第141話 兗州・楼異と、名も無き者たちの活躍

幸いにも、城内の混乱は続いている。

とはいえ命令一つで収束する曹操そうそう捜索の狂乱であり、城内を動き回れる時間の終わりは確実に近い。

兵卒に化けた少女は疲れも忘れて走り回り、敵の巣からの出口を探している。


やがて、激しい火焔と黒煙を狂った龍のように吐き続ける大型の城門を見つけた。

縣門けんもんという内側の落とし扉も破壊され、ただ虚しく燃え崩れるのを待っている。

この火煙を抜けられる者はいないと放置されたのか、周囲には門衛兵たちの死骸以外、誰もいない。


……恐ろしいが、ここから出よう。グズグズすれば、また誰かが……。


その焦りに呼ばれたように一際甲高いいななきが耳に入り、息を呑んで振り返る。

「まさか、そんなっ!?」


「おおっ絶影ぜつえい楼異ろうい殿!」

先ほど嘶いた馬を連れた兵士と少女は、ほぼ同時に声を上げて駆け寄った。

絶影と呼ばれた馬に少女はしがみつき、楼異も下馬すると再会を喜んだ。


「絶影は素晴らしい馬ですっ。よほどあなたに会いたかったのでしょう。人間にはない鋭い勘でここまで導いてくれましたっ」


「私にはもったいない良馬だよ。だから殺されずに敵の駒にされると思っていたが、まさかこんなに早く会えるとは思わなかった。

君にもまた会えてうれしいよ。独りの方が行動しやすいと別れたが、思ったよりも心細くなるものだね。見つけてくれて、有難う」


楼異は涙ぐみ、無言で頷いた。

だが不穏な軋み音が響き、二人と二頭はハッとそちらを振り返った。

扉の残骸が崩れだし、楼異はとっさに身を挺して火が点いた破片から主を守った。


「楼異殿、ありがとうっ。早く脱出しないと、この門自体が崩れるかもしれない」

「ええ。私が先に行きます。障害物がない事を祈りましょう。付いて来て下さいね」


楼異は馬をなだめながら竹筒の水をかけてやり、いきなり襲歩の合図を送った。

少女もすぐにその後に続く。


不思議と、躊躇も恐怖も思考も感情も消えてしまった。

炎に塗れ煙に溺れ、目は塞がれて息が詰まる。

痛む耳の真横で爆ぜる音が響いてくる。

ふっと、冷気が頬に触れた。


……もう、出られたのかっ?!


戦場の城門に、障害物がないわけがない。

最悪の場合、それを避けるために火の中で右往左往するつもりだったが、その心配は杞憂となったらしい。……今回も、運が良かったっ。


そう安堵して城門を抜け切ろうとした瞬間だった。

大きな火の塊が、ちょうど少女の頭上に落下してきた。

……なんじゃあっ?!城から出た瞬間、まるで武運の効果が消えたようじゃ?!

とにかく上半身を左に反らしつつ、左手でつき飛ばそうとした。

だが疾走する馬の上で無理な姿勢となったから、受け身もなく落馬し、さらに背中から主人が消えた絶影も均衡を崩し、倒れかけた。


「あわわっ、大丈夫ですかっ?」

「ぐげげげげ、あっづいっ、あっづい!」

楼異は、気味悪い虫が鳴いているように騒いでいる主人がわりと元気そうで安心しながらも、慌てて走り寄った。

少女は真横に転がっている火の塊から逃げようと、ほどけた髪が顔を覆ったまま這いずっていた。

……うへえっ、呪いの竹簡の少女みたいだっ!

そう戦慄している間に、少女は土の上を泳ぐ蛙のような動きで移動し終えた。


「ふいー、やっと火の塊から離れられたわいっ。

おいっ、そんな事より早く隠れないと、敵に見つかったらどうするんじゃっ」

「はっ!早く、急ぎましょうっ」


楼異は走りかけたが、少女は起き上がる様子がなく、また土を搔いでいる。

「も、もしかして、起き上がれないのでしょうか?」

「そうじゃ。雰囲気を出すために這っていると思ったのか?」

「なんと、すみませんでしたっ」


少女を抱えようとした時、突如、背後から荒い息と地面を引っ掻く爪音が聞こえた。振り返ると、大きな狼が二匹、まっしぐらに走ってくる。

楼異は素早く腰の剣の柄に手をかけた。


「まて」

少女は小さくつぶやいたので、はっとして動きを止めた。

「味方だ。しばらく、ここで待つんだ」

その一言に、楼異は、えっ、と声を上げた。

……あの狼が味方?なぜ、わかるんだ?

そう思ってから、馬たちが警戒や緊張していない事に気が付いた。

よく知った匂いという事なのだろう。


「な、なるほど……」と、柄から手を離す。

狼たちは遠巻きで止まり、目的を果たしたからか伏せて休憩を始めた。

だが常にこちらを伺い、集中をしている。


もしもこの大きな肉食獣が飛び掛かってきたらひとたまりもない、と、楼異はつい嫌な想像をしつつ、さきほどまで逃げようと騒いでいた主人の怪我の様子を見た。

左手の火傷が特に重症だった。処置をしたいが、あいにく水筒に水がない。

城外にも広がる死体の山から、水を少々拝借しようかと立ち上がると、激しい馬蹄が迫ってきた。


楼異はふたたび振り返る。

軽装の兵士が馬の脚が止まらないうちに飛び降りると少女のそばに駆け寄った。

手早く火傷を見たあと、断わりを入れてから体を触る。


「骨は折れてないようですけど、腰を強打したから立てないのですね。

隠れてから、軍医を呼びましょうか?」


少女は小さく首を振った。

「いや、ここには呼ばなくていい。私が怪我した事を呂布りょふ軍に知られると、面倒な事になるかもしれん。大ごとにしたくない」

「わかりました。では、私たちで応急処置をしましょう。

帰還されたあと、すぐに医者に診てもらって下さいね」


そう言うと、軽装の兵士は楼異を見た。

「森の中に大型武器の残骸があります。そこに隠れて治療しましょう。

盾を探してきてくれますか?けが人を乗せて運ぶのです」


「わっ、わかりましたっ」

楼異は思わず拱手し、死地の残り物を探しに走った。


……伝令と違う。もしやあれが、間者なのか……。


ならば今、自分がしているのは、稀なやり取りだ。

彼らは軍隊や政をひそかに支えている影のような集団で、自ら姿を現す事は滅多になく、その存在は想像の産物だと思っている者さえいる。

……自分だって、今まで半信半疑だった。


高等な技術が必要な、危険で重要な仕事をしているにもかかわらず、彼らの苦労や成果は、公に知られる事はなく、記録にも残らない。

彼らは人知れず多くの人々を支えて、人知れず死んでいくのだ。


楼異は、静かに伏せている狼に視線をちらりと向けると、感じ入った。

……彼らもその一人、いや一匹なんだ。私もきっと知らぬうちに、彼らに助けられてきたのだろう。

……私も命懸けで働いているのだから、ときには歴史に名前を残したいと思う事もある。だが彼らを見ていると、その望みが叶わなくても構わないと思えてくる。ただ、自分にできることを懸命に頑張ればいいと思えてくるから、不思議なものだ。


そして大盾を残骸の中から見つけると、それを抱えて戻っていく。


つづく

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