第143話 兗州・滅入り苦しみ増す、曹操さま

急報に程昱ていいくは驚いた。

……曹操そうそうが勝手に一人で袁紹えんしょうの配下になると決めただと?

なにを頭がおか、いや、正気を失った事を言っとるんだ。

それとも餌に釣られたか。袁紹の冀州きしゅうは、今年も豊作だったらしいからな……。


地方に使者として出向いていた彼は、近頃預かった荷物持ちの少年を抱えて馬に乗せてやると、襲歩の合図を送った。

晩秋の小雨はいつしかみぞれに変わり、旅人たちはさらに帰路を急いだ。


本来ならば鄄城けんじょうの宿舎にいるはずの主人は、自宅へ戻ったという。

追い返されるのを承知で訪れると、想像以上に暖かく迎えられて恐縮をする。

客間ではなく、話が外に漏れない離れの書斎へ通された。


仲徳ちゅうとく殿、わざわざうちに来ていただいて申し訳ないね」

仲徳とは、程昱のあざなである。

「こちらこそ非礼をお許しください。無理を言ってお目通りいただき、心から感謝いたします。ぜひ早くご報告をと思いました」

旅服から厚手の着物姿となった程昱は、数日振りに会った主人に深々と一礼する。


「まずは……」袁紹に屈するのは本当でしょうか?

そう尋ねたいのを抑えて、使者として勤めた内容を話し始める。

……この仕事を私に頼んだ時は、まだそのつもりではなかったのだろうか。

頭半分、そんな事を考えながら話すうちに、ふと思う。


……進路を一人で決めたのは勝手ではないかと思ったが、だからといって皆の意見を取りいれて決めてほしかったというのも、同じくらい、いや、それ以上に勝手な考えではないだろうか。

