第142話 兗州・有り触れた夢、素朴な野望
獣か人か判然としない唸り声が聞こえて、恐怖で目が覚めた。
どうやらそれは痛みと高熱でうなされた自分自身の声だったらしい。
べちょりと何かが頭部から落ちてきてさらに驚く。ただの水浸しの布だった。
……ありえないが、しかし、眼球が落ちたのかと思った……。
割れた左目は治療を終えて包帯の下だったが、それこそ今すぐ飛び出したいとばかりに、ずきずきうずうずと酷く腫れあがっているのが、鏡を見なくてもわかる。
顔をしかめながら布の水を床の脇で軽く絞り、反射的に汗を拭いた。
看病してもらったと思うと、どきりとさせられた布もありがたく見える。
幕舎内に灯された淡い灯火も、心の中まで照らすように感じられた。
ふと誰かの寝息に気づき、左側に首を二度三度と動かして結局、真横を向いた。
以前ならそこまで振り向けば背後まで確認できたはずだが、今はもうできない。
もう二度と、できなくなってしまったのだろう……。
そんな感傷に耽る間も無く、あかりの隅で眠る少女の足元を見つけ、背中を突かれたように近づく。
「大丈夫ですかっ?何をしているのです、こんな所で」
ここが自分の幕舎なのは間違いない。
その床で最高司令官が袖なし外套を敷いて寝ているのだから慌てた。
熱による幻覚かもしれないと思いつつ、話しかける。
「ああ、元気そうで何よりだね。君とまた会えて嬉しいよ」
少女はぎこちない動きで伸びをしてから、ゆっくりと身を起こした。
顏や耳は所々赤く腫れ、とくに厳重に包帯を巻かれた左手が痛々しい。
それでうまく布が絞れなかったのだと気づくと、胸まで痛くなった。
「その左手、どうしたのです?」
「火傷さ。これは敵ではなく火にやられただけじゃ。……強がりではないからな。
君こそ、左目の具合はどうかな?」
「はあ。それが、矢が刺さった時も痛かったのですが、今の方が痛いのです」
「聞いた話によると、目が飛び出さないように目蓋を縫い合わせたのだとか」
その言葉に青年は、嫌な思い出に触れたようにしゅんと顔を下げた。
「ええ、そうです。痛い、恐い、気持ち悪い話ですけど、聞きます?」
少女は一拍間を置いてから、答えた。
「まあ、私は聞くよ」
「のちに
それを無理に押し込んで過ごしていたのですが軍医に診せると、飛び出さないように目蓋を縫ってしまおうという話になりました。
それが痛いのなんのって、新しい拷問にしてはどうかな、と思いました。
結局、私は耐えられず途中で気絶して、今まで寝込んでいたようです。
……正直、あまりの激痛と手術の恐怖で、やや記憶が混濁としているのです。
だから、あなたが帰還されたのも気づかず、出迎えせずに失礼いたしました」
「早く傷が癒えるといいな」
「ありがとうございます。
痛い痛いと言って痛みが早く去るものでもないとわかっていますが、つい我慢できず痛い話を長々としてしまいました」
「私は君の話が好きだから、長々と聞けて嬉しかったよ。
また落ち着いたら、たくさん話してほしい」
その途端、青年の表情から一瞬で悲痛が消えた。
「ただ、左目が見えなくなったとなると、君は転職が難しくなるね……」
ぽかぽか気分に浸っていた青年は、唐突なその一言で、まるで熱湯に放り込まれたように驚愕した。
「てててん、転職ですって?!私が転職するとは、どういうことですかっ?!
私が馬鹿、凡庸、無能の上に大怪我まで追加したから、もう捨てるって事ですかっ?
