へと引いてくるから、難儀である。
夜道に浮かび上がるのは白い息を吐いて進む、彼ら生者だけではない。
野ざらしの死者たちが、雪の中からこちらを見つめていた。
きっと食料を求めて住み慣れた村や町を出たのだろう。
一人の者もいるし、家族や大勢で寄り添う者たちもいる。
飢饉はいまだに
兗州を奪った
隻眼の青年は、ふと思う。
彼は
このような緊急事態に進言しないわけがない、と思う。
それとも、呂布は陳宮の言うことを聞かないのだろうか……。
彼らの事情は、わからない。
そういえば呂布軍と遭遇した時も、その動きはよくわからなかった。
どうやら彼らの政治的判断に対しても、その印象は同じらしい。
自分には、呂布がよくわからない。
わかるのは、飢餓の死者が増え続けていく事だけである。
その犠牲者の中には、
彼は亡くなった弟の娘を救い、代わりに、自分の子供を犠牲にした。
なぜ、陳宮は曹操を裏切り呂布に仕えたのか、その理由はわからない。
もしかしたら、自分の理想や夢を叶えるためだったのかもしれない。
だがこの現実が、彼の理想や夢だとは思えない。
今頃、彼はなにを思っているのだろうか。
「あっ」と、
「すみません、外します」そう言うと、韓浩は馬と共に行軍の列を離れていく。
その先には布にくるまれた小さな姿が雪灯りに浮かんでいた。
……そういえば、彼には子供がいなかったな……。
青年は残っている右目を細めて、視線で追う。
韓浩は小さな姿を大事に抱えると、行軍の邪魔にならぬように道の端に移動した。そしてそのまま、座り込んで頭を伏せてしまった。
それから彼は、列には戻ってこなかった。
目的地に到着すると、星明りの中で雪かきをした。
その後いわいる待ち伏せ的軍事的作業も終えると、軍幕が張られ始めた。
さっそく、見張り担当以外が中で眠りにつく。
熱い白湯を飲む者はいるが食事を摂る者はいない。明日の一食分しかないからだ。
真冬深夜の作業だったが、隻眼の青年は軽く汗をかいてしまい、それを乾かすように焚火にあたりながら雑談をしていた。
「申し訳ありません」急に背後から声をかけられて、振り返る。
韓浩が拱手し、深々と頭を下げていた。その手は泥に塗れていた。
「戻りました。処罰は受けます」
「おお、迷子にならずによかったな。
体調が悪かったようだね。列を離れた事は問題ない」
驚いて顔を上げた韓浩の目蓋は腫れて、頬にも土がついていた。
いつもは毅然とした副将が、今はあまりにもその姿から遠く、隻眼の指揮官は彼にかけるべき言葉が咄嗟に見つけられなかった。
代わりに竹筒の水で手ぬぐいを浸し、焚火で温めてから無言で渡した。
韓浩は戸惑いながらも受け取ったが、しかし、手も顔も拭くことなかった。
ただそれを見つめたまま、放心しているような、あるいは、なにかに耐えているような痛ましい様子で、立ち尽くしていた。
「わっ、私は兗州を、餓死者のいない州にしたいんだ」
結局、青年は気の利いた慰めや励ましの言葉が何も浮かばず、もう心のままに、話しだした。
「多くの人々が安心して田畑を耕し、長く暮らせる土地にしたいんだ。
そして麦や粟など保存できる食料をたくさん作ってもらえるといいな。
それを大事に保存して、飢饉の時は配れるようにしたい。
兗州を取り戻したら、私は少しでも農作業の助けをしたいと思っている。
今は夢みたいな話かもしれないけど、でもそれが、今の私の心からの夢なんだ……」
唐突な告白に、韓浩をはじめ周りの将兵も、やや茫然と相手を見つめていた。
だがやがて韓浩は双眸から大粒の涙を落とし、それを汚れた手でぬぐいながら応え始めた。
「私も、それが夢です。人間にとって、食べ物は絶対に必要なのに……。
私たちは、食料に対して無頓着過ぎるのです……。こんなのは……」
