第139話 兗州・隻眼の将軍・兵卒の曹操 その1

八十八、八十九、と副将の韓浩かんこうはひそかに時を数えていた。


目の前の城門は、油壺が投げられ火矢が打たれ、すでに炎炎と燃え上がっている。

その高熱で顔は痛み、鋭い敵の矢はかすめ、最前兵用の重装鎧は慣れず動きづらい。

そして攻城兵器である破城槌はじょうついから離れない上司は無茶ばかりしている……。

この酷い現実から目をそらすために、韓浩は時を刻んでやり過ごそうとしていた。


それにしても、と韓浩は上司の背中を見ながら思う。


……近頃、この人には危険な事が起こりがちだ。今だってそうだ。

いくら元城主で門の弱点を知っているとはいえ、百の内に破壊しようだなんて。

こんな無理をして、なにも起こらなければいいが……。


韓浩は数える事を忘れていたが、破城槌の矢避け屋根の下で皆と息を合わせて鎖を引く事はきっちりと行った。


今までにない衝撃が腕に伝い、天に届くような大きな火焔を上げて東門は崩壊した。

一拍遅れて激しい熱風が巻き上がり、思わず顔を伏せる。


孟徳もうとく殿がいないっ!逃げる事ができたんだっ!」


まさかと思って顔を上げると、上司である夏侯惇元譲かこうとんげんじょうが破城槌の枠に乗り、敵の巣である城門奥をのぞいていた。


「馬鹿馬鹿っ」

韓浩は相手が上司であることを忘れて叫びながら、盾の中に戻そうと手を伸ばしたが、同時に、視界上部に鮮明な矢が一本、見えた。

その瞬間、神経が鋭敏に研ぎ澄まされる。


……来るっ。


思考ではなく、全身が危険を警告していた。

だが、あぶないっ、と叫ぶ前に、矢が刺さった顔面を押さえながら夏侯惇は鮮血を飛ばして倒れ込んできた。



呂布りょふ軍の兵卒に化けた少女は、鍵が壊れた扉の前で佇んでいる。

地図によると、この扉は濮陽ぼくようの市街地に続いているという。


鍵が壊されているのは、この混乱に乗じて呂布軍の兵が脱走したからだろう。

中には軍装を捨て、今までとは違う、新しい人生を選ぶ者もいるはずだ。


「あたらしい……」


理由を付けて護衛たちと離れ、今は一人だった。

兵卒に化けている自分は今、何者でもない。

かすかに震える手で、扉を開こうとした。


「きみも、逃げるの?」

そう背後から声をかけられて、ぎくりとして振り返る。


自分と同じ服を着た、痩せた少年兵が笑顔を浮かべていた。


「いや。違うよ」

兵卒に化けた少女は嘘をついた。

「鍵が壊れて戦火が街に流れると危険だから、ちゃんと閉めようとしただけさ」


「……そう」

「ねえキミ、さっきのような事は言ってはいけないよ。もしも誰かに聞かれたら、懲罰ものだぞ。気を付けたまえ」


「僕は、仲間から離れてここに来たんだ。その時点ですでに百叩きの刑さ。

でも僕はもう帰らないから、そんな規則は関係ないんだけどね」


「あ、そう。しかし、ここから逃げて、どこへ行くのさ?」

……なんなら一緒に遠くへ行くのもいいかもしれないな……。


曹操そうそう軍さ」

「……。なぜ?」

「僕は元々、曹操軍だったんだ。でも、気が付いたら呂布がここを乗っ取っていて、僕も勝手に呂布軍に入れられてしまったというわけ。だから、元の場所に戻りたいだけだ」


「ふーん。だけど、曹操軍なんて、どこがいいんだ?

曹操は出身が卑しいし、背が低い、不細工、嘘つき、残虐、軽率、粘着質だ。

それに法律や軍律に厳しくて、良い所なんてないじゃないか。

だからキミは兵士なんてやめて、違う仕事を探しなよ」


「それは、そうなんだけど」

「……。」

「でも軍の法律が厳しかったのは、よかったよ。

誰も、僕の食料を横取りしなかったからね。


それに僕は兵士を辞めても行くところがないよ。家族もいないし手に職もないし。

だから僕は兵士を辞められないんだ」


馬の嘶きが響いて、二人はハッとして音の方向を見た。

城壁の角から唐突に五騎が現れ、近づいてくる。

真ん中にいる将は、兜の羽飾りを優雅に揺らし、背負っている大戟も勇ましい。


「りょ、呂布様、だ……」

少年兵は震えながら呟くと、どこかへ逃げようと踏み出した。

だが、兵卒に化けた少女がその手を素早く取った。


「待て。今逃げると、逆に怪しまれる」

「でも、逃げだしたのがバレたら……」

「だからここは協力して、誤魔化すしかない」

二人はうなずくと、まだ将たちが遠いうちに深々と頭を下げ、拱手して迎えた。


「おい。お前たち、ここでなにをしていた?」

「はいっ。見回りを命令されて、ここにきました」

「ほう。それは気が利く。曹操が城門以外から脱出するのではないかと、ここも警備することにしたのだ」


「あとで褒美をやろう。お前たちはどこの部隊だ?」

少女が横目で少年に目配せすると慌てて答える。


「か、郝萌かくほうさまの部隊ですっ」


「うむ、わかった。二人とも、顔を上げてもよいぞ」


その心遣いに、兵卒に化けた少女は青ざめた。

……遠目ではよくわからなかったが、もしも陳宮ちんきゅうがいたら、終わりだ。


つづく

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