第140話 兗州・隻眼の将軍・兵卒の曹操 その2

恐る恐る顔を上げると、幸運な事に知った顔はいなかった。

……陳宮ちんきゅうはつくづく戦事いくさごとには運が無い男らしい。


ひそかに安堵の息をつくと、かつと一つ、冷たい蹄が鳴った。

呂布りょふ赤兎馬せきとばを一歩進ませて、じいっとこちらを見つめている。


「お前、どこかで見たような……」

……ま、まさか、私は呂布と、会った事はないはずだが?いや。まてよ、一度どこかで会ったような気も……。


思い出すのは後にして、動揺しつつも兵卒に化けた少女は答えた。

「わ、私は雑用兵で、軍勢の間を配達や伝達で行き来しておりますっ。

もしも呂布様に顔を覚えていただいていたなら、光栄です」


「ふむ……」

「それより、怪しい人物を見たのですが曖昧で、報告しようか否か悩んでいた内容がありますっ。それをお伝えしてもいいでしょうかっ」

馬上の五人は顔を見合わし、話を促した。


「じつは、ここに到着した時、そこの角の奥へ走り去る人影を見ましたっ。

もしかしたら、それが曹操そうそうだったのかもしれませんっ」


「なんだとっ」

呂布は齧り付くつくように、赤兎馬越しに一層顔を寄せた。

「どんなヤツだった?!」

「背が低くて、不細工で、軽率そうでしたっ」

馬上の五人は、曹操だ、と即断定すると、その疑惑の角へと馬を走らせて消えた。


……どいつもこいつも、少し失敬すぎんか?

自虐しておきながらややムッとしつつ、茫然と立ち尽くしたままの少年の腕を掴むと扉の奥へ押し込めた。


「早く行け。あいつらは戻ってくるぞ。逃げるなら、今しかないっ」

少年は夢から醒めたように目を見開き、少女の手を掴んだ。

「君は?一緒に行こうっ」

「いや。私といると、君に迷惑をかける。私は残るよ」


少女の脳裏には、先ほどの危機に似た嫌な思い出がよみがえっていた。

以前、董卓とうたくに逆い、共に逃避行をした使用人がいたのだが、彼は自分のせいで拷問に遭いかけた事があったのだ。


躊躇する相手に、少女は小さな巾着袋を渡した。

「私の事は心配いらない。きっとなんとかするから。

それと、この巾着には少ないけど木の実が入っている。食べておくれ。

あと、この巾着は絶対に捨てないように。曹操軍へ持って行くと、いい事があるよ」


「えっ?よくわからないけど、わかったよ。それに、食料もありがとうっ」

「こちらこそ、ありがとう。きっと、またいつか」


扉を閉めると、少女は別の門へ向かって駆けだした。

……もしもあの少年が現れなかったら、私は魔が差していたかもしれない。

今の失敗も、奪われた兗州えんしゅうも、復讐も、金も食料もないのに殺し合いばかりする事からも、すべてを放り出して、逃げ出したくなる瞬間がある。

だけどそんな事をしても、次はきっとそんな自分から逃げ出したくなるのだろう。

だからふりだしに戻されても、私は何度でも、そこからやり直すしかない。



瞳を開くと、青い空と、そびえる黒の矢柄やがら、その先の白い矢羽が見えた。

思わず、その近すぎる矢を掴んだ瞬間、左目に激痛が走った。

あまりの痛みに、胸の底から血が抜けていくような寒気が全身に広がっていく。


「なっなんだこれはっ!矢がっ!私と一緒に動いているっ!?」

「落ち着いて下さいっ。目に刺さっているのですっ」

指揮の合間に韓浩かんこう夏侯惇かこうとんに答えると、ひざをついて顔を覗き込んだ。

「なっ、なんだってっ?!よく死ななかったものだなっ」

……こっちの台詞なんだが、と思いながら韓浩は口を開いた。


「まだ、東門制圧戦が続いていますが、こちらが有利ですよ。

それとあなたの事ですが、頭も強く打っています。

目の傷は衛生兵では手に負えず、本陣の軍医を呼んでいるので少し待って……」


そう言う間に、夏侯惇は左目を手で押さえながら矢を抜いてしまった。

指の間から滂沱の涙のように幾筋も血が流れていく。

韓浩は各自が持つ応急用の布を出すと、患部にあてがった。


「まったく、時々、あなたには呆れます。

でも、よかった。一時は、目が覚めないかもしれないと、心配したのですよ。


それにしても、必死になると周りが見えなくなるのはとても危険な癖ですね。

今後は気を付けてほしいです」

不満と心配が混じる表情で、韓浩は伝えた。


「君には苦労ばかりかけて申し訳ないね。いつもありがとう。

だけど、もしもの時を考えて、あの東門は早く開けないといけなかったんだ。

皆にも、無茶をさせてしまって悪かったよ。

軍医が来たら、私は後回しでいいから、まず他の負傷者たちを診てほしい。


それにしても孟徳もうとく殿は早くに罠から脱出できたようでよかったよ。

無事に帰ってきてくれればいいのだが」


「豪運のあなたが強く願うなら、想いは届くかもしれませんよ。

では、私は引き続き指揮代理をしますから、あなたは安静にしていてください。


ここは簡易ではありますが逆茂木で囲ってありますから、最前線からは近いとはいえ、とりあえずは安全です」


「いや。片目が無くなっただけだし、君の補佐をできるなら、手伝いたいよ」

そう言って地面から体を起こしたとたん、押さえていた布の下から滝のように血が流れ出した。二人はぎょっとして手ぬぐいをあてがったが、それもすぐに赤く染まる。


「いくら元気そうに見えても、あなたは重症なのです。

それにその元気は、気が張って無理をしているから、出ているのだと思いますね」

「空元気というやつかい?」

「ええ、そうです。だからあなたはやはり、静かに寝ているべきです」


深刻に見つめる韓浩に圧されて、左目を押さえた夏侯惇は素直にうなずいた。

韓浩はやっと表情を緩めて呟いた。


「矢が、少しズレて眉間や額に当たっていたら、あなたはもう死んでいました。

それを思うと、やはりあなたは兵主神(戦いの神)の加護が篤いのだと思います。

今はその事に感謝して、助かった命を大事にしてください」


「わかった。心の底から君たちと運の良さにも感謝して、今は休ませてもらうよ」


韓浩は少し笑みを返し、すぐに立ち上がるとまた指揮へと戻って行った。


……これが戦線離脱というやつだ。自分の不甲斐なさを実感してつらいものだな。

それにしても、孟徳殿は大丈夫かな。きっと敵地で心細くなっているだろう。

本当に私の武運が篤いなら、それを譲れるように、そしてあなたが無事に戻るように、強く願おう……。


つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る