最後は言わなかったのか、それとも声が消え入ってしまったのか、わからない。
だが青年は大きくうなずいた。
……そうだ、こんなのはおかしい。こんな風に人が死んでいくのは、間違っている。
これは批判などではなく、放置され続けていた悪習慣への問題提起だ。
「本音を言えば、私は今すぐ、この食糧難を直接解決する仕事をしたい。
だが、兗州の混乱を静めなければ、私たちに実権は戻ってこないし、人々も安心して農作業はできない。
呂布たちが州内にいるかぎり、いつ田畑を荒らされたり、収穫を奪われるかわからないからね。
君もわかっているだろうけど、まず呂布を追い出さなければ何も変えられない。
多くの人が苦しんでいる中で、また争乱を起こすのは、とても複雑な気持ちだ。
だけど私は、今は戦おうと思う。
呂布を、できるだけ早くこの兗州から追い出したいからね。
君も、そう思ってくれると私はうれしいのだけれど。
その、しっかり者の君がいないと、私はとても困るし……」
韓浩は鼻をすすりながら、再び拱手した。
「作戦の遂行中に組織に反する行動と言動をとり、多大なご迷惑をおかけして、改めて謝罪いたします。申し訳ありませんでした。処罰を受けさせてください。
ただ、罰を待つ身ではありますが、厚かましくもお願いをいたします。
もしも叶いますなら、私をこの作戦にどうか参加をさせてください。
私も呂布を追い出すために、ぜひ戦わせてください」
そして深く頭を下げると、周囲の将兵も共に頼むように次々とそれに続いた。
「もちろんさ。ありがとう、当然だ」
青年は皆に頭を上げさせ話を続ける。
「反する行動というが、君は体調が悪くて列を離れたようだし、言動も食料の話題を指すのかもしれないがそれは私から言い出したのだし、むしろ大事な問題提起なのだから良い事だと思う。
それにその話はもっと真剣に考えて、曹兗州牧に伝えるべきだ」
「……えっ?」
想像以上に話が大きく、そして具体的になっていく予感に韓浩は腫れた目をぱっちりと見開き、夏侯惇を見上げた。
……この人は今、武官として指揮官を勤めているが、普段は文官として地方を治めている。
もしも武官のみ、軍隊からの視線しか持っていない人物だったら、自分の態度や世迷言を深く読み取ってくれただろうか。
いや文官でも、社会の仕組みを変えるような話など、真剣に受け取らないものだ。
だから、今まで大勢の人々が食料に翻弄され続けてきたのだろう。
だけど、これからはもしかしたら変えられるのかもしれない……。
韓浩はいつしか目を輝かせ、青年を見ていた。
「私は、心からあなたに感謝をいたしますっ。そして必ず、呂布を兗州から追い出すために、私に力を尽くさせてくださいっ」
今度は、急に熱っぽく変わった部下に隻眼の青年の方が驚いたが、すぐに嬉しそうな笑顔で答えた。
「ありがとう、心強いよ。皆と一緒に頑張ろう」
そしてふふっと笑うと、彼の肩を軽く叩いた。
「でも君は、呂布を追い出す前にやる事があるね。まず、顔を拭かなきゃ」
韓浩はすっかり泥だらけとなった自分の顔に気づいていなかったのか、子供のようにあわてて拭き始めた。
周囲は和やかに、小さな笑い声や、追加の手ぬぐいを渡す者も現れ、深夜の軍隊らしからぬ柔らかい雰囲気が皆を包んだ。
いつしか各所に焚火がつくられ、それは大きく燃え盛っている。
良く燃えて、目の前の城から目立つように、わざわざ乾燥した薪を運んできたのだ。
隻眼の青年と彼の副将も、今では身体も着物も暖まり、見張り交代の時間までささやかな人心地を楽しんでいた。
静かに流れる時間の中で、ふと、青年は片目で焚火の先を見た。
その炎の奥には、目標である
つづく
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