第144話 兗州・程昱からの贈り物(鞭と飴)

とはいえ何度目だかわからない自分への失望に囚われて、また視線を外した。

……私なりに、よく考えたつもりだったのだけれど……。


「たしかに、私は将来を考えるのは不得意さ。

今も選択が間違っているのかもしれないが、私にはそれがわからない。


私が我慢して袁紹えんしょうに仕えれば、今すぐに兗州えんしゅうから呂布りょふを追い払う事ができるだろう。

援助も貰えれば、飢餓も緩和できるはずだ。

さらに、私の管轄地が袁紹のものになれば、彼の天下統一がほぼ決定的になり、戦いも少なくなるのではないかな。

私が意地を張るの止めれば、兗州どころか、この国全体を救えるかもしれない。


だがこの答えは考えが足りないと、やはりあなたは言うのかね?」


少女が口を閉じたと同時に、五十路の部下が口を開く。


「ご自分の頭でもう一度よく考えてみてほしいのです。

いや。とっくにその答えを知っているからこそ、ここにいるのでしょう。

ですが今のあなたは、なぜかそれに気づかない振りをしている。

あるいは、自分自身を騙しているのでしょうか。

それは、わざとなのか無自覚なのか、そして一体なんのために、とはまでは、聞きませんが……」


聞いているうちに鼓動が激しく打ち血液が熱し、青い顔が朱くなった。

すでにそれが答えなのだろうが、どうも今日は寛大になれない。


「本当に袁紹が天下を治め、世に平穏をもたらす人物だと思うのならば、なぜあなたは今まで、彼に仕えようとしなかったのですか?」


これでもう十分な質問だ、とわかりながらも、やはり続ける。

自分の性格の悪さもわかっている。


「袁紹の手下になったとして、一体どれほどの期間を耐えられると思いですか?

そしてやはり我慢できなくなった時は、一体どうするおつもりなのです?

反乱、逃亡、自害でしょうか?


それとも自分を圧し殺し、彼に使い倒される自信があるのですか?

かつてそのように、漢王室の初代皇帝である劉邦りゅうほうの天下統一に力を貸した二人の名将、韓信かんしん彭越ほうえつの最期はどうなりましたか?


世が平和になったあと、彼らはその天才的軍事才能を恐れられ、結局、命懸けで尽くした劉邦に処刑されましたが、これについてはどう思うのです?


あるいは当時、一国の主だった田横でんおうは、かつて同じ立場であった劉邦に仕えるなど恥ずかしいと自害しましたが、彼のこの気概をどう思われますか?


どうなのです?

先人に学ぶ事なく、袁紹なんぞに仕える未来がこれまでの苦労の結果で、本当に良いのですか?」


「いや。ハッキリ言えば、これは最大の屈辱だと思う」

「そうでしょうとも」

程昱は大きく頷いた。

「まるで先ほどは、袁紹に跪くのになんの恥も無い様子だったので、私がそれをひそかに恥ずかしく思いました」


「しかし、この返事では袁紹が確実に怒ってしまう。

ヤツは今、公孫瓚こうそんさんと揉めているから私に集中はできないだろうが、多少の兵を割いてなら、すぐにでも矛先を向けられるだろう。

そんな事になったら、三城しかない我らはあっという間に全滅してしまう」


「なるほど。たしかに気後れされて、すっかり弱気なのですね」

程昱はそう言うと、まだ少し温もりが残る白湯を一口飲んで続けた。


「その、袁紹殿と戦っている公孫瓚ですが、彼が易京えききょう城を大改修したのは、お忘れですか?」

……すっかり忘れていた。「だいぶ前に聞いたような気がするな……」


「なるほど。どうりで推測がおかしいと思いました。

まあ、こちらには直接関係ない話ですし、失念されても無理はありません。


易京城の話に戻りますが。

大改造の結果、幾層の城壁、千の物見城楼を増築、十年間の兵糧を蓄え、完全なる籠城を決められるそうです。城の内部も罠や仕掛けが作られ、外部と完璧に遮断できるのだとか。