「ち、違うよ」
そして少女は焦げて短くなったまつ毛を伏せると、沈んだ声で続けた。
「そもそも袁紹本人は別として、彼の取り巻きはきっと今の君を歓迎しないだろう。
同じ理由で、私もされないだろうけど。
彼らは名家袁家に集まった、上品な王道の集団なんだ。
この世の常識である儒教に反するなんて、もってのほかさ。
儒教では、この世で最も敬うべき両親からもらった大事な身体を損なうのは、最も罪深いことだとされている。
髪を切ることさえ嫌な顔をされるのに、左目を失った君は彼らから見ると、どれほど罪深く映るのだろうね。
もしかしたら、宦官の血族である私と同じくらいかも……」
そして視線を上げて、青年を見つめた。
「私は、あなたを私に近い存在にしてしまったことを、心から詫びる。
私はどうやら大事にするべき恩人こそ、不幸にしかできないみたいだ。
恐ろしければ、いつでも私から離れてくれてかまわないよ」
「私に悪いと思うなら、じゃあ、私と最後まで一緒にいてくださいよ。
転職だとか、離れてもいいとか、恐ろしい事を言うのはやめていただきたいです。
まるで弱り目に祟り目、捨てられる寸前の犬の気持ちがします」
「私だって、最後まで君と一緒にいたいさ。
だけど私は近頃、限界というものを感じているのだ。
もしもの日が来る前に君にだけ、私の恥ずかしい秘密の夢を話しておきたいな。
いつか、君や私と同じ悩みを持つ人たちが、この世界や常識から否定されない日が来ればいいに、なんて夢想する時があったのさ。
生まれた瞬間に運命が決まるのではなく、大げさすぎる礼儀作法で人が評価されるのではなく、たとえば、才能があるとか、真面目に働く能力があるとか、そんな単純な事で人が評価されて生きていけるような、そんな今とは違う世界に作り変えたいと、時には妄想したものだった。
だけどこれは、子供が無邪気に夢見るおとぎ話で終わるだろう。
だってこんな事は、世界の頂点に立たなければできない事だからね」
「私は、とても良い夢だと思いましたけどね。まるで命を懸けるに値するような。
なんだか新しい世界や文化でも見たような気がして、わくわくとしましたよ。
それに私たちの間には、その新しい世界は、きっとすでにあると思うのです。
それがもっと広がれば、あなたも私も、私たちのような人たちも、きっと過ごしやすくなると思うのですが。いつか、世界すべてがそんなふうに変わったら……」
少女は笑った。
「そう言うと、夢ではなくて、まるで野望だね。
私たち敗残兵が心の隙間を埋めるべく貪り見る夢、身の程知らずな野望だ。
それに、現実はとても厳しい。
描いた夢や理想をそのまま現実にはできないものだと思うし、またできたとしても新しい問題が起きたり、長続きもしないかもしれない。
なんにせよ、未来を語ると鬼が笑う、だね」
二人は小さく笑ったあと、青年はふと真顔になって尋ねた。
「それで、転職だとか、もしもの日とは、本当にどういう意味なのです?」
少女は自分が言い出した話にもかかわらず、憂鬱に眉をしかめ片手で頬杖をついた。
「あくまで、たとえばなんだけど、私がここから逃げだす、とかそういう極悪非道な職場放棄をせずとも、このまま
「あなたが、ここから、逃げ出すぅ……?」
「え。いやだからそれは、たとえば、だって。そこは、さらっと流していいんだよ。
と、とにかく、このまま愚図愚図していれば、私も君も自分の未来を考え直すことになる、そんな意味だ」
青年はいまいち少女の言う意味がわかなかった。
「だから私はもともと焦ってはいたが、さらに焦っているのだよ……」
「わかりました。ならば、急ぎましょう」
結局、意味がわからないまま、青年はわかる部分にだけ答えた。
今では少女の方が悲痛な瞳をして、ただ小さく頷く。
だがその焦燥に反比例するように、呂布との戦いは長引いた。
籠城戦となったからである。
城に籠ると決意した相手は昼夜も無く犠牲も恐れず、潰れた城門を修復すべく瓦礫や死体を積み上げ続けた。
城壁に近づけば激しく矢を撃たれ、作業で使っている溶けた鉄までばら撒かれた。
呂布も出てこない。彼も今は陳宮の作戦に大人しく従い、きっと城内でまったりと過ごしているのかもしれない。
そして、ついに季節さえ変わろうとするある日、黒い塊が青空を覆った。
一匹では手の指ほどの虫が、集まれば天も蓋する一体の超巨大生物のようだった。
彼らは田畑の実りを見つけると地上に降りて、すべてを喰い尽くし始めた。
果ては仲間まで喰い散らかし、新たな食物を求めて飛び去った。
それは半日もかからない、たった数刻の出来事だった。
……これで確実に、兗州は大飢饉になる……。
そして秋の実りを頼りに、まだまだ戦争が続けられると思っていた両者は意思疎通でもしたように、同時に軍を退いた。
両軍、いや、すべての人間が今ある手持ちの食料でこの冬を越さなければならなくなったのだ。数万数千の兵士を養うような、そんな贅沢をしている場合ではなくなったのである。
だらだらと続いた戦争を、小さな昆虫たちが止めた瞬間だった。
つづく
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