自分の将来を一人で決めるのは、当たり前の事でもある。

そしてなにより一人で決めれば、誰のせいにもできなくなる……。


そう思い至ると、程昱は本当に胸でも痛んだように目を細めた。

……一人で決めて、一切の責任転嫁を防ぎ、一分も誰も恨まぬように予防するのは、いずれそれほど後悔すると今の時点で予感しているからなのでは……。


だが唐突に、冷める。

……いや、馬鹿馬鹿しい。人の心の中など想像しても、それは自分の中にある相手の虚像を探っているだけだ。

しかも目の前の人物に対して靄靄もやもやとするなんて、まるで子供にでも戻ったようじゃないか。

と、五十路いそじの彼は、思索を突き放した。


……まあいい。とにかくこの人は、今回は誰にも遠慮せず一人で決断したのだ。

だから私もここでは遠慮せず、聞きたい事を訊き、言いたい事を云う事にしょう。

無神経だと思われても構わない。私もどちらかというと勝手な人間なのだから……。


とはいえ、程昱はまず使者として得た情報を、大人しく二つ伝え終えた。

「結局、畢諶ひつしん殿は、呂布に下ったのだな……」

相手のその声色に怒りはなく疲れが深いが、なぜか笑んでいる。

苦笑というより、素直に嬉しそうに見え、理由のわからない不気味さえ漂う。


「ええ。彼の後任は、私が臨時で任命しました。問題がありましたら再考します。

……優秀な人物だったので、敵に獲られたのは残念です」


畢諶は、家族を張邈ちょうばくに奪われ、呂布りょふに味方せよと脅迫されていた人物だった。

「老いた母の元へ行くがいい」と曹操は彼に勧めたが「あなたを裏切りはしません」と答えた。曹操は感謝の涙さえ見せたが、結局、彼は去ってしまったのである。


「残念だ。だが、これでいいさ」

相手は、さっぱりと言った。

「畢諶は、自分で決めたのだ。だからこれで良い」

そして続ける。


「張邈殿は優しい人だった。だからきっと畢諶の母を殺さなかったのだろう。

そして彼女から助けを求める手紙が何通も届けば、心が揺らぐのは当然だ。

彼は親孝行をしただけだ。儒教でもそれが一番大事だと教えている。

彼が無事に母上と再会できたのなら、私はそれでいい。


そして次の報告についてだが。

夏侯惇かこうとん殿に変わって、新しい東郡太守とうぐんたいしゅに袁紹から臧洪ぞうこう殿が派遣されてきた、と……」


兗州東郡は、袁紹の管轄地、冀州に隣接する主要都市で重要な防衛線でもある。

かつては曹操自身が東郡太守となり護っていた。

その後は夏侯惇が勤めていたが、現在の不安定な兗州を見て、袁紹は直属の部下を配置したのである。


……まるで、すでに兗州も自分の管轄地扱いじゃないか……。

程昱が苦々しく思っていると、相手は静かに呟いた。


「弱いと奪われてばかりだね。申し訳ない。まあ、これが私の限界なのだろう」

そう小声で言う姿は、華奢というより痩せ過ぎで、清楚というより脆く見えた。


思えば、この人は父と兄弟を殺害された時から、心身共に休まる時なく過ごしてきたのだろう。

さらには拠り所である管轄地、兗州まで呂布達に奪われ、問題は何一つ解決しないまま、いまも面倒は積み上がるばかりなのだ。

すべての問題を人任せにして、楽になりたいと思うのは、なにも不思議ではない。


そう思いながら程昱は、ふと沸く緊張で我知らずに大きく息を一度吸い、あくまでこれは、用事のついでの雑談である、と自分に言い聞かせながら話を切り出した。


「曹将軍。ひそかに聞いたのですが。

あなたは袁紹殿に家族を差し出し、その配下になろうとしているのだとか。

私はとても信じられないのですが、これは本当の話なのですか?」

「本当だ」

あっけない返事だった。切り込んだ程昱の方が臆して、つい息も言葉も詰まる。

その、ぽかりと空いた嫌な間に、相手は重い声で話を入れてくる。


「長男の曹昂そうこうを、人質に送ろうと思っている。

だが正妻のてい殿が、強く反対をしているのだ。


彼女は、実の子ではない昂をとても大事に育ててくれた。

だから人質にするなんて絶対に許さないと激怒し、号泣し、まるで話が進まない。

今日も早く帰って話し合おうとしたが、平手打ちされて部屋から追い出された。


正直言って今まで戦ってきた誰よりも、正妻殿が一番強くて恐ろしい」


程昱は、心の底から曹操の正妻殿に感謝をした。

……我々が、誰一人できなかった事を正妻殿がやってくださっていたとは。

しかも曹操殿より強いし、この国で最強の女性かもしれない。


「しかしなぜあっさりと、袁紹に仕えようと思ったのですか?

まさか、呂布を恐れているのですか?袁紹の協力がなければ勝てないとでも?」


そう言うと相手は笑い出しかけ、あわてて口元を手で隠した。


「すまない。たしかに呂布軍は厄介だ。だがそこまで恐れていない。

相手は想像以上の規格外だった。私は、正攻法で攻め過ぎたと反省している。

次に戦えるなら、やり方を変えたいと思う」


「なるほど。では、袁紹との争い回避が、彼に下る理由のすべてなのですか?」


「そうだ。君ならこの袁紹の誘いを断るのはどういう意味になるのか、わかるだろう?」


そして崩れるように、強烈な陰鬱に表情が変わる。


「宣戦布告をするのも同じだ。

仲間にならないのなら、いつかは戦って降伏するか、させるか、滅ぶか、滅ぼされるかしかないのだから……。

それに」

わずかに顔を上げるが、顔色も声も何一つ明るくならない。


「袁紹殿のために活動や交際を頑張れば、援助を増やしてやると言われたのじゃ」

「……ん?」

「それで食料をたくさんもらったら、兵士を集めるのだ。

呂布軍はすでに食糧難に陥っているだろうから、籠城もできまい。

今攻めればきっと簡単に奴らを追い払う事ができるだろう。


そして兗州を取り戻し、民衆に配給を行えば少しは飢饉被害が緩和できるはず……」

口元は歪な笑みの形をしているが、その視線は虚ろで斜め上を見ている。


「私が袁紹に下れば、世に平穏が早く訪れるという事ではないかな?」


「私は、愚かでして」

程昱は静かに、だが妙に良く通る声で話しはじめた。

「あなたの気持ちを知りません。

ただ私は、あなたは近頃起こった多くの事態に、すこし気後れをされているのではないか、とは思いました。

そうでなければ、なぜもっと深くご自分の将来に考えを巡らせないのでしょうか?」


淡々とした中に潜む強い覚悟を敏感に察知し、虚空から目を離して相手を見た。

ようやく夢から醒めたような瞳と熱く冷めた瞳が視線でぶつかった。


つづく

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