この、公孫瓚が考えた最強の城攻略に、きっと袁紹は膨大な時間と労力を使う事になるでしょう」


「うむ……」

思い出した。まるで荒唐無稽な物語でも聞いたように驚き、袁紹も大変だなぁと思ったが所詮は他人事であり、日々に忙殺されるうちに忘却したのだ。


「そもそも、公孫瓚自身、狡猾で手練れの将軍です。

もしも袁紹があなたも敵とするならば、当然それを好機と見るでしょう。

そうなれば彼は、上は幽州の公孫瓚、下は兗州の我らに挟み撃ちを受けるのです。

袁紹の弟である袁術えんじゅつも黙ってはいないでしょう。

宿敵である兄のとどめを刺すために、出張ってくるに違いありません。


三対一となれば、さすがに袁紹も潰れるかもしれません。

もっと上手くいけば、世を二つに割り続ける二袁自体が消滅する可能性もある」


「そんなに、うまくいくかな?」

「私はやる価値のある博打だと思いますよ。ですがあくまで、もしもの話です。


十中八九、袁紹は公孫瓚を倒すまでこちらには攻めて来ない、と私は思います。

理由は今述べた通り、我らを攻撃するのは袁紹自身にとって危険だからです。


袁紹は、袁術から背後を護ってくれるあなたと友好関係を続けたいはず、いや、続けなければ、自分自身の首を絞める事になる。

今回の誘いを断ったからといって、その方針はきっと、変わらないはずです」


「……そう言われると、たしかに」

たしかに袁紹と公孫瓚は因縁深く、ずっと戦い続けているのだ。

さらに難攻不落の易京城によってそれは確実に長期戦になるだろう。


そんな前途多難が予想される中、ちょっとばかり返信内容が生意気だったからといって味方に攻め込もうというような、そんな足りない判断をするわけがないのである。


思わずゾッとした。

聞いたはずの情報を忘れて間違った推測で右往左往していた自分が恥ずかしいというより、恐ろしく感じたのである。

……いや、推測なんて上等なものではなく、ただの妄想だ。そんなものに憑りつかれたように慄き、実際に行動しようとしていたとは……。


「誰にでも多少はそういう時があるものです。

様々な理由で判断力が鈍くなったり、何もかも人任せにしたいと思ったり、失ったものばかりが大きく見えたり、つらい時というのは、多分そういうものなのでしょう。


ですが、思い出してほしいのです。

あなたにはまだ三城が残っているのです。すぐに動かせる兵士も一万ほどいます。

さらに私や荀彧殿も味方にしてお使いになり、なにより、あなたご自身が神の如き勇武をお持ちなのです。

ですからもう一度、自分自身と私たちを信用していただきたいのです。

そうすればきっと、この乱れた世を平穏に戻す覇者王者の業を成就できるはずです」


慇懃に拱手し、深く一礼する。

「願わくは、ご考慮くださいますように」


「わかった。私は袁紹の配下にはならない」

それは軽やかに告げられたが、重い答えでもある。

いつかは袁紹と戦うという、明確な意思表示でもあるからだ。

 

その瞬間、二人は厳しい道を選んだことを確かめ合うように、頷きあった。

お互いの瞳の奥には先程まではなかった光が煌き、つい見つめ合う。

だがそのうち、どちらともなく笑いだして空気は解けた。


「それにしても、少しお痩せになりましたね……」

程昱はつい、口にしてしまった。


「君には心配をかけてばかりですまないね。病ではなく、ただ食欲がないだけだ。

でも君のおかげで大きな悩みが一つ消えたから、元気は出てきたよ」


大きな悩みは、大きな苦難に姿を変えただけである。

そう思うと逆に切なくなり、思いつきを話す。


「どうでしょう。気分転換に、私の故郷である東阿とうあにいらっしゃっては?

田舎に、別宅と小さな山があるのです。そこでご家族や親しい者と、冬の間、狩りや読書でもして、ゆっくり過ごされてはいかがでしょう。

気が引けるかもしれません。しかし、休養も大切だと思うのですが……」


唐突な提案にきょとんとしていたが、ちいさく首を振る。

「ありがとう。だが行けば東阿の食料を減らすかもしれないから遠慮しておくよ」


「食べなければいけないのは、どこでも変わりませんよ。

それに食料は、すでに三城の蔵を解放して住民に配給を終えています。

我々も含めて皆、それでやりくりするのです。

すでにやれることはやったのですから、もう気に病んでも仕方ありません」


そう押されると、微笑みを隠したようなぎこちない表情で頷いた。

「では、ぜひ行きたいな」

「ええ。一緒に行きましょう」

程昱は素直に喜びながら答えた。


窓の外にはすでに夜の帳が降りている。主人は名残惜しそうに客人を門まで送った。

「お待ちしておりましたっ」

門番がいる離れ屋から、灯りを大事に持った少年が元気に駆けてくる。

そして程昱の横に立つと、その主人に向かって拱手して深く一礼した。


「またお会いできてうれ、いえ、光栄ですっ。あの時は助けていただき、ありがとうございました。今は程昱さまにお仕えして、文字も教えてもらっています」


彼に顔を上げさせてまじまじと見ると、少女は苦笑いをして頭を撫ぜてやった。

「君たち二人は、私を引き留めるのが上手いね」

彼の帯にはお守りのように、いつしか自分が渡した巾着が揺れていた。



時は過ぎ、厳冬を迎えた。政治が停止した兗州内は苛烈を極めた。

食料は異常に高騰し、ついには何も買えなくなった人間同士で食い合いが始まった。

これまで真面目に生き、なんの罪のない農民たちはなんの助けも無く死んでいった。

または賊となり、隣人から奪い奪われて、最後は物のように捨てられ死んでいった。

その憐れな死体や髑髏を優しく情け深く覆うのは、深深と降り積もる雪だけだった。


